第一章《1》 魔法使いの弟子
まゆりは、福祉系の専門学校を卒業してから、社会福祉法人で働いていた。少子化がすすむ日本において、高齢者と関わる介護士という職種は人不足であり、まゆり自身、祖母が好きだったために、介護士を目指したのだ。
だが、まゆりが就職先に選んだのは、障がい者施設だった。児童デイサービスからグループホーム、就労支援、外出援助、それらを一手に担う大手の社会福祉法人だ。
学生から、社会人へ。
それへの切り替えはなかなか難しく、こなさなければならない仕事と、命を預かる責任感で、押しつぶされそうな日々だった。
それでも、出勤の際。
実家を出るとき、向かい側の家の窓へ手を振るのを、忘れなかった。
一戸建ての二階の窓、そこは、透の部屋だ。
透は、幼馴染の女の子。
毎朝、必ず透はまゆりを見送ってくれた。
笑顔もなく、手を振ってくれるわけでもない。
それでも、窓からまゆりを見つめてくれる姿は、心強くて、嬉しかった。
仕事へ対して、心身ともに疲れ果て、辞めようかとも考え始めたとき。まゆりは、断られることを承知で、透へ「外出」を持ちかけた。二人きりで遊びにいかないか、と。
家から滅多に出ることのなかった透は、当然のようにまゆりの申し出を断る――と思われたが、意外にも、彼女は是と答えた。
そして、二人きりでの外出。
場所は、水族館。
電車で三十分、バスで十五分。
目的の水族館へたどり着いた、そのとき。
事件が起きた。
周囲から上がる悲鳴、怒声、混乱。
まゆりの意識は、その日を境に日本から消えた。
そして目が覚めると、この世界へ赤子として転生していたのだ。透と一緒に。
悲しくて、受け入れられなくて。
けれど、これからも透と一緒なのだと思うと、悲しみも和らいだ。
まゆりは、この世界で生きていこうと決めた。
バチーン。
と、頬に痛みが走ると同時に、激しい音がした。
目を開いたまゆりは、咄嗟に身体をひねって布団の中に隠れる。
(なに、なにが起きたのっ? 頬っぺたが痛い……熱いっ、腫れてる!)
頬を撫でると、どう考えても頬が熱を持っているのがわかる。
「ああ、面倒くさい! 起きたのなら、さっさと支度をしたまえ!」
布団の向こうから、心の底から鬱陶しさをにじませた声がした。わけがわからず、何が起きているのか理解しようと頭をフル回転させるが、答えを導き出す前に、布団をひっぺ替えされた。
「ぎゃあああっ」
「可愛くない悲鳴だね、驚いたよ」
ばさり、と布団が視界からはけると。
そこには、背の高い金髪の男性がいた。全身を清潔な白い衣類で身を包んだ、凛とした立ち姿の男は、一見して身分のある者だとわかる。
長い金髪は、頭上で美しく結い上げられ、白い花を象った簪が揺れていた。化粧はしていないだろうが、赤い紅を塗ったような妖艶な唇をしている。形のよい鼻梁や切れ長の目、形の良い眉、どれもが完璧なかたちで、ほっそりとした顔に収まっていた。
髪型にも衣類にも、僅かの乱れがない。
美の結晶のように、美しい存在がそこにあった。
「……綺麗な人」
「ふふん、知っているとも。私以上に美しい者は、この世にいないのだからね」
「でも、なんか変人っぽいから、関わりたくない」
「……あいにく、そうもいかないのだよ」
男は、ぱちんと指をならした。
布団が彼の手の中から消えて、まゆりの足元へ畳んだ状態で現れる。魔法だ。まごうことなき、魔法。
この世界へきて、魔法という存在があることは知っていたし、聞いてもいた。けれど、魔法使いは希少で、そうそうお目にかかれないという話も聞いていた。
「魔法使い?」
「そうだとも! 私は、このヴァルギス帝国の第二等魔法使い、リズル・アーケロシス伯爵だ。皆は私を、純白の魔法使いもしくは百合卿と呼ぶ」
