第一章《3》 幸運のケンタウロス
リゼルが納める領土は、遥か西に存在した。
今のご時世、あちこちで火種が燻り、安全な場所などないと思っていたまゆりだったが、リゼルに見せてもらった地図は、この世界に来て初めて見る広大さを、遥かなる正確さで記載していた。
その地図から察するに、戦火は国境の一部にしかなく、内陸と西方は比較的安全圏のようだ。あくまで、ヴァルギス帝国を中心に見た場合、という条件下での判断だが。
ヴァルギス帝国は、モーブル大陸の四分の一を領土に置く大国だという。まゆりが暮らしていた聖フロガン皇国は、自国はとてつもなく古い歴史を持つ由緒正しい老舗を歌っていたが、帝国と比べると赤子のようなものだ。
むしろ、聖フロガン皇国が誕生したのは、日本で言う江戸時代後期となんら変わりはない。由緒あるといえばあるだろうが、せめて平安時代からありました、くらいではないと、近代的な匂いは漂うものだ。
実際、ヴァルギス帝国へ来てから、まゆりは古の香りに随分と魅了されつつあった。どこがいいかと聞かれれば、「あの建物のパルテノン神殿っぽいところ」くらいしか答えられないけれど。
馬車の窓から身体を乗り出したまゆりは、ふとあるモノに気づいて、広げていた地図をリゼルに押し渡した。
「あれは、なに?」
王都を出たばかりの馬車は、広がる草原に真っ直ぐ伸びる道を進んでいる。
無駄に広い王都を出るまでにも時間を要したが、やっと王都を出たと思えば、広大なる草原が広がっている。
北海道みたい、とそんなふうに考えていたまゆりは、草原の真ん中に、一頭の生物を見たのだ。生物という言い方しかできないのは、なんと表現してよいかわからないためだった。
シルエットでいうと、人間に近い。二足歩行なのだから。けれど、全身を覆うもふもふとした毛皮は獣のもので、猫に似た長い尾を空中で制止させている。頭は犬だろうか。
「珍しいものを見たねぇ」
地図を押し付けられて、ちょっと! と不満そうな声をあげたリズルだったが、まゆりの視線を追うを笑みを浮かべた。
「あれは、ケンタウロスだよ」
「え。……えっと?」
「ケンタタウロス」
(せめて、ミノタウロスでしょ)
まゆりの知っているケンタウロスは、人と馬がくっついた生き物だ。つまり、馬の背中があってしかるべきなのに、草原に直立不動で立つ者は、二足歩行だ。馬車から見えない部分に馬の部分があるのかも、と思った瞬間、ケンタウロスは風を全身で感じるように両手を広げて、身体をひねった。
残念ながら、馬の胴体はくっついていなかった。
「あはは、貴重だから驚いているのかい?」
「貴重だからっていうか、見た目が、ほら。思ってたのと違うから、つい」
「思ってたのと? ……まゆりは、ケンタウロスをどこかで見たの?」
やんわりと聞いてくるリゼルの言葉からは、そこはかとなくまゆりを疑っているような響きがある。ヴァルギス帝国の皇帝に丁寧な言葉で話した辺りから、彼はまゆりに対してやや疑念を抱いているようだ。
もっと念入りに調べてから弟子にしろよ、と思わなくもないが、そう言うと「じゃあ辞めるー」とか言われても困るので、まゆりからは何も言わない。
利用価値のある者は、余計な詮索をしてはならない。デメリットが多くなれば、利用価値が下がるからだ。
「見てないよ。ただ、ケンタウロスって名前は聞いたことがあったから」
「ああ、なるほど。確かに神話によく出てくるからね。でも、現在のケンタウロスたちにかつてほどの力はない。まぁ、確かに多少の幸運は持ってきてくれるけれど」
「……幸運?」
「うん。かの大英雄王は、ケンタウロスと共に戦に出たため、傷ひとつどころか戦士の一人さえ死なずに大国との戦に勝利を収めたっていうだろう? まぁ、それも所詮は神話なんだけど。実際、彼らと遭遇すると幸運が舞い降りるっていうのは、ジンクスの域をでないんだよねぇ」
