第一章《7》 ペルソンドとまゆり①
手のひらをふたつ合わせたほどの木箱から、包帯や消毒液、ガーゼ、そのほか必要な手当道具を取り出した。
孤児院では手に入らない、高級な治療道具だ。孤児院近所に唯一いた、町医者のラーでもこれだけの手当道具は持っていないだろう。
なんと、消毒液からエタノールのような、つんとする匂いがするのだ。不快ではない、質の良い消毒液の匂いにまゆりの胸中は、複雑だった。
やはり、あるところにはあるのだろう。
ふかふかのベッドも、治療用の消耗品も、美味しいごはんも。
まゆりは、軽く考えを振り払って、すぐ傍の椅子に腰をかけている痩せた青年を見た。机に腕を置いて、俯き加減に身をすくめている。
まゆりは、彼の隣に座ると、失礼するね、と一言告げてから、腕に触れた。
青年の──ペルの、身体がはねる。
「……や、やはり、結構です」
彼は、まゆりから自分の腕を遠ざけた。視線は下を向いたままで、顔色は青い。
具合いが悪いのか、元々こういう顔色……と、いうことはありえるのだろうか。
「すぐに終わるから。……こんな、怪我をするほど強くぶつけなくていいのに」
ペルは、本棚に飛ばされた際、左肩を負傷した。
最初は、まゆりも気づかなかったが、リゼルがまゆりとペルを部屋から追い立てたあと、やけに左肩を庇っているの目に付いたのだ。よく見ると、衣類に血が滲み出ていた。
まゆりは、リゼルに言おうとしたが、ペルに当然のように拒絶され、まゆりが手当をするという案で妥協してくれた。
ペルは、やや難色を示しながらも、まゆりにされるがまま、手当を受けてくれる。
「怪我はこれでいいと思うんだけど、骨までヒビが入ってたら大変だし。ちゃんと治療を受けた方がいいよ。やっぱりリゼルに言って、お医者さんに見てもら──」
「結構です!」
声を荒らげたペルは、すぐさま我に返ったように目を伏せて、謝罪を口にした。
「申し訳ございません、ご無礼を致しました。処分はいかようにも」
「……ん、や、ん? 私は、ただの居候だから畏まらなくていいのに」
至極当然のことを告げたまゆりに、ペルは首を横に振る。
「シューラー様は、領主様の弟子でございます」
「シューラー、って、弟子って意味? だよね? そのつもりで聞いてたんだけど」
「はい。白銀のシューラー様、と今後は呼ばれることとなるでしょう」
「そう、専門用語はよくわからないから、覚えないと。でも、一緒に暮らすんだし、まゆりでいいよ?」
「恐れ多いことでございます」
「……そっかなぁ。ペルさんは、ペルさんって名前なの?」
「ペルソンド、というのが名前でございます。私は、この屋敷で働かせて頂いている身。ご命令は、なんなりと」
「……了解」
なぜ働くことになったのか、気になるところだ。リゼルのペルソンドへの対応は、冷ややかなものに見える。
ペルソンドは、望んでここにいるのだろうか。怪我さえ言えないような職場で、働くことに苦痛はないのか。労災とまでは言わないし、むしろ労災というよりもパワハラに等しいのだが、この世界では身分が重要であることもまゆりは知っているつもりだ。
ここでの生活は、苦痛ではないのだろうか。
問いたいけれど、まだ打ち解けていない現状、そのまで込み入った話をするのは憚られた。
「しばらく、仕事休んだら? もしくは、負担の少ないものにするとか」
「……もともと、さほど負担はございません」
そういうことでもないのだけれど、と思ったまゆりに、ふと、ペルソンドが自嘲気味に笑う。
「領主様がお戻りになられた今、領地の管理は領主様が、補佐は使い魔様がなさることとなっております。私は、雑用をこなすだけですので」
使い魔様、というくだりに、んんん? と思いつつも、そこは今、さらっと流す。
「いつも、補佐として管理してるんじゃないの?」
