第一章《2》 まゆりの存在
目覚めてすぐの身体は、途方もなく重くだるい。足の震えや鈍い感覚は、すぐには戻らないということで、まゆりはリズルが用意した椅子で移動することになった。
車椅子、とは少し違う。魔法使いが作り出した魔法道具で、かなり高価な代物だという。座れば自然と空中に浮かび、思った方向へ移動する。速度制限がついており、不用心な事故も防げる優れものだという。
まゆりは、そんな魔法の椅子にちょこんと座って、リズルの斜め後ろを進んだ。王宮の廊下は、まゆりが想像していた絢爛豪華な廊下よりも、数十倍煌めいていた。貧相な想像では、赤い絨毯が敷かれているだとか、デザイン性のよい柱があるとか、それくらいが限界だったのだが。
実際の王宮の廊下に、赤い絨毯はなかった。
石畳のような石造りの床で、ぽつぽつとガラスなのか宝石なのかわからない、色とりどりの何かが埋め込まれていた。ただの飾りらしく、リズルはそれらを踏みしめながら歩いていく。
「これは、それぞれが魔法道具なんだ」
「この、ガラスみたいな……?」
「うん、それ。不法侵入が絶対に出来ないように、魔法で王宮を守ってるんだ。ちなみに、ほら、あそこ。白い石があるだろう? あれは、私が仕掛けた魔法トラップさ」
なるほど、と椅子で空中を移動しつつ、廊下を見回す。白色の魔法道具は、先ほど見た一つだけのようだ。
「一つで充分なんだよ」
まゆりの思考を読んだかのように、リズルが言う。
「私は、防御特化の魔法使いではないけれど。帝国第二位の魔法使いである私が、一つ献上しただけでも褒めてもらいたいくらいだ。まぁ、たっぷり報酬はもらったけれどねぇ」
「リズルは、国に仕えてるんじゃないの?」
「そうだよ」
「……給料はでないの? 歩合制?」
「ううん。領地を与えられているから、税金で暮らしていけるね。魔法使いとして別途手当も貰っている」
「それって、国に仕えるからの給料じゃないの?」
「あはははは」
リズルは、意味もなく笑って手を振って見せた。
もう何も言うな、という意味だろうとまゆりは黙り込む。最初に見たときは、変な人だと思ったけれど、もしかしたら「変な人」ではなく「あくどい人」なのかもしれない。
「なんだか酷いことを考えられちゃってるみたいだけど。そろそろつくよ」
ここまで、入り口の門番以外、誰も見かけていない。
リズルはえらい人のようだし、誰か案内人がいてもいいものなのに。
つくよ、と言われても、まゆりにはどこへ着くのか想像できず、目の前に現れた巨大なドアが開くのを、唖然として見つめるしかなかった。
がちゃん、ぎぎ。
古めかしい音を鳴らしつつ、ドアが押し開かれる。
眩い光が顔に当たり、目をすがめた。
「さぁ、きみのお披露目だ」
「へっ?」
開かれたドアのなかへ、リズルが進む。ドアのなかからは、まだ眩い光がこぼれており、まゆりは目を眇めたまま、よく見ようと目を凝らした。
まゆりの椅子が、リズルを追いかけて、光のなかへ進んでいく。
ドアをくぐった途端、息を呑む。
そこは、大森林のなかだった。それも、日付けが変わってしばらく経つほどの、深夜だ。大きな満月の位置から推測できる。
大森林に囲まれて存在する、空き地の中央には立食用のテーブルと料理が並んでおり、テーブルを囲むように複数人の人間たちがいた。立ち振る舞いや衣類の上等さから、どの者も上流階級の者だと思われる。
「ここって、本物の……森?」
「勿論さ。けれど、王宮の一室でもある」
「え?」
「魔法使いだからね、みんな。私たちのために、盛大なパーティを開いてくれたんだよ」
魔法使いだからね、みんな。
その言葉に、ぎょっとして、もう一度人々を見回した。あれも魔法使い、これも魔法使い、あっちも、そっちも。希少な魔法使いがこんなにいるなんて。
「おや、主賓のお出ましですか」
やっと気づいた、というように、モノ眼鏡をつけた優男が、振り返った。モノ眼鏡の優男は、淡い金色の髪を揺らしつつ、微笑みながらゆったりとした足取りで近づいてくる。
