第一章《8》 ペルソンドとまゆり②
字というのは、難しい。
まゆりは、中学時代から高校時代にかけて、苦手な英語を勉強したときのことを思い出していた。福祉関係の勉強を始めたとき、心理学諸々の専門用語を覚えるのが楽しかった。だがそれも、基礎の基礎である、日本語を習得していたから、だ。もしあれらがすべて異国語だったなら、決して覚えられはしなかっただろう。
異国の言葉を覚えることは、まゆりにとって、とてつもない苦痛だった。
ペルソンドに字を教えて貰い、一日目。
まゆりは、こんがらがってきた頭を、軽くほぐすように両手でもみ込んだ。ヘッドスパはまゆりの好物だ。この世界では、自分でするしかないけれど。
昨夜、突然やってきたまゆりに対して、ペルソンドはあっさりと字の読み書きを教える旨を了承した。というか、断る選択肢をもてないのだろう。
まゆりは、向かい側に座っているペルソンドを見た。まゆりが書いた、基礎の基礎の基礎である字を、じっと見ている彼からの返事が、怖い。
「……ここですが、ここは一筆で書ききってください。こうです。こちらは、こう」
なるほど、とまゆりはすぐに復習をする。
今のところ、まだ覚えやすい。
ペルソンドは、次の仕事までの時間、つまり昼前まで、とても丁寧に教えてくれた。勉強時間が終えると、昨夜用意したという、基本の文字一覧を渡してくれる。五十音表のようなそれは、手書きだった、わざわざ作ってくれたらしい。
まゆりは、丁寧にお礼を述べて、部屋をあとにした。
部屋へ戻る途中。
螺旋階段の途中にある窓から、何気なく城下を見下ろした。
ひと際高い場所にある古城からは、遥か遠くの山々まで見渡すことが出来た。
とはいえ、見下ろせる部分のほとんどは森林だ。ぽつぽつと点在しているという村は見えないが、家々からあがる煙で場所はわかる。目を眇めて見てしまうほど、遠くにも煙があがっていた。
「あんなに遠くに村があるんだぁ」
リゼルはファルリア地方を治めているというが、ファルリア地方はどれだけの広さがあるのだろう。また、一つの村に――例えば、最寄りの村には、どれだけの人口がいるのだろう。
まゆりは、育った村しか知らない。
あと、帝都のなかをリゼルの馬車で走ったが、それだけだ。
「おや。どうしたんだい、まゆり」
上階から近づいていた足音で気づいていたが、リゼルのほうはまゆりがいるとは思わなかったらしい。驚いたように脚を止めた。彼の斜め後ろには、壮年の男が付き従っている。
「リゼルが治めてる村って、どんなのかなって思って。ここから見える、あの煙のとこでしょ?」
「そうだよ。気になるなら、見てきてもいいんだよ?」
え、と振り返ると、リゼルは「なぜ驚くんだい?」と言って笑った。
「勉強をさぼらなければ、あと、常識内で行動してくれれば、問題ないよ」
「村、見に行ってもいいってこと?」
「そう言ってるじゃないか」
リゼルの朗らかな笑顔に、まゆりもまた頬が緩むのを感じた。
「ふむ、とはいえ、初めての村は緊張するだろうから。使用人の誰かを連れて行くといい」
「ありがとう、リゼル!」
嬉しさからリゼルに飛びつくと、彼は揺ぎ無い体幹でまゆりと受け止めた。
「可愛いねぇ、まゆりは」
「初めて言われた」
「ふふ、私にとってきみは、可愛い弟子だよ」
いいこいいこ、と頭を撫でられる。
優しい手つきに、暖かい手。
なのに、無性にその手が硬く感じた。逃げ出したい衝動さえ覚える。それが何か理解したくはないし、確固たる名前をつけたくもない。
ただ、こうしてリゼルに頭を撫でて貰っていると、心が酷くざわめいた。
ペルソンドは、中庭にいた。
古城へ向かう際に歩いてきた道、その反対側に広い中庭がある。ペルソンドは、冬の寂しい木々の手入れをしており、その表情は気温と同じように冷たい。
よく見ると、彼が着ている上着は、通気性のよい夏物だ。もしかして、寒くて顔をしかめているのかもしれない。
「ペルさーん!」
軽く手を挙げて、彼を呼ぶ。
ペルソンドは手を止めて、周りを見回して──まゆりを見つけると、ほんの少しだけ、頬を緩めた。
「シューラー様、御用でしょうか」
ペルソンドは、歩み寄ったまゆりにそう告げる。
まゆりは、ペルソンドが整えている木々をちらりと見てから、本題へ切り込んだ。
冬場の少なくなった緑を、とても上手く剪定している。季節ゆえの侘しさを、魅せる方法で整えているようだ。庭師に関してまゆりはよく知らないが、そんなまゆりでも、ペルソンドの触った木々が美しく見えた。
「村へ降りようと思うの。ペルさんも行かない?」
「村、ですか」
(あれ?)