「あの、リズルさん。私、どうしてここにいるんですか?」
「きみは人の話を聞かないタイプかな? んん? 皆は私を――」
「帰らなきゃ。……そう、帰らないと!」
思い出した。
激しい爆音、身体を打ち付ける衝撃、激痛に飛ぶ意識。
そして、透が言った言葉。
ファロ孤児院へ、戻らないと。
ベッドから降りた瞬間、足がぐにゃりと曲がった気がして、床に座り込んだ。素足で踏んでも痛くない、柔らかい絨毯が支えてくれる。まゆりが驚いて自分の足を見ると、小刻みに震えていた。軽くたたくが、痛みがない。感覚がない。
動かそうと思うと、まったく動かないわけではないけれど、これでは歩けない。
「まだ、本調子には遠いよ。なにせきみの身体は、壊滅状態だったんだ」
「……どういうこと」
ぱちん、とまた指を鳴らす音が聞こえると。
まゆりの身体を浮いて、元のベッドに戻った。
この世界に来てから――いや、日本にいたころであっても、寝ころんだことのないほどにふかふかのベッドだ。
こんなところに寝かされていたのか、と思うと、ぞっとする。
「あ、あははっ、嘘。こんなに綺麗なベッド、この世に存在するはずがない!」
「いやいや、そこじゃないよね。きみ、もっとほかに考えることあるでしょ。まぁ、今は体を休めて――って、言いたいところだけど。あいにく、それどころじゃないんだよねぇ」
憂いを帯びたひとみで、仰々しく天を仰いで見せる姿は、やけに演劇的だ。
まゆりは、そんな男リズルを無視して、静かに深呼吸をした。慌ててよいことなどない。いつだって、冷静に。考えて物事を判断しないと、最悪の結果になる。
それは、社会人だったころに上司から教わったことだった。
「きみはこれから、私と外出をするんだ。そう、当面の目的はそれだ。ああ、面倒くさいっ。早く領地へ引きこもりたいのに、我儘王のために私がわざわざ王宮へ出向かないとならないなんてっ」
「説明どうも。あの、それでは私はこれで」
「またしても聞いてないね、きみ。きみも一緒に行くんだよ。というか、きみがメインなんだ。きみを見たいっていうから、私がわざわざきみを連れていくんだよ。ほんっとうに面倒くさいから、早く準備してちゃっちゃと行くよ」
「私、孤児院へ戻らないと。私が生きてるってことは、助けてくださったんですよね。ありがとうございます」
ベッドの上で、深々と頭をさげる。
肩から、まゆりの黒髪が滑って落ちた。眠っていたせいか、あちこちほつれて、もともと綺麗とは言い難い長い髪が余計に絡まっているのが見えた。
きっと、まゆりの姿は、とても滑稽なことだろう。
髪はぐちゃぐちゃ、肌は荒れ放題、見目も可愛いわけではなく、普通程度。この綺麗で高級な部屋と美しい男の前で、まゆりだけが異質だ。
「その件だけど。きみがいた、ファロ孤児院はもうないよ」
まゆりは、考えまいとしていた考えが押し寄せてくるのを感じて、強引に思考から締め出した。
「冷静でいることは大事だけれど、考えないこととは違うよねぇ。きみが現実を知るにはまだ早い。心が壊れてしまうかもしれないね。それでも、耐えて貰わないと困るんだ」
リズルが、ベッドの横座りする。
長い指と美しい筋張った手が伸びてきて、まゆりの頭に触れた。目の前に、金の刺繍が施された白い袖口がある。
孤児院で弟たちにしてきたように、頭を撫でる手が暖かい。
「……何が、起きた、の」
「んんー、あまり言いたくないな。きみを傷つけたくない」
「教えて、ください」
「仕方がないねぇ、まったく」
仕方がない、という言葉とは裏腹に、声音はとても優しい。
リズルは、やや間を置いて、言葉を選びながら話し始める。
「私は、ヴァルギス帝国の魔法使いだ。敵の前線が後退すると聞いて、次の基地になる場所を調べていたんだよ。そこで、聖フロガン皇国がきみのいた孤児院を次の駐屯基地にする作戦を知った」