なにそれ、とまゆりは思わずケンタウロスをガン見してしまう。戦に出て、死人を出さずに大勝利に導くくらいの強運を与えてくれる――そう、解釈してもよいのだろう。
まゆりには初耳だったが、まゆりはこの神話からケンタウロスの知識を得ていたのだと思ったリゼルは、まゆりが神話を知っているテイで話を進めた。
「まぁ、あの神話はあながち間違いじゃないみたいだ。ケンタウロスは確かに幸運を運んできてくれる。けれど、それは些細なものでしかない。かの大英雄王が勝利を収めたのは、彼が優れていたからさ。神話は美化されたに過ぎない」
「まるで、見てきたような口ぶりだね」
リズルは、口元を歪めて肩をすくめた。それがどういった意味かわからないけれど、いや、意味などないのかもしれないけれど、まゆりは追言はせずに、視線を再びケンタウロスへ移した。
(あ、目が合った)
気のせいではないだろう。
馬車の音に気づいたケンタウロスがまゆりたちを見た瞬間、はた、と目が合ったのだ。だからどうということではないけれど。なんとなく、流れ星を見たときのように体が強張ったあと、思い切り願い事を呟いた。三回。
(透と会えますように、透と会えますように、透と会えますように)
ついでに、二拍手もしておく。さらに軽く一礼して、満足げに顔をあげた。けれど。
「あれ、なんかあいつ、こっちに近づいてきてない?」
ケンタウロスが、歩いて――いや、走ってくる。徐々に勢いが載ってきて、いつの間にか、単距離ランナーのように両手を振っていた。
「はやっ、ちょ」
リズルを振り返ると、彼は手のひらを空中にかざして何かを呟いている。
やがて。
「――『速度強化』」
彼が呟くと同時に、空気が少しだけ震える。まゆりの身体のなかを、微かな熱が駆け抜けた。
がたん、と馬車が揺れて、まゆりは、窓側から馬車のなかへ転げ落ちた。リゼルが受け止めてくれる。彼は柔和に目を眇めていた。
「大丈夫、追いつけないよ」
「え?」
「うん? ケンタウロスは、人を襲うんだよ。草原にいたのも、王都から出てきた商人や旅人を襲うためじゃないかな」
「……だって、幸運だ、って」
「そう。希少だし。遭遇してもほとんどの人間は襲われて死ぬからね。あはは」
何が、あははだ、とまゆりは眉を吊り上げた。
窓の外では、すさまじい速さで景色が過ぎていく。まるで映画を早巻きで見ているようだ。まゆりは一度深呼吸をして、ケンタウロスの件は頭から放り出した。この世界で生きていくには、細かな疑問は考えないに限る。
「馬車が早いのは、リゼルの魔法だよね」
「そうだよ。惚れ直したかい?」
「うん? ……うん」
「ええー、その返事は傷つくなぁ。はっきりと――」
「これって、馬車が早く動いてるってことだよね。さっき振動もきたし」
「……まぁ、そうだね」
「馬を早く動かしてるってこと? それとも時間を?」
「時間を操るなんて、かの天異術を扱う魔法使い並みにレアだよ。馬を動かしてるんだ」
まゆりは口をひらいて、閉じた。
速度強化、とリゼルは言った。
馬の足を疲れ知らずにさせているということだろうか。それとも馬自体をバーサーカーのように狂わせているのか。
できれば、速度だけを都合よく早める魔法が存在するのだと思いたい。なぜならば、それはすなわち、無敵に匹敵する都合のよさがあるからだ。馬を操ると、馬が疲れるデメリットがついてくる。もしそういったデメリットがあるのなら、これだけの速さで走り続けた馬は、数秒もたたないうちに倒れるはずだ。
だが、リゼルに不安そうな表情はない。
馬はこのまま走り続けると知っているのだ。
どのように馬を早く動かしているのだろう。馬たちは、早く動かされていることに気づいているのだろうか。そもそも、この馬車内の安定感はなんだろう。重力でぐらぐらと揺れ続けてもいいものなのに、大きく揺れたのは最初の一度だけなのだ。
「きみは、とても勤勉な弟子になりそうだねぇ」
ふふ、と笑いながら告げたリゼルの言葉は、考え込んでいるまゆりには届かなかった。
