きすしたいだけ
腕を組み、濃い紫色の瞳を向ける先は、魔導力が基の最新式の調理器具である魔導オーブン。
生まれ持った魔力を還元し、道具を動かす仕組みなのだが、リエッタは生まれ付き魔力が他の人間より極端に少ない為、何度も何度もやり直しが効かない。
それでも、今日だけは何としてもこの焼き菓子は完成させたくて、普段よりいっそう真面目に勉強に打ち込み、魔導力のコントロール方法を鍛えてきた。
リエッタが生まれ育った国──アガシュルム帝国は、魔導力がモノを言う貴族社会。
そんな貴族社会のトップとも言える公爵家に生を受けながらも、リエッタは魔導力──以下、魔力と称する──は、雀の涙ほどしかなく、そのせいか極端に体が弱い。
今もこうしてオーブンの前に立っているだけで、眩暈がするほどだが、どうしても今日だけは倒れるにはいかなかった。
だって今日は、婚約者であるアガシュルム帝国の第三皇子であり、リエッタの婚約者である5歳年上のノエルと逢う日なのだから。
この婚約は、ノエルが成人を迎える三年後までしか継続できない。
それ以降はリエッタは教会に入ることが決まってるのだ。
魔力がない人間は、貴族でもいられない。
リエッタは公爵家に生まれたから、特別な配慮として貴族として暮らせてるだけで。
じわじわと魔力の火で焼ける菓子をぼんやりと見守りつつ、恋に恋するまだ幼い少女は、気が遠くになる自分を叱咤しつつ、婚約者へ想いを馳せる。
やがて、オーブンが自動停止し、扉が自動で開けば、むわっと熱が噴き出し、甘い香りを連れてくる。
どうやら無事成功したらしいその甘い香りにリエッタはにっこりと微笑み、ミトンを嵌めた両手でそうっと天板を取り出し、調理台に置き、ぽりっと一本齧り、味見をしてみる。
傍に居た侍女にも味見をして貰い、彼女の笑みが漏れたこともあり、リエッタは多少無理したせいか熱が出た体にも気付かないふりをし、急いで包装し、約束している茶会へ赴くために赤みが強い茶髪をリボンで纏めて貰い、馬車で王宮へと出かける。
ガラガラと車輪が回る音に、馬の蹄の音。
あと何度こうして逢いに行けるのか。
全て己に魔力がないばかりに。
──ほんとうは、さんねんも、いやなのにね、ごめんね、ノエル様
ぎゅうっと胸元に抱えた焼き菓子を抱きしめ、瞳を閉じる。
今日、この焼き菓子を一緒に食べたら、お別れを言おう。
もう、今以上に嫌われたくないから。
日に日に、年々冷たくなってゆく婚約者である皇子の青い瞳に、リエッタの病弱な心臓は悲鳴を上げていた。
魔力持ちは視線にさえ魔力を込めることができる。
第三皇子ノエルのリエッタへ向ける眼差しは、拒絶と諦観。
ほんのりとあったはずの親愛は消えてから久しい。
青い瞳に、蜜を掻き集めたような濃い蜜色の髪に、薄い唇。
声が変わられたせいか少し低くなり、自制しているのか淡々とした口調。
最後くらい、笑顔でお別れしたいな、とリエッタはジワリと涙を眦に浮かべ、お付きの侍女を不安にさせていたが、本人はそんなことに気付くはずもなく、馬車は予定時刻丁度に王宮につき、リエッタは出迎えてくれた近衛騎士の女性騎士に先導され茶会場所の庭へと連れていかれ、その先でパサリと、焼き菓子を包んだ袋を落としてしまった。
「ねぇ、マノン。わたくし、このまま帰った方がいいわよね」
親しそうに、美しい令嬢と体を寄せ合う婚約者の姿に、幼いながらにも公爵家の娘として育ったリエッタは、婚約者が自分の存在に気付く前に踵を返し、数歩歩き、やがて耐えきれなくなったかのように走り出した。
優雅に、笑顔でお別れを伝えるはずだったけれど。
そんな考えさえ吹き飛ばすような光景を見せられてしまっては、とても笑顔でお別れを言えそうになかった。
さようなら、ノエル様。
最後にずぅーっとお慕いしてましたと伝えたかった。
お別れに、額にキスがほしかった。
紫の瞳からポロポロと大粒の涙を零し、庭から王家の私的空間区域までひたすら走ってきたリエッタは、遂にそこで体力切れを起こし、呼吸をゼイゼイと荒げ、蹲ってしまった。
喉の奥はひゅーひゅーと耳障りな音を奏で、視界は昏く明滅している。
心臓もドコドコといつもより早く脈打ち、息苦しい。
こんなことなら、もっと早くに教会に入ればよかった。
そうしたらこんなにも苦しい思いをしなくてよかったかもしれないのに。
無理して走り、更に精神的に大きな悲しみを受けた幼い体は、リエッタの意思に従うこともなく、やがて、ゆっくりとリエッタを闇の世界へと誘っていった。
一方その頃、リエッタの侍女であるマノンは、身分をかなぐり捨て、自国の第三皇子をスカートを絡げ、足蹴にしていた。
マノンの主であるリエッタは幼いながらに己の運命を悟っていた美しくも繊細な少女であり、年相応に夢を見る可憐な少女だった。
その夢さえ奪い、人生の灯さえ奪った皇子など、マノンにとってはゴミ同然であった。
思いっきり最後に蹴りを入れたマノンは、己が主人が落していった焼き菓子が入った袋を拾い上げ、軽く汚れを落とすと皇子の恋人であろうふしだらな女(マノン断言)を睨み。
「どうぞそこのたいそう股の緩いご令嬢とお幸せにおなり遊ばして下さいな。お嬢様のいない処で」
ガスガスと芝生を荒く踏みしめ庭を去り、主を追いかけた。
皇子はマノンが去って暫くした後、ようやく突然一介の侍女に足蹴にされた衝撃が去ったのか、全てを見て、その上で静観していた近衛騎士である女性騎士に何があったのか徹頭徹尾確認し、顔色を蒼褪めさせた。
ノエルにとって婚約者のリエッタは可愛くて、無邪気で、お転婆で、守ってやらなければならない対象だった。