ペルソンドの表情が、元々無表情に近かったにも関わらず、感情が抜け落ちたようになる。
この話は、まずかったのかもしれない。
使用人と外出、と聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのがペルソンドだったが、ほかの使用人でもよいのだ。
まゆりは、笑ってみせた。
「無理にとは言わないし、お仕事とか優先してね! シズクさんたちに聞いてみる」
踵を返したまゆりを、ぐいっと掴む腕がある。驚いて振り向くと、慌てて腕を離したペルソンドが、口をひらいて、閉じた。
「ペルさん?」
「……彼女たちは、嫌がるでしょう」
「え、そうなの?」
どうして、と喉まででかかった言葉を、飲み込む。まだだ、まだ彼らとまゆりの距離は遠い。
「私がお供いたします」
「無理しなくていいよ? ほんとに、軽い気持ちで誘っただけだから」
「いつ頃向かわれますか? 身なりを整えて参りますので」
ペルソンドは、まゆりについてきてくれると決めたようだ。誘ったのはまゆりだし、しつこく遠慮するのも変だ。
まゆりは、なんだか気持ちの良くない違和感を覚えつつも、ペルソンドの時間に合わせる旨を告げた。
ならばすぐにでも、と手順よく準備を整えてきたペルソンドの表情は、やはり硬い。
二人並んで、村への道を徒歩でいく。
妙に、落ち着かない。ペルソンドとの外出が初めてだからか、それとも、今から行く村が初めてだからか。もしくは、別の何かか。
強引に、ある種の不安を抱く自分の感情を、振り払った。
古城から見た村は、ほとんど見えなかったけれど、なんとなく──なんとなく、温かみがあったように、思えた。きっと、見て置いて損はないだろう。
「先程はご無礼を致しました」
ふと、ペルソンドが言う。
なんのことだろう、と振り返ると、彼は視線をさげた。
「私ども使用人は、近隣の村の出身です。領主様にお仕えするために、捧げられた身。ゆえに、村の者たちからは、あまり快く思われていないのです」
「……えっと、どういうこと? 望んでリゼルのところで働いているわけじゃないの?」
「領主様が使用人を欲されたとき、村から村人を使用人にされるのです。そこに、村人の意志はございません」
「……それって、強制労働!?」
「領土を守って頂く民としては、当然の出仕です。ですが、村人の多くは領主様を恐れております。稀に自ら使用人になりたいと志願する者もおりますが、そういったものを領主様は採用されません。野心ある者は面倒だそうです。ゆえに、領主様自ら、適任の者を村人のなかより選ばれるのです」
(無理やりじゃないの、それ)
ふと、生贄や人身御供という言葉が浮かんだ。
ぐぬぬ、と黙り込んだまゆりに、ペルソンドは、やや戸惑いながらも、話を続けた。
「ほかの使用人たちの家族や恋人が、村におります。村に降りるのは、彼女たちにとって辛いことかと」
無理やり、恐れる領主に連れていかれた我が子や恋人を、どんな目で見るか。もしかしたら、シズクやリンには、夫だっていたかもしれない。
想像してしまって、まゆりは顔を顰めた。
「ごめん、私酷いことしてる。帰ろう」
「とんでもございません。それに、私には身内がおりませんので、問題ございません」
え、と目を見張ってしまう。
苦笑するペルソンドを見て、失礼な態度を取ってしまって自分を恥じた。
「……宜しければ、つまらぬ話をお話ししても宜しいでしょうか。村までの間の、時間潰しと思って頂けますか」
「き、聞きたいです」
ペルソンドは、遥か遠くにある村を眺めて、そっと、口を開いた。