「今回は、特殊な例でした。領主様が戦に招集されることは、私がここに来てからは、ございませんでしたので」
つまり、戻ってきたから雑用に戻れ、ということか。やはり、充分な管理方法や報連相についての教育もなく、突然仕事を押し付けたのだ、リゼルは。
そう考えると、嫌な気分になる。
まゆりは、むすっとした。
「……シューラー様?」
「あ、はい」
「どうかなさいましたか?」
「なんでもないよ。ペルさんは、ここで働いて長いの?」
「三年目でございます」
「そう、私来たばかりでわからないことだらけだから、色々教えて欲しいかな、って」
「なんなりと」
「ありがとう」
ペルソンドが、少しだけ目をみはった。
まゆりは、その意味がわからず、なんとなく、笑みを返した。
到着した日、リゼルがペルソンドを叱責したり、彼の手当をしたりした、その夜。
部屋にいたまゆりは、夕食を運んできたシズクを見て苦笑した。どうやら、食事は皆で取る訳ではないらしい。映画で見たような、中世ヨーロッパ貴族を想像していたまゆりは、大きなテーブルに行儀よく座るイメージを打ち消した。
トレーではなく、カートで運ばれてきた食事は、ビュッフェのように煌びやかなわけではない。だが、孤児院にいたころからは想像ができないほど、豪勢だ。種類は勿論、味付けも多種に渡り、貴重な香辛料も使用されている。何より、お腹いっぱいになる量があった。
残すと勿体ないので、無理やり全部お腹の中に押し込んだ。
その間も、シズクはまゆりの傍に控えている。じっと見つめられての食事は、ややつらい。「一緒に食べない?」と誘ってみたけれど、あっさりと謙虚に拒絶された。
満腹のお腹を撫でるまゆりの前で、シズクが食器を片付け始めた。
「シューラー様。夕食ののち、お部屋へ来るように領主様より伝言を預かっております」
「あ、はい」
(今から? うーん、先に教えてほしかった。お腹いっぱい食べちゃったけど、大丈夫かな)
よいしょ、と起き上がって、上の階へ向かう。
もし、過酷な体力トレーニングとかが待ち受けていたら、リバースしてしまう。それだけは避けたい、なぜならば勿体ないからだ。
リゼルの部屋のドアをノックし、返事を待ってから入った。
書斎机についたリゼルは、鷹揚に微笑んでいる。彼のすぐ両脇に、やたら鋭利な目をした少年と、ふんわり微笑む背の高い壮年男性がいた。
「やぁ、来たね」
「うん、魔法の練習始めるの?」
ずばりと聞きたいことを聞いたまゆりに、リゼルは肩をすくめた。
「それがね、暫く、領地への視察や確認に手間取りそうなんだ。もちろん時間を作ってきみを育てるんだけど、それまでの時間が勿体ない。予習をしておいてくれるかな?」
長身の壮年男性が、まゆりの元まできて分厚い本を差し出した。
本を男性を見比べる。やたらふわふわな笑顔が嘘くさいその男性は、背が高い分威圧感も半端なかった。まゆりが、どうも、と告げながら本を受け取る。
「基礎の基礎だけどね、ざっと目を通しておいてくれるかい?」
「うん、そうする。リゼルは大丈夫なの? その、忙しくなりそう、な、感じだけど」
くるり、とリゼルの瞳が輝いた気がしたした。
ついで、口の端が弧を描く。
「まぁね、でも大丈夫。任せておいて。ここ三日ほどは時間を取れないから、早くても三日後の夜から、授業を始めよう」
「うん、よろしくお願いします」
本を抱きしめたまま、ぺこりと頭をさげる。
リゼルが、苦笑した。
「きみは面白いねぇ」
「え?」
「きみを弟子にしてよかった、ってことだよ。ああ、そうだ。一応紹介しておこう。この小さいほうが、リュースで、大きいほうがヴェンダーだ。どちらも私の使い魔でね、私が死なない限り献身的に尽くしてくれるんだ。きみもいずれ、使い魔を使役できるほどの魔法使いになれるよう頑張って」
