クジラ少年
真っ青な空の中にぽつんと浮かんだ白い雲。
その雲の形は例えようもないもので
四角とも丸くともない形であったけれど、
真っ青な空には雲はそれだけだった。
動くとも動かなその雲を長い間
ぼくは見続け
そしてふと思った。
「ぼくはクジラになりたい」と。
どうしてそう思うのか。と質問されたら
ぼくは応えるのに困ってしまう。
だってほんとにふと思ったことだもの。
青い色に何色も混ざらない無な青。
2階建てのマンションより高いまっすぐ伸びた電信柱、空に長く引かれた電線。
騒々しく滞在して空とぶつかっている、見慣れた景色の中に居ては、ぼくも何も思わなかったかもしれないし、空を見続ける事もなかった。
ただそんな空だったから
その中にぽつんと浮かんでる雲だったから。
ぼくはそう思うことができたのかもしれない。
けれどそれは、
ぼくの骨の髄になり血となり肉になって
幾日かすると
ぼくはクジラになった。
クジラになると大変なのは
時間の違いだ。
ぼくを「なおき」と呼ぶママンはいつも時間に追われているみたいだ。
朝、6時起床。
家族のためにお弁当を作る。
7時。
家族を起こし、パパンは会社、子供らは学校へ
送り出すことに成功すると
自分の支度にかかる。
8時。
ママンも仕事へ行く。
それからしばらく、日が暮れるまで「なおき」家は
誰もいない。
ぼくはつい今しがた送り出されたが、まだここに残っていた。
茂みに隠れ身を潜め
ママンが家の鍵をかける音を静かに聞いていた。
ママンの足音が遠ざかるのを見計らって
ぼくは家の中に忍び込む。
誰もいなくなったこの家は、冷たい海の底のようで
悪くない。むしろぼくには心地良かった。
クジラになってから人間の声も言葉もうるさく感じた。
特に、ママンの
「早く支度して」
「早く片付けなさい」
「早く食べなさい」
早く、早く、早く。
ぼくはどんどん
海面に浮上できず、呼吸できないまま真っ黒な海底へと潜っていく。
潜って誰の声も届かない深い青の中でぼくは眠りにつく。
時折、
冷蔵庫からブイーンと唸る音が実物なるすみかを教えてくれた。
ぼくの目覚めは決して速くない。
人が1日を24時間にした場合、
ぼくらクジラは72時間なのだから。
「いつまで寝てるの。早く起きなさい」
ママンのきーきーする声に慣れるのには時間が
かかった。
ママンはぼくを起こしたいらしく、身体を揺する。
ぼくはまだ眠りの途中で身体を起こすことに力が入らない。
だから、
「もう少し寝かせて」
と、布団を丸被りする。
ママンのため息とかける足音。
ヒソメタ声が漏れ聞こえる。
「ねえ、あなた。『なおき』、最近変じゃない?」
「何が?」
「前はあんな風じゃなかった」
「あれだよ。あれ。なおきも大きくなってきている証拠じゃないの?」
「何よそれ」
「反抗期」
子供がいないところで夫婦の会話は思わぬ方向へと
展開する。
しかもぼくにははっきり聞こえてくるのだから
コソコソ話さなくてもいいのに。
2人は、『なおき』のことだからしばらくは様子を見ようということで落ち着いた。
クジラになってどれくらいの時間と
日が立ったのかわからなくなったが、
ぼくの体はクジラとしてうまくやり遂げていた。
体から抜ける水分の補給をぼくは水に浸からず
保てることが可能になった。
海に潜らずともぼくは自由に動き回れた。
人とクジラの時間差にはぼくのお腹を膨らませたり縮めさせたりする事で時間の格差を解決した。
これにはかなりの訓練が必要だった。
お腹が焦りだすとうまく呼吸ができなくなるからだ。
細胞は如何なる場合においても
対応できる可能性がある。
まさにその通りだ。
幾らかの訓練のお陰でぼくは完璧にこそ