「私の実家は、村を行き来する商人でした。この地方には、高価な魔法アイテムを販売するための組織がございまして、そのトップにおりました。……ですが、三年近く前に、私を除く家族たちは、遠縁も含めて粛清されたのです」
粛清。
物語で初めて聞いたその言葉が、この世界では現実に起こることだと、まゆりは知っている。歯向かうもの、罪を犯したもの、そういった者から、権力ある者がすべてを奪うのだ。──そう、あの、孤児院のように。
「しかし、それも当然のこと。我が家は、長年に渡り商人を束ね続けたがゆえに、己に力があるものと勘違いしたのです。粛清されて然るべき罪を犯しました」
「……何があったか知らないけど。罪の基準って、誰が決めるんだろうね」
ペルソンドは驚いたように目を見開くと、当然のように、答えた。
「領主様でしょう。あの方は、この地を数百年に渡って治めて下さっておりますゆえ」
「……罪の基準って、領主によって変わるものなの? なんだか、不正が横行しようだけど………………え。え? 数百年? そんなに生きてるの!? リゼルって!」
「魔法使いは、老いとは無縁と聞いておりますが」
「……初めて知った。わぁ、私も数百年生きるのかな、嫌だなぁ」
「嫌、ですか? 不死となるのですよ?」
「嫌だよ、私、普通に生きて、普通に暮らして、普通に老いて、幸せに死にたいの」
ペルソンドは、苦笑した。
だが、どことなく、いつもの遠慮がちな苦笑とは違う、優しさが浮かんでいた。
「それはまた、贅沢な望みですね。普通、ですか」
「私、強欲だからね!」
それからは、他愛ない話をした。好きな食べ物、お互いの年齢、ペルソンドがしている仕事内容、など。
そんな話しをしているうちに、最寄りの村へたどり着いた。
村というよりも集落だが、古城から見たよりも遥かに規模が大きい。
「こちらには、約二五〇の人々が暮らしております」
「看板とか、ないの?」
なんとなくだが、村の前には、村の名前が書いた看板などが置いてある印象がある。ファンタジーに夢を見すぎだろうか。
「ここは、隠れ里ですので」
「魔法アイテムを作ってるから、だよね」
「はい。貴重な材料もございます。領内へは、領主様の許可がないと出入りできない仕組みとなっているのです」
「……そんなに厳重なんだ」
ならば尚更、領内で起きた犯罪行為は、かなりの問題だ。誰も入ることが出来ないのならば、中の人間が犯人だという可能性もあるのだから。
村に点在する家々は、どれも簡素だが、まゆりが暮らしていた孤児院付近の家よりも、立派な作りをしていた。家屋自体が大きいし、家族単位で暮らすには十分な広さだ。雑魚寝が当たり前の、江戸時代のような民家が主流だった聖フロガン皇国の平民とは違う。
差を例えるならば、聖フロガン皇国は藁の家で、ここにあるのはレンガの家といったところだろうか。暮らしているのは、子豚ではなく人間なのだが。
どこが入り口かもわからないが、ここは村のなかだろうという場所までくると、人々が生活している様子が見えた。女性と男性の比率は同じほどで、子どもたちの姿も見られる。彼らが着ているチュニックは、絹とまではいかないが、美しい造りをしていた。見た目は普通のチュニックなのに、陽光できらきらと不思議な光沢を放つそれは、神秘的にさえみえる。
「綺麗な服」
「寒さの耐性をつけているのです。この村は耐性をつけるエンチャントに特化しておりますゆえ、村人にとっては、防寒着一式をそろえるより、安く済むのでしょう」
「……エンチャントに特化した村があるなんて」