「うん、リゼルの恥にならないように、全力で頑張るから」
微笑むリゼルに退出許可をもらって、まゆりは部屋に戻った。
シズクの姿はなく、まゆり一人だ。ベッドへ座ってから、初めて渡された本を開く。
「……げ」
読めない。
そうだ、この世界の文字は日本とは違うのだ。
まゆりは、こちらの世界では、勉強という勉強をしてこなかったため、当然ながら字の読み書きができなかった。当たり前のことだ。日本で生まれたとしても、文字の勉強を無くして読み書きは出来ない。言葉は、まぁ、生活しているうちに覚えるにしても。
(困ったなぁ)
魔法について、まゆりは全くの素人だ。とか、それ以前の問題が起きてしまった。
字の読み書きが出来ない。これは今後生きていく上で――孤児院での穏やかな生活へ戻れない以上、激しく困ることである。
まゆりは、ため息をつく。
リゼルに、字の読み書きが出来ないと素直に告げてもいいけれど、どうもあの書斎に戻りたくなかった。使い魔の二人がとっつきにくい雰囲気を発していたこともあるが、それ以上に、領地内での不穏な出来事に対して動いているリゼルの手を、煩わせたくなかった。
字も読めないのか、と呆れられえるのも腹立たしいし、ないとは思いつつも、そんな馬鹿な弟子いらないと師弟関係を破棄されたら、と考えてしまう。
ならば、リゼル以外の者に教えて貰えばいい。
まゆりは、本を枕の下にしまいこんで、部屋を出た。シズクは、一階の厨房にいた。明日の料理の仕込みをしているらしい。シズクのほかに、馬のバンを繋ぎにいったリンという使用人もいた。二人ともまだ若い、十代後半ほどだろう。
「あの、シズクさん、と、リン? さん」
声をかけると、びくりと身体を震わせた二人が一斉に振り返った。まゆりに気づくと、すぐに身を屈めて、権力者に対する姿勢をとる。
「御用でしょうか、シューラー様」
「ええっと。あのね、字の読み書きを教えてほしいの」
シズクが、目をぱちくりさせて、隣のリンを見た。リンもまた目を見張っている。
二人とも大人しい見目のまま、静かな声で返事をした。やや震えているのは、寒いからではなく、怯えているからだろう。
「申し訳ございません、シューラー様。私たちは、字の読み書きができません」
「あ、そっか」
確かに、字の読み書きができるとなれば、それなりに教育を受けた人物でないと難しい。彼女たちがどこの者かは知らないが、有力な貴族の娘というわけではないのだろう。
ならば、彼女たちはどこから来たのか。
怯えている様子からも、望んでリゼルに尽くしているようには見えない。
沈黙をどうとったのか、シズクが焦ったように口をひらいた。
「ペルソンド様でしたら、字の読み書きが可能です」
「そうなの?」
「はい」
シズクが言葉少なに答えた。
ふむ、と考えるが、考えるまでもなく、まゆりがとる選択肢は一つだけだ。
ペルソンドに字の読み書きを教えてもらおう。
「彼はどこにいるの?」
「ペルソンド様のお部屋かと。私たち使用人の部屋は、二階の奥にございます。ご案内いたしましょうか」
「ありがとう、お願い」
シズクに案内してもらい、使用人室があるという二階の廊下をいく。
女性たちは大部屋らしいが、唯一の男性使用人であるペルソンドは一人部屋だという。まゆりの部屋がある階に、ここまでの部屋はない。こうして廊下を歩くだけでも、ホテルのように両側にドアが続いているの二階は、一体どれだけ広いのか。
やがて、シズクはある部屋の前で足を止めた。
ドアに、「使用人室」とプレートがかかっている。
シズクが取り次いでくれるかなぁと期待していたが、あまり関わりたくないのか、シズクは足早に去って行った。
「……よし!」
まゆりは気合を入れて、ドアをノックした。