「……皇国が」
「そうだとも。もちろん、予め打診はあったようだ。でも、孤児院の経営者であるマザーが立ち退きを拒否した。当然だろうね、無条件譲渡なんて死ねと言っているようなものだ。結果、皇国は孤児院の者たちを戦争に協力しない反国者とみなし、強引に孤児院を奪った」
「じゃあ、みんなはどうなったの」
「わかるだろう?」
憐れみを浮かべた目が、まゆりを見る。
ぎり、と歯をかみしめた。
「……どうして、私は生きているの」
「私が助けた」
「どうして、私を助けたの」
「きみには魔法使いの素質があったからさ」
「どうして、私を助け出せたの」
「……空から見ていたからだ」
「私たちの、孤児院が襲撃されるのを?」
「ああ。見ていた。私は、黙ってきみたちが殺されるのを」
「――っ」
頭に置かれた手の、手首をつかんだ。ぎりぎりと握り締めると、爪が皮膚に食い込む。加減なく爪をたてたせいで、あっという間に血がにじんで、流れた。
ファロ孤児院は、もうない。
自国が見捨てたから。
まゆりだけが、生き残った。
まゆりには、魔法の才能があったから。
「怒ってるかい?」
まゆりには、返事が出来ない。
現状に、感情がついてこないのだ。
頭では、何が起きたのか、理解できているのに。
戦争とは、そういうもので。聖フロガン皇国は、窮地にたたされていて。リズルは敵国の調査員として、たまたままゆりを見つけたに過ぎなくて。ほかの兄弟たちを保護する理由もなければ、本来ならばまゆりを助ける必要もなくて。
まゆりだけ助かったのだと罪悪感はあっても、助からなければよかった一緒に死ねばよかったなどとは、到底思えなくて。
「きみは、強い子だねぇ」
リズルの声には、慈悲がある。憐れみもある。どちらも、聖フロガン皇国がまゆりたちにくれなかったものだ。
急ぐような発言をしていたリズルは、黙ってまゆりの傍にいてくれた。ただ、まゆりが落ち着くのを待ってくれた。
涙は流れず、まだ、感情がついてこない。
それでも、まゆりはゆっくりと顔をあげた。
「私に魔法使いの素質があったから、助けたって、どういうこと?」
「きみを、私の弟子にしたんだ」
「……弟子?」
「そう」
リズルが、口の端を吊り上げる。
美しい彼に似つかわしくない、邪悪ささえ感じられる傲慢な笑みだ。
リズルは、そっとまゆりに耳打ちした。
「力をつけるといい。私がきみを、一人前の魔法使いにしてあげよう」
どくん、と心音が高鳴った。
力を、つける。
それは、孤児院で暮らしていたら、一生出来なかったこと。欲しくても手に入れられず、手に入れようとも思わなかったかもしれないもの。
でも、今のまゆりは力がほしい。
どうしてかは、わからない。もしかしたら答えはすでにあるのかもしれないけれど、考えたくはなかった。
すっと元の位置に戻ったリズルは、にっこりと爽やかに微笑んだ。
「まぁ、力をどう使うかは、きみ次第だ」
魔法使いは希少だという。
けれど、国家に仕える魔法使いが弟子を選べないはずがない。まゆりではないほかの誰かを弟子にすることだって、出来たはずだ。すでに多くの弟子がいて、まゆりはその末席に加えて貰ったのだとしても、なぜ、まゆりだったのか。
(理由なんか、いらない)
まゆりでなければならない、なんて理由は、きっとない。だから、リズルには問わない。まゆりを助けたのは、魔法使いの素質があったから。それだけで十分だ。
「さて、申し訳ないけれど時間だ」
ぱちん。
リズルが指を鳴らすと、まゆりが着ていた寝間着(絹の着心地がよいやつを着ていたことに、気づかなかった)が、ぶわりと質量を増して、一瞬で白いドレスになった。西洋に流行った、腰をコルセットで締める華美なドレスではなく、静かな夜会に着ていくような大人びたドレスだ。