昔、まだ学生時代にやったゲームを思い出す。結構、エンチャントをつけるのに切磋琢磨した記憶があるのだが、ゲーム離れも久しく、尚且つこの世界の常識諸々がいまいちわからないまゆりには、エンチャント村がどういった希少さなのか、わからなかった。
だが、隠れ里というからには、かなり希少な村なのだろう。
あちこちを見回しながら歩いていたが、ふと、突き刺さるような視線に気づいて、顔を向ける。十歳ほどの少年が、まゆりを睨んでいた。傍にいる女性もまた、まゆりと、そしてペルソンドを睨んでいる。
「……そっか、リゼルは嫌われてるんだっけ」
「恐れられておりますが、嫌われているというわけでは。村が安全であり、潤っているのは、領主様の采配と技量によるものですゆえ」
「でも、すっごい睨んでるし」
よくよく見れば、他の村人たちもまゆりを睨んでいる。
ここにいないほうがいいのかもしれない。彼らの生活の妨げになるのなら。
(まだ全然見てないけど、また出直したほうがいいかも)
まゆりは、苦笑してペルソンドを振り返った。
「ペルさん、帰ろう。また今度――」
ガツ、と石が地面に転がった。
(え)
石が転がってるということは、どこから飛んできたということだ。石を投げただろう幼い少女の姿があった。そして、目の前には額から血を流すペルソンドがいる。
(これって、なんか、えっと……映画とかで見たことあるやつ)
現実的にこんなことが起こるものなのだろうか。
なぜ、とか、なんで、とか、疑問は多々ある。けれど、今やるべきことは一つしかない。
「ペルさん、しゃがんで」
自分の額から流れる血を、指先で拭っていたペルソンドが、怪訝そうな表情をする。
「早く!」
急かすと、言われるままにペルソンドがしゃがみこんだ。こんなときのために、救急セットをポーチに入れて持ち運んでいたのだ。手早く傷口をぬぐい、付着した土を落として消毒し、ぺたりとガーゼを貼る。本当なら魔法で治癒したいけれど、リゼルに止められているために使用は厳禁だ。師匠の言葉も守れない弟子など、まゆりならば破門する。
「ありがとうございます」
ペルソンドが礼を述べる。まゆりはそれを軽く流して、少しだけ、きつい口調で告げた。
「心当たりは?」
「……私は、裏切り者ですゆえ」
予想外の言葉に、え、と目を丸くする。
ペルソンドは言いにくそうに、言葉を続けた。
「身内が粛清され、私だけが生き残ったのです。領主様に引き立てて頂き、命拾いを致しました。私は、家族を見捨てたも同然なのです。両親が、妹が、粛清されるのを黙ってみているしかできなかった」
圧倒的な力の前では、それが普通である。
だが、それがこの村で行われたことで。一人だけ生き残った青年が、家族を殺した相手に仕えていると知ったとして。この村の人たちは、ペルソンドのことをどういった目で見るのか、容易に想像できる。
「ララちゃんを返してっ!」
悲鳴にも似た言葉が飛んだ。先ほど石を投げた少女だ。慌てて、少女の口を押える母親らしき人の姿がある。彼女はまゆりに気づくと、娘を強引にしゃがませて、二人して地面に頭をこすりつけた。娘のほうは、いやぁと身体をくねらせているけれど。
まゆりは、母娘のもとまで歩み寄った。
「どうして、石を投げたの?」
「ララちゃんを殺したからぁっ」
「やめなさいっ、も、申し訳ございません」
少女は、まだ幼い。八歳か、その前後ほどだろう。
まゆりは少女の前にしゃがむと、首をかしげて、問う。
「ペルさんが、そのララちゃんを殺したの?」
「そうだよっ、みんな言ってる。あいつが裏切ったから、シシードさんたちが殺されたんだって」
「シシードさん?」
ペルソンドに目で問うと、父です、と答えた。
(んー?)