もっとも、彼以外のほぼ全員は、リズルとまゆりと登場に気が付いていたようで、まゆりはすでに食い入るような視線を感じている。何人かは興味なさげで、座り込んで読書にいそしんでいたり、草むらに寝転んで眠っていたり、ひたすら料理にがっついていたりする。
「久しいね、流星卿」
「お久しぶりです、百合卿。ついにあなたが弟子をとられたと聞きまして、仕事を放り出してきましたよ。なんてめでたい日でしょう」
流星卿、という奇妙な名で呼ばれた優男こと流星卿は、リズルと握手を交わすと、まゆりへ視線を落とした。じっくりと全身を眺めた末に、柔和に細めた目をさらに細めて見せる。
魔法使いは、顔で選ばれるのかもしれない。
そう思えるほどに、流星卿は整った風貌をしていた。リズルのような完全な美しさではなく、優しいお兄さんのような、どことなく安心感を抱かせる風貌だった。
「こんにちは、白銀のシューラー。僕は、流星卿こと、リーゼル・コールディンと申します。どうぞ、お見知りおきを」
「おや、わざわざ名乗ってくれるなんて。この子は、まゆり。私の弟子だよ。病み上がりでね、今はうまく話せないんだ。歩くことも困難で、魔法道具を使用してしまってすまないね」
リーゼルが驚いたように目を瞬いた。まゆりをじっくり眺めたあと、はっと我に返ったように後ろを振り返り、僅かに唇を引き上げた。
だが、それも一瞬で、再び振り向いたときには笑顔に戻っていた。
「さぁ、盛大な宴を。そのうち、陛下もこられるでしょう」
「そうだね。まぁ、ゆっくりしよう。行こう、まゆり」
リズルはまゆりの返事を待たずに歩き出す。
先ほどの発言といい、何も言うなということだろう。話すとなると疲れるので、よかったと思いながら、魔法椅子が動くままに身を任せた。ここは本当に王宮なのかとか、なんの料理が並んでいるのかとか、魔法使いとはどんな者たちなのかとか、気になることは沢山ある。
けれど、あちこちへ視線を向けるのは憚られた。
奇異なものを見るような視線が、突き刺さっている。ひそひそ話も、時折耳に届いた。わざと聞かせているのかもしれない。
――随分と貧相な娘ね
――魔法の欠片も感じないじゃないか
――まさか、百合卿がこんな脆弱そうな娘を弟子にとるとは、嘆かわしい
どうやら、リズルの存在は魔法使いの間でも重要らしい。魔法使いに関して、まゆりの知識は皆無だ。本当に全く知らない。関わってこない人生を歩んできたし、今後も関わらないと思っていた。
もしかして、魔法使いが弟子を取るということは、まゆりが思っているより遥かに重要なのかもしれない。今頃になって、そんな考えに思い至ったまゆりは、ふと、視線を感じて肩越しに振り返った。
そこには、愛らしい瞳をした二十歳ほどの娘がいた。彼女も魔法使いなのだろう、桃色と白を基調としたドレスに身を包んでいる。アーモンド色の瞳が、面白そうな色をたたえて、まゆりを見つめる。
助けを求めるようにリズルを見たが、わらわらと寄ってきた魔法使いに囲まれていた。聞くに察すると、リズルがこういう場に姿を現すことはほとんどないらしい。
「お前は、どうしてリズルの弟子になった?」
「……あなた、は」
「僕は、カンパネルラ。カンパネルラ・ジ・アローラ・レンゲル。この国の王だ」
え、と短い声が漏れた。
カンパネルラと聞いて、とある物語が浮かんだが、今はそんな場合ではない。この国の王と、彼女は言った。いや、そもそも本当に「彼女」なのか。
帝国が力を増しているとは聞き及んでおり、戦火がどこに上がっているのかは、新聞で確認していた。とはいえ、大陸に存在するそれぞれの王の名前までは、憶えていない。性別さえわからない無知な自分が、歯がゆかった。
「もう一度問うぞ、まゆり。きみは、どうしてリズルの弟子になった?」
身体が、硬直した。
生まれてこのかた、感じたことのない緊張に、ひゅーひゅーと臓器が音をたてる。これは、あれに似ている。初めて社会に出たとき、某失敗を犯し、上司のさらに上司に呼び出されたときだ。
