第二章《5》 白と黒
その日は、天候に恵まれていた。
まゆりは、覚えたての字の読み書きを駆使して、過去に流行ったという恋愛小説を読んでいたが、あまりにも天気がよいので、ペルソンドの元へ向かった。
彼は今頃、庭で仕事をしているだろう。
やはりというか、庭で木の手入れをしているペルソンドを見つけて、まゆりは足を止めた。
ローグを村に引き入れたのは、ペルソンドだろうという確信を得てから、なんとなく、顔を合わせずらい。どうやって引き入れたのかまでは、わからない。だが、ペルソンドはローグを紹介するとき、リゼルの名前を使ったのだ。
まゆりは、リゼルの弟子としてここにいる。
そして、師が、ローグへ転居を許可した形跡や記録はない。
まゆりは、目を伏せる。
敵や味方、白や黒、有ると無い、ゼロとイチ、そういった二択で、物事を選択したくはない。
まゆりの師はリゼルであり、それは後ろ盾と同義だ。今の、何もないまゆりにとって、リゼル以上に失って困るものなどない。
でも。
顔をあげると、ふと、ペルソンドがこちらを振り返った。
驚いた顔で、額をぬぐっていた手を止める。
まゆりは、無理やり笑みを浮かべて、いつものように傍へ歩み寄った。
「シューラー様、いかがされましたか?」
「いい天気だなぁって思って。少し、出かけない?」
「第一の村、ですか」
「うん。忙しい?」
「構いませんが」
ペルソンドは、口ごもるように言葉を途切れさせたが、すぐに頭をさげた。
「失礼いたしました。すぐに、準備に取り掛かります」
「ありがとう。馬でいこう、馬小屋で待ってるから」
「かしこまりました」
まゆりは、ペルソンドの後姿を見送ってから、馬小屋へ向かった。
気のせいかもしれないが、ペルソンドのほうも、まゆりを避けているような違和感がある。といっても、まだローグの件があってから三日しか過ぎていないし、まゆりの思い込みかもしれない。
だが、ほんの三日で、以前よりもペルソンドの目の下の隈が濃くなったのは、間違いない。やつれたような表情は、日に日に強くなっている。
馬小屋までくると、馬の世話をしていた使用人が顔をあげた。
古城で住み込みで働いている女性使用人三人のなかの、一人、リンだ。
リンはまゆりを見て驚いた顔をしたが、すぐに姿勢を低くして頭を垂れた。
「リンさん、馬を貸してもらえる? 村へ行くの」
「すぐに準備いたします。……あの、シューラー様おひとりですか?」
「ペルさんと!」
「ああ。……では、頑丈な馬を準備いたします」
リンは頷くと、すぐに馬を選び、鞍や手綱の準備をはじめた。
まゆりは馬に乗れないので、馬小屋へ来た時点でリンが不審がるのも当然だ。そっと馬小屋を覗き込めば、家畜独特の匂いや馬蹄のあとが見られて、なんとなく感慨深いものになる。
乗馬体験、という活動を、仕事で行ったことがあった。
あの頃は、毎日がつらかった。
上司との関係に、接客内でのトラブル、モンスターと呼ばれる保護者の方々との関わりなど。
てきぱきと馬を準備するリンへ、まゆりは呟くように言う。
「仕事、しんどくない?」
弾かれるように振り返ったリンは、まゆりの姿を見ると、目を瞬いて苦笑した。
「しんどくはございません」
「そうなの?」
「私たちは、領主様にとっていくらでも替えが利く存在です。機嫌さえ損ねなければ、雑用さえこなしていれば、よい給金がいただけますので」
「……ここでの住み込みでしょう? それに、リゼルの独断で連れてこられたって聞いた」
「独断。そうともいいますが、私はこうして家畜の世話ができるので、とても有意義な日々を過ごしておりますよ」
微笑むリンの表情は柔和だった。
嘘を言っているようには見えないけれど、人の本心は言葉でいくらでも誤魔化せる。
(私、スレてるなぁ)
自分の考えが嫌になってくる。
ここへ来てから、随分と打算的になったうえに、卑屈さや狡猾さが現れてきたような気がした。
(それも、いいかもしれない)