よくわからない。
「どうして、ペルさんがペルさんのお父さんを殺すの?」
「生き残るためだよっ、助かりたいから身内を売ったんだ!」
「その真偽はともかく、今ここで石を投げて、ララちゃんは返ってくるの? ペルさんが、そんな魔法を使えたりするの?」
何かを言い返そうと口をひらいた少女だったが、まゆりを見るなり、ひっ、と声をあげて後ろへ倒れ込んだ。
まゆりは、酷く冷めた気持ちになっていた。
怒りではなく、呆れでもなく、心が乾いているのだ。
「一つ目、ペルさんが身内を売った確固たる証拠があるのか。二つ目、今のあなたの行いでララちゃんが返ってくる望みがあるのか。それから、三つ目。今の行動は果たしてどういった意味なのか理解しているのか。ペル、彼女の行動は、罪ではないの?」
「はい。シューラー様への冒涜は、大罪でございます。すぐさま領主様へ報告いたしましょう」
母親の顔色が、みるみる青くなる。
呼吸さえ乱れているのが、目に見えて明らかだ。
まゆりは、少女を見つめた。まゆりを見たまま震えている彼女に、先ほどまでの威勢はない。
「あなたの行動で、あなたの家族が罪人になるかもしれない。もし、ペルさんがあなたの大切な人の仇だとしても、こんな石を投げるなんて愚かな真似をどうしてするの。もっと策を練りなさい、確実にけり落とし、すべてを奪う策を」
少女は、がちがちと歯を鳴らしていた。
これで、彼女自身がしたことについて、反省してくれればいいけれど。
人の心は、複雑だ。何が正しくて、何がよくないのか、人によって基準が違うし、そのときの感情によっても変わってくる。
だからこそ、律することは大切で。
自分がやりたいことを、望むことをやるのは素晴らしいことだろう。だが、その結果がどうあれ、周りを巻き込むことになるのならば、ただの愚行でしかない。
それは、この世界だけではなく、日本でもそうだった。
私はこうだから、俺はこうなんだ、僕はこう思うから。
それぞれの意見が錯誤する福祉現場において、正解など存在しない。そのなかで、自分のなかの確固たる部分を研ぎ澄ませて仕事に従事するのだ。福祉支援は、チームで行う。継続的に、行う。だからこそ、それぞれの信念以上に、情報共有が大事になってくる。
「事実だと確信がないのならば、思い込まないこと。事実だとしても、その行動の意味を考えること。……自分に都合がいいように、解釈しないこと」
まゆりは、言い聞かせるように告げると、身体を起こした。
「今回は、見逃してあげる。だから、もう、自分だけで動いては駄目だよ」
まゆりは、額を地面にぐりぐりこすりつける母親の傍を通りすぎた。ついてきたペルソンドに、謝罪する。ペルソンドは、意味がわからずにうろたえているようだ。
「あの子を罰したくないの。額の怪我、痛かったでしょうに」
ペルソンドは、口をひらいて、閉じた。なんと言っていいか、考えあぐねている。そんな彼を見て、少しだけ笑う。
ややのち、ペルソンドが告げた。
「……シューラー様も、苦労されてこられたのですね」
まゆりは、その言葉に肩をすくめた。返事はとくにしない。なんと答えるべきか、わからなかった。
村を見て回ってわかったことだが、まゆりは警戒されているということだ。ペルソンドを見る村人たちの目は、怒りに燃えている。歓迎されていないどこか、やはり、嫌われているような気がする。
(リゼルは、どんな統治をしてるんだろ)
いずれ知ることになるだろうけれど。
こうして見て回る村は、潤っている。食べ物も潤沢に売っており、痩せている村人はおらず、幼子から高齢者まで助け合って生きているように見えた。衣類も来ているし、住む場所もある。衛生面も、管理されているようだ。顔をしかめるような匂いもしないし、人々の顔色もよい。
ふと、ある家族を見た。
子ども二人と、両親、そこに祖母らしき者がいる。五人そろって、庭先で薬のようなものを煎じていた。笑い声が飛び交うのは、その家族がまゆりたちに気づいていないからだ。
仲の良い家族だ。