あのときは、部屋に入るなり息をするのも苦しくて、意識さえ朦朧とした。
まゆりは、自分の呼吸が不規則になるのを感じた。
無意識に胸を鷲掴みにしたとき、すぐ近くに影が落ちた。リズルかと振り返ると、リーゼルがまゆりを見下ろしていた。柔和な瞳には、暗褐色のほの暗さが見て取れた。
「おやおや、陛下が問うておられるのですよ。なぜ、お答えにならないのです?」
ひと際大きな声で告げたリーゼルに、周りの者たちが振り返る。リズルが、ぎりっと奥歯をかみしめてこちらへ歩いてくるのが見えた。
「やはり、ただの小娘には偉大なる帝国第二位であられる百合卿の弟子に、相応しくないのではありませんか。礼儀さえわきまえない愚鈍さは、見ていて呆れますね」
仰々しいリーゼルの言葉と身振りに、周りの魔法使いたちがくすくすと笑う。
「陛下! いらしたのですか!」
リゼルの声が耳に届く。
どうやらこの娘が、本当に帝国の王らしい。
王。
国王。
帝王。
皇帝。
それらの単語が脳裏を駆け抜けて、去って行った。
つまり、これは――大手企業の会長が目の前に現れたようなものではないか、とまゆりは考える。社会人一年目、福祉系の業界とはいえ名誉職は沢山あり、社会福祉法人ともなると、わりと頻度高く市議会委員の方々も顔を見せたりする。ボランティアとして集団外出援助に参加するお偉いさんもいたりするので、まゆりは、過去の経験を懸命に蘇られる。
そして、悟る。
(私今、すっごい失礼っ!)
相手は、国のトップ。
まゆりは、敵国の平民。しかも、今椅子にゆったり座ったままの恰好でもある。
「ああ、あなたも落ちぶれたものです、百合卿。久しくみない間に、趣向が変わられたか?」
先ほどの親密さはどこへやら、リーゼルの言葉は嫌味で溢れ、挑発してくるものだった。
(……挑発?)
まゆりの身体に、冷静さが僅かばかり戻ってくる。
もう一度、カンパネルラと名乗った娘を見上げた。澄んだ瞳に力強さを宿し、じっとまゆりを見ていた。
まゆりは、静かに息を吐きだすと。
魔法椅子の肘置きに捕まって、ゆっくりと地面に足を下ろして立ち上がった。がくがくと震える足には、まだ感覚が戻っていない。バランスを崩して倒れるかもしれないので、肘置きを掴んだまま、そっと地面に膝をつく。
「まゆりっ!」
リズルがやってくるが、まゆりは真っ直ぐにカンパネルラを見つめていた。、両膝を地面につき、真っ直ぐに顔をあげたまま。両手の拳を合わせて掲げ、顔を伏せる。
まゆりが育った聖フロガン皇国では最上級の拝礼であり、これはすべての国民が学ぶことでもあった。
「ご無礼を致しました。まゆりと申します」
「ああ、知っている」
カンパネルラが、言う。
まゆりは、さらに口を開いた。
「先の戦のおり、慈悲深き師に拾っていただき、現在に至っております。流星卿がおっしゃったように、私は愚鈍です。すぐにお答えできず、申し訳ございません」
「まだ、答えにはなってないな。お前はなぜ、百合卿の弟子になった?」
なぜ、とは、経緯ではなく、まゆり個人の事情を欲している問いだったのか。今更ながらそれに気づいて、まゆりは非礼を詫びるよう、一層身をかがめた。
「僭越ながら、申し上げます。私は、力が欲しいのです」
「ほう」
娘の瞳が、面白いものを見るように、歪む。反対に、リーゼルは卑しいものを見るように顔をしかめた。
「なんと傲慢な娘でしょう!」
「力を欲してはいけませんか。私は、力が欲しいのです。私は、先の戦で、一人生き残りました。残った命を恥じたりはできませんし、する気もありません。助けてくださった師に感謝しております。この恩に報いたいと考えております。――しかし、師の弟子になると選んだのは、私の意思にほかなりません。力が欲しいと言う、私の意思です。私は力を求めます。愚鈍であるがゆえに、強欲にあらゆるものを吸収し、身に着けるでしょう」
まゆりは、拝礼の腕を少しだけ下げて、にっこりと微笑んで見せた。
「――わかった」
「陛下っ?」
カンパネルラは、頷くと、くくっと笑った。リーゼルに視線を向けると、リーゼルは悔しそうに口を曲げながら、指を鳴らす。