このまま、自分の利益を追求して、やりたいことだけをする人生も。目的が明確だし、自分の好きなことをするのだから、リスクだって受け入れられるだろう。
誰かのためだとか。
こうしなければならないからとか。
そういった考えで日々を過ごすと、心身ともに疲労していく。
かつてのまゆりが、そうだったように。
ペルソンドがやってきて、馬にのって村へ向かった。
二人乗り用のがっちりとした馬には、まゆりが先に乗り、まゆりを抱えるようにペルソンドが乗るのだが、馬上へ上がる際、ペルソンドがやや顔をしかめたのをまゆりは見逃さなかった。
充分な栄養と運動、躾を受けた馬は、快調に村への道を進む。
やや傾斜になった坂道を、ぐんぐんと。
走らせはしない。
速足で、さくさくと進ませるのだ。
お互いに無言だったが、もうすぐ村へ着くと言う頃、まゆりから口をひらいた。
「ペルさんは、リゼルのことが……憎い?」
「いいえ」
きっぱりとした、声音だった。
まゆりは、はっと顔をあげる。
(……なんだ。そっか)
目の前が、ちかちかと光ったような気さえした。
まゆりは、恥じ入って俯くと、唇をかみしめる。
「シューラー様?」
「私、てっきりペルさんがローグを雇って、何かするんだと思ってた」
ぴく、とペルソンドの身体が震え、手綱を持つ手が強く握られる。馬が停止して、ペルソンドの大きな心音が伝わってきた。
「……私の嘘は、やはり、見抜かれていたのですね」
「リゼルの名前を出すからだよ」
「申し訳ございません」
まゆりは、首を振る。
ペルソンドが嘘をついたから、だから、自分の敵だと決めつけていた。
嘘をつくのは、後ろめたいからだとか、騙してやろうとか、そういった意図があるからだと思っていたからだ。
でも、そうとは限らない。
すべての嘘が、悪意あるものだと決めつけるのは、間違いだ。
まゆりは、背中を凭れさせた。
ペルソンドがまた、大きく震える。
少し上を向くと、背の高いペルソンドの顔が見えた。
「ここ、二、三日でやつれたねぇ、ペルさん」
「……そう、でしょうか」
「うん。規則正しく生活できてる?」
「あまり眠れていませんが」
ふと、ペルソンドが笑う。
「今夜は、よく眠れそうです」
「それはよかった!」
「やはり、シューラー様はとてもお優しくご聡明であられますね」
「……え?」
「もしや、あなた様も私を、その、悪鬼のように扱うのではと……少々、怯えておりました」
家族が粛清されて、一人だけ生き残ったペルソンドは。
村人から、迫害に近い扱いを受けてきた。
彼の中には、恨みや悲しみが詰まっているだろう。それでも、リゼルのもとで雑務をこなし、木々に触れて剪定をし、まゆりに字の読み書きを教えてくれる。
とても、強くて、綺麗な人だ。
「ペルさんは、真っ直ぐだね。私も、見習わないと」
「シューラー様は、とても美しいお心をお持ちです。僭越ながら……そのままで、よろしいかと」
ぶわっ、と身体が震えた。
無性に、穴を掘って隠れたくなる。
ついさっきまで、ペルソンドを疑って。
自分のやりたいことだけをして生きていこうかな、と考えていた自分を、消し去りたい。
まだ出会って間もないまゆりのことを、ペルソンドは信じてくれている。
心が綺麗だと、言ってくれた。
ならば、その気持ちに、全力で答えたい――そう思ってしまうのは、単純すぎるだろうか。
「ねぇ、ペルさん。私、魔法使いになるね。すごく沢山の魔法を覚えて、それから」
まゆりは、語る。
理想の国を。
皆が、小さな幸せを胸に抱ける国を。
喧嘩もあるし、たびたび事件も起こるだろう。それでも、戦火といった大きな争いがない、衣食住に恵まれた、そんな国が欲しい。
そんな国を手に入れるのは、夢のまた夢だ。
ただの魔法使い見習のまゆりには、実現できるだけの力がない。皇帝であったとしても、思うように国を築けるわけではないのだから、理想の国など、出来るはずがないのだ。
それでも。
まゆりは、語る。
いつか、力をつけたそのときは。
皆が笑える、国を作るのだ――と。