形だけでいうとネグリジェのようだが、金糸の刺繍や肩に羽織った純白の長衣が、まゆりのドレスから静謐な美しさを引き出していた。
驚いて自分の身体を見下ろしていると、リズルの両手が伸びてきて、まゆりの身体を抱き上げた。
言葉を失っていると、リズルはまゆりを抱き上げたまま歩き出す。部屋を出る間際、壁にかかっていた鏡に自分の姿が映る。乱れていた髪は、リズルとお揃いの髪型になり、同じ簪が頭で揺れていた。
二階にいたようで、半螺旋階段を下りてエントランスへ向かい、そのまま正面玄関から出て行く。その間も抱きかかえられたままだ。足がまだがくがくしているので、されるがままだが、気恥ずかしさはなく、借りてきた猫のように体が強張っていた。
玄関には、馬車が止まっていた。
辺りは闇が下りているが、ぼんやりと橙色と薄墨を混ぜたような陽光が残っている。陽が沈む間際なのだろう。
見たことのない、巨大な馬車馬が、作り物のようにじっとそこにいる。じっと黒い目を見つめていると、ちらっと馬車馬がまゆりを見た――ような、気がした。
リズルはまゆりを馬車のなかに座らせると、隣に己も座ると、ドアを閉めた。
ドアが閉めた瞬間、馬車が動き始める。
「御者、は」
「いらないよ。バンは、よくわかってくれているからね」
バン、というのが、あの馬車馬のことだとすぐにわかった。まゆりは、なんとなく、頷いた。
「さて、と。いっぱいいっぱいなきみには申し訳ないけれど、これから我儘王との面会だ。私が傍にいるから心配はいらない。いろいろと言ってくるやつはいるだろうけれど、きみは一切答えなくていい」
「……わかった」
「ああ、でも。きみは、私の弟子だ。ああ、先に契約を結んでおこうか」
契約、と頭の中で繰り返す。
リズルは、手をひらくと空中でぐっと掴んで見せる。開いたとき、手の中には巻いた羊皮紙があった。いつの間に、どこから取り出したのだろう。
リズルは羊皮紙に、同じように取り出したペンで、さらさらと名前を書いた。それを、まゆりに向ける。
「ここに、きみの名前をどうぞ」
「名前」
「そう、もちろん本名だ」
孤児院で育ったまゆりに、リズルはそう言う。心なしか、笑みに意地の悪さが混じっている気がしたが、気づかないふりをすることにした。
(私の、本当の名前)
まゆりは、ペンを握り締めて。
迷うことなく、自分の名前を書いた。
リズルが、眉をひそめる。
「字を書けないなら、書けないって言ってほしかったけど」
不満げに呟いたリズルだが、次の瞬間、軽く目を見張る。
「――契約できるね。これは字なのかい? 見たことがない。どこの国の字なのかな」
「私が生まれ育った、祖国の字。私の名前は、まゆり。まゆり・サクラノ」
「ふむ、まゆりか」
リズルは羊皮紙を膝に置くと、ペンを消して、銀のナイフを取り出した。まゆりの手を取り、親指に切っ先を添わせる。ちりっ、とした痛みのあと、赤い血がぷっくりと盛り上がり、羊皮紙にぽたりと落ちた。
リズルもまた、自らの親指に傷をつけて、羊皮紙に血を垂らす。
「くっつけて」
促されて、首をかしげる。
リズルは苦笑して、血の流れる親指同士をくっつけた。二人の血が混ざって、羊皮紙のうえに、ぽたりと落ちる。
その瞬間、身体を何かが駆け抜けた。まるで、大蛇が体の中をぐるぐるとうねっているかのように、自分ではない何かが侵入している違和感がある。
だが、そんな違和感もすぐに去り、呆然としているうちにリズルは己の指を離して、羊皮紙をどこかへ消した。
「はい、契約成立。これで、きみは正式に私の弟子だよ」
にっこりと微笑むリズルを見返して、まゆりは頷いた。
正直なところ、まだ思考が追い付かないでいた。
ただ、今を理解するのに、必死だった。