途端に、目の前の娘が、二十代半ばほどの歳をした青年になった。背が高く、がっしりとした身体つきで、頬骨が角ばっている。特別に美しいというわけでもない風貌だが、もし、彼が町を歩いていたら、多くの人々が振り返るだろう。
威厳に満ちた姿は、カリスマという言葉を否が応にも思い出させる。
初めて目にする――本来なら、拝謁さえかなわない王の姿に、まゆりは瞠目した。美しさとは、見た目だけのものではないと知る。
「そんな顔をするな、白銀のシューラー。こんな騙しをしたことには理由がある。だが、僕の心配は杞憂だったようだ。――どうした、白銀のシューラー」
まゆりは、はっと目を瞬いて、深く首を垂れた。
「お名前の通りとても素敵なお方でしたので、見惚れておりました」
「……名前の通り?」
「はい。祖国で有名な物語に、陛下の御名と同じ者がおります。勇敢で、慈悲に満ち、友を大切にする。人々を魅了する者です」
「ほう。知らん物語だ。今度聞かせろ」
カンパネルラは、口の端を吊り上げる。まんざらでもない様子で、まゆりの背後にいたリゼルを見た。長身の二人だが、体格が大きい分、カンパネルラのほうがやや背が高い。
「お前の弟子、確かに見させてもらった。経過報告を待つ。これにて、貴殿を領地へ戻る許可を出す」
ざわり、と魔法使いたちにざわめきが走った。
「へ、陛下! お待ちください、百合卿を領地へ返すなど、どれだけの損害が生まれることでしょう!」
「下手に戦に駆り出して、死なれたほうが損害だ。魔法使いは弟子をとると、弟子の育成に集中せねばならない。国家の法律でも決められている」
「ですが! な、ならば、戦からは退かせて、魔法使い見習の教育係にすればよいのです。こんな娘ひとりに取り掛からせるなど――」
「その他大勢を教えるには向かない男だ。僕が決めたことが不服か、流星卿?」
ぐっ、とリーゼルは息を呑むと、力なく項垂れて、「いいえ」と答えた。
カンパネルラは、まゆりを見た。
「お前の言葉、しかと聞いたぞ。愚か者ではないことを、証明してみせろ」
「かしこまりました、陛下」
「うむ。――百合卿、貴殿には期待している。大儀に励め」
カンパネルラは、笑みもなくさっと踵を返すと、大扉より出て行った。その後ろを悔しそうに唇をかむリーゼルが続く。
完全にドアが閉まり、静寂が下りた。
そこで初めて、辺りが静まり返っていることに気づく。もしかして周りにいた魔法使いたちも、魔法で作り出された虚像だったのだろうか。そんな気持ちで顔をあげようとしたが、身体がいうことを聞かない。
今頃になって、身体が小さく震え始めた。
王という者へ対面したことからの恐怖か、それとも本来の肉体が弱っているからか。まゆりには判断しかねた。
「ああ、もうっ」
鬱陶しげな言葉とともに、まゆりの腰に何かが触れて、力強い腕に引き上げられた。リズルが、まゆりを胸に抱き上げたのだ。
「すまないけど、私はこれにて失礼するから」
リズルが周りの者へ告げると同時に、腕の中から、そっと辺りを見る。
魔法使いたちは、先ほど同様にその場にいた。皆がこちらを見ている。部屋に入ってきたとき、振り向きさえしなかった数人の者たちですら。
リズルはさっさとまゆりを連れて、停めてあった馬車まで戻った。まゆりを魔法椅子に座らせることなく、抱きかかえたまま。置いてきてしまった椅子に関しては、どうするのだろうか。
馬車が動き出して、ややのち。
リズルは、深いため息をついた。
「あのね、まゆり」
「なに?」
「あの我儘馬鹿王に対して、随分と礼儀正しかったじゃないか」
「そうかな。この国の作法なんて知らないし、不敬にならないように頑張ってみたの」
「きみは孤児院育ちだよね。あんな丁寧な言葉、どこで覚えたのさ」
「それは」
「というか、なぜ私にはタメ口なんだいっ! 私はきみの師になる、帝国第二位の魔法使いだよ! 丁寧な言葉で話すのが当然ではないかな?」
「……ええー」