ある日唐突に、家族の一人が領主の使用人に命じられたら、どんな気分だろうか。
大切な人を奪われたと、苦しむだろうか。けれど、恩恵を受けていることも事実であり、権力者に歯向かうこともできない。そんな、彼らの感情は、どこへ行くのか。
ふいに、脳裏に孤児院で一緒だった兄弟たちの顔が浮かんだ。
身体が脱力感に襲われて、足元がふらつく。ペルソンドが支えてくれるが、頭のなかがすぅっと冷たくなるような錯覚を覚えた。
(……もう、いないんだよね)
みんな。
どこにも。
透だけは、もしかしたら、どこかに生きているかもしれないけれど。
まゆりは、体調不良を理由にして、古城へと戻った。逃げ帰るように見られたくなくて、変なプライドが、まゆりの歩みを遅くさせた。
その夜、なかなか寝付けずにいたまゆりは、ベッドから起き上がって窓の外を見た。
ここから村は見えない、方向が違うからだ。見えるのは、巨大な闇の塊のような森林だけ。
(なんか、違和感)
胸の奥が、からっぽになったかのように、何も感じないのだ。
何か、魔法にでもかかったのだろうか。リゼルに試されているのかな、と思いもしたが、すぐに首を振って自嘲した。
身体の、腹の奥から、突き動かす衝動があった。
――事実だと確信がないのならば、思い込まないこと。事実だとしても、その行動の意味を考えること。……自分に都合がいいように、解釈しないこと
何を、偉そうなことを言っているのだろう。
どれだけ普通を願っても、静かな生活を望んでも、心の底ではあの頃に帰りたいと思っている。まゆりが育った孤児院で、みんなに囲まれる暖かな日々に戻りたい。
リゼルは、どうして助けてくれたのか。
どうして、みんなを助けてくれなかったのか。
どうして、聖フロガン皇国は自国の民を殺せるのか。
なんで。
どうして。
どうして!!
まゆりは、どうしようもない凶暴な感情を抱えたまま、部屋を出た。陰鬱な部屋に一人でいたら、憎悪に取り込まれてしまう。押し殺してきた感情は、確実にまゆりのなかに居座っただけで、決して消えてはくれないらしい。
苦しい。
苦しい、苦しい、苦しい。
死にたかったとは思わない。けれど、助けられた皆を見殺しにしたリゼルへの憎しみもまた、確かにある。
力が欲しい。
けれど、それはなんのために欲するのか。
平穏が欲しいから。弱い人たちを守りたいから。それとも、力を得て――復讐するために?
聖フロガン皇国に?
リゼルに?
自分自身に?
どす黒い感情が、まゆりのなかで怒る竜のように暴れまわる。出口のない自問を繰り返し、答えのない問いに歯を食いしばる。
「シューラー様?」
いつの間にか、厨房へ来ていたらしい。
無意識に、水を飲んで落ち着こうと思っていたようだ。
ペルソンドは、いつも通りの乱れのない衣類と髪型をしていた。夜なのに、律儀なことだ。
「どうか、なさいましたか」
駆けてくるペルソンドの表情は、これまでに見たことがないほどに、慌てている。一体まゆりは、どんな表情をしていたのか。
なんだか、身体から力が抜けた。
おかしくて、笑ってしまう。
笑みと同時に、涙がこぼれた。
(なんで、皆が殺されなければならなかったの。なんで、リゼルは助けてくれなかったの)
その考えは、一方的なものだ。
まゆりが勝手に都合のいいように、望んでいるだけだとわかっている。
聖フロガン皇国には国の、リゼルには彼個人の都合がある。
ふいに、おそるおそる、肩に触れるぬくもりがあった。狼狽した様子のまま、おそるおそるまゆりの肩を撫でるペルソンドがいて、ますます涙があふれた。
乾いた心は、彼の手から伝わってくるぬくもりに、満たされた。
狂気はまだ体の中にある。
でも、それ以上に、「今」を感じた。
まゆりは、人だ。
感情がある。
きっと、ペルソンドにも――リゼルにも。
明日から、また頑張ろう。
力が欲しい、それは紛れもない事実だ。
なんのためにかは、はっきりとした答えは出ないけれど。
だから、今だけは。
涙を、流させてほしい。