まだなれていないが、そこそこクジラになれていた。
そんな時
ぼくの前に水道管が現れた。
水道管も元は人間であったけれど今はやめた。
と、言った。
やめて良かった。
とも、言った。
それから
水道管は
一緒に行こう
と、言った。
ぼくがきょとんとしていると
ああ、まだ完成されていないのか。
と、言った。
「どう言う意味?」
と、聞き返したが水道管はじっとぼくを見て
そのうち分かるさ。
と、言った。
それから、水道管はすまなかった。
と言い、じゃあ。と、立ち去った。
水道管との出会いはぶっ飛ぶような出来事だ。
ぼくがクジラだった事を見破られ
ぼく以外に人のモノがいることを知った。
他にもいるのだろうか。
ぼくのようなクジラ、水道管のような人以外のモノ。
一緒に行こう。
水道管が言った言葉が
いつまで立っても消えやしない。
消えるどころか、ぼくは更にクジラらしくなりたいと思いはじめた。
クジラのようなクジラではなく
クジラそのものでありたい。
そうするにはどうすればいいか。
ぼくはもう一度水道管に会わなければならないと思った。
水道管を探すにはまず、コンナンド横丁に行って
干物屋さんの店主を尋ねなければならなかった。
「今日も粋のいいのがあるまいか」
干物店主はお客さんによって行きなよと手を振る。
ぼくはおもむろに店主の前に立った。
店主はじっとぼくを見て
「買わないなら帰っておくれまいか」
と、そっぽを向く。
「水道管を探しているのです。知っていますか?」
干物店主はまたぼくを見た。
その目は突き刺さるような鋭い眼光をしていた。
いつものぼくなら震え上がり息も絶え絶えにして逃げてしまっただろう。
けれど今のぼくは以外に冷静さを保ちその目を見ていた。
「ぼくはクジラなのです」と言った。
すると、店主は驚きもしないで
「明日おいで」
と、言った。
次の日干物店に行くと店は閉まっていた。
店主の姿も見えない。
ぼくは騙された。
と、思った。
きっとぼくが訪ねて来たことで逃げる時間を
稼いだのだ。
ぼくに会いたくない理由はなんだろう。
分からない。
ここを教えてくれたのは他でもない水道管だ。
水道管が立ち去り際、
「気が変わったらコンナンド横丁の
干物店主を訪ねるといい」と、教えてくれた
ぼくはあんたに会いに来たのに、あんたは
どこに行ったんだ?
ぼくが店の前で屈んでいると地面に足の影が写った。
「水道管も干物店主もここにはいない。あんた
もう帰りな。そして忘れたほうがいい」
顔を上げると丸い形の地球儀がいた。
ぼくは地球儀は全てを知っているような
そんな気がした。
何かを言おうとしたけれど
うまく言葉にできなくて
黙っていた。
地球儀は
ぼくの名前を聞いた。
ぼくは、毎日ママンがぼくを呼ぶ名前を教えてあげた。
地球儀は
「いい名前じゃないか。その名前大事にするんだよ。
水道管も干物店主ももう元の名前を忘れてしまったからね。あんたは忘れずにずっと持っているんだよ」
と、言ってぼくにさっさと家に帰れ。と追い立てた。
そして、ここへは2度と来るんじゃないよ。
と、カラカラ音を立てて地球儀を回した。
クジラにこそなれずにいたけれど
ぼくは
ぼくのように「〇〇になりたい」と思って
それになってしまった仲間がいた事を知った。
クジラの仲間はまだ会っていないけど、探せば何処かにあるはずだ。
世界は広いけど案外狭いのかもしれない。
それは身近にいて、明日ひょっこり現れるかもしれない。
嬉しい事であり
ぼくがほんとうのクジラになることもあり得るのだと言う
確たる証拠である。
そしてクジラになり、ぼくが人としていた
ぼくの名前を記しておこう。
「ぼくの名前は
『なおき』です」