そこなの? と半眼になるまゆりに、リゼルは憤然と胸を張っている。
「きみは、そこまで馬鹿ではないようだし。これからは、しっかりと私のことを敬って――」
「私をだしにして、領地へ戻るのに?」
小首をかしげてみせると、途端に、リズルの表情が情けないものに崩れた。
「話を聞いてればわかるよ。リズルは領地へ戻りたかったんでしょ? 大切な人でもいるの?」
「まぁ、うん」
「そのために、弟子が必要だったんだね」
「……そうだね」
「それって、私じゃなくてもよくない? でも私にしたのはリゼルだよね。私は、リゼルの役に立つと思うよ。ううん、役に立つようにしてみせる。結構な利用価値があると思うんだけど」
リゼルが、ふいに、表情を改めた。
情けない表情も、慌てた表情も、すべてが演技だったのではと思えるほど、その瞳には打算が浮かんでいる。
「ふむ。……まぁ、そうだねぇ。きみの言葉は非常に魅力的だ。私は弟子が欲しいわけではないし、弟子に対して師として振る舞うのも面倒だと思ってる。でも、契約を交わした以上、魔法は伝授していくよ」
「うん」
「それ以外では、きみを利用させてもらおうかな」
「そうして。私も、利用価値のある人間として動くから」
「あはは、面白いね。まゆりは」
馬車はやがて止まり、元居た屋敷へ戻ってきた。
まゆりは目覚めた部屋に戻されて、リゼルは姿を消す。ほかにも屋敷に誰かいるのかもしれないが、まゆりが会うことはなかった。
夜も遅いので、このまま眠ってしまおうとしたが、なかなか寝付けない。まゆりは、ベッドで半身を起こした状態で、ぼんやりと天井を見た。
(――本当に、みんな、死んだの?)
まゆりには、そこが疑問だった。
マザーや弟たちはわかる。けれど、透はどうだろう。彼女だけは、逃れたのではないだろうか。
両手で顔を覆って、嘆くように天を仰ぐ。
ただ、平和に暮らしたかった。
贅沢をしたかったわけではない、出世したいわけでもない。
ささやかな日々のなかで、笑えたら。
そう思って、生きてきた。
日本でも、こちらでも。
まゆりがこの世界に転生したとき、とてもよい状況下で育つことができた。両親は知らないが、生まれてすぐに、まゆりは孤児院に引き取られたらしい。透も同じだという。
どこかへ捨てられるでもなく、育つことのできる環境下に置かれたことは大きかった。聖フロガン皇国は、唯一神を信仰する国で、王族は神の末裔とされている。
だが、決して国全体が潤っていたわけではなく、権力者と平民、それ以下の民の間にある格差はすさまじかった。そんななかに転生して、衣食住のある生活を送れたのだから、驚くほどの幸運といえるだろう。
まゆりは、今後のことを考える。
ささやかな日々を過ごそう、という夢は、潰えた。少なくとも、孤児院で過ごしていくという未来設計は、もうもてない。
魔法使いになると決めたのは、確かに力を欲したからだ。だが、なぜ力を欲したのか、魔法使いになった暁には何をするのか、目的がない。
いや、力を欲した理由はすでにある。それは、先ほど国王と対面したときに述べた言葉からも、明らかだ。
ただ、まゆり自身が、認めたくなかった。力は軋轢を呼ぶ。それが権力であろうと、腕力であろうと、財産であろうと、力というあらゆる分野の差は、平穏を遠ざける。
なのに、まゆりはその世界へ飛び込もうとしているのだ。
そこまで考えて、すべてを胸の奥にしまい込んだ。
今、それを考えるのは辞めておこう。
酷く疲れていた。
眠れない身体は、ただただ重く、こみあげてくる吐き気と対峙することに、時間を費やす。
気が付けば、横になって眠っていた。
幼子のように、身体を丸めて。
まゆりは、その夜、とても穏やかな夢を見た。
それは、記憶にも残らないささやかなものだった。けれど、目が覚めたとき。まゆりは、感謝した。
こんな些細な幸せを感じる日々を送れる贅沢に、彼女は、感謝したのだ。
ここまで、閲覧ありがとうございます。
王道に近い、の転生ハイ・ファンタジーを予定しています。
感想や評価など頂けると嬉しいです、お気軽に。