魔法は万能ではない。
リゼルは、聞いてもいないまゆりにそう告げて、三度目の野宿の準備を始めた。帝国内にある町へ寄り、宿を取ればいいのにそれをしないのは、面倒くさいという理由かららしい。
領主が挨拶にきたりするし。魔法使いについて説明するのも面倒だし。気楽なほうがいいし。ということだ。
まゆりは、リゼルがどこからともなく取り出した食料を、簡易の野営地で、簡易にさばいていく。孤児院でも料理はしていたし、貧乏今生が染み込んだ身としては諸々の再利用もお手の物だ。
日本にいたころ、アウトドア派の友達に連れられてキャンプに行ったときを思い出す。キャンプ場にお金を払って入るのに、あえて古いタイプのテントを持っていく辺り、まゆりには理解不能の世界だった。立派なテントも売っているし、バンガローだってあるのに、あえて旧式のテントを張る友人。しかも、旧式なだけで決して安いわけではない。耐久性においてかなり優れているということだった。
それをまゆりが言うと、友人は「バンガローとか、それ禁句だからっ! 良さを理解して!」など無茶を言ってきた。今となっては懐かしい記憶だ。
「きみは、料理も出来るのか。うんうん、よいねぇ」
「出来るってほどじゃないよ。簡単なのだけ。それに、それを聞くの三日目だから」
まゆりは、リゼルの言葉に律儀に返事を返しながら、夕食を手渡す。まゆりが簡単にしか作らなくてよいのは、食材自体の鮮度がよく、無駄な下ごしらえが不要なためだ。一からすべてを行うとなると、また別の工程が増える。加えて、魔法で出し入れ自由な調理道具もまた、便利アイテムだ。
この世界にきて、ステンレス製の鍋をどれだけ羨んだことか。
リゼルが取り出した鍋もフライパンも、どれも使い勝手がよく、火の通りもいい。やはり、あるところにはあるのだ。便利な道具が。
リゼルと二人、焚火を間に挟んで座り、夕食にする。リゼルは気まぐれで、こうして焚火の傍で食べることもあれば、馬車のなかで食べるときもあった。
まゆりは、自分で作った魚のムニエルと野菜のスープ、薄く切ったパンに溶かしたバターを垂らしたもの、を食べながら、考える。
リゼルといると、すべての行動が試されているように感じてしまう。魔法使いの力量としてではなく、まゆり個人の知識を推し量っているようだ。
だが、それらすべてが、まゆりの誤解である可能性も高い。
居心地が微妙に悪い夕食を終えて、焚火の始末をする。
大きなあくびをしつつ、リゼルは馬車のなかへ戻っていく。その前に、まゆりを振り返った。
「今日こそ、なかで一緒に寝よう。外は危ないよ」
「この辺りは、危険な生き物がいるの?」
「そうじゃないけど。体の疲れだって、取れにくいだろう? 私と一緒に寝ればいいじゃないか」
「やめとく。ここで寝る」
この二日間、まゆりは馬車の外で眠っていた。夜中に馬車は走らせず、野営地を決めてぐっすり眠る工程を取るらしい。
「そう? まぁ、無理強いはしないけど」
リゼルは、すでに見慣れた肩をすくめる仕草をして、馬車へ乗り込んだ。
まゆりは、諸々の片付けを終えてから、地面に横になる。
本日の野営地は、森のなかを真っ直ぐに通る一本道、そこから川辺に逸れた場所だ。ごろんと寝ころんだまゆりは、空に視界いっぱいの星々を見て、目を細めた。
閉鎖的な森での野営では見れないが、こうして開けたところで見上げると、満開の星を見ることができる。
(綺麗、本当に……綺麗)
心が穏やかになるのは、どうしてか。海や空など、大きすぎる存在は自分のちっぽけさを思い出させてくれるが、夜空もまたそうなのかもしれない。
うとうとし始めたまゆりだったが、ふと、意識を浮上させた。
寝る前には、トイレに行っておかないと。
孤児院で弟たちに促したのを思い出して、くすりと微笑む。
まゆりは、もぞりと起き上がると、トイレを済ませるために、馬車を離れて森のなかへ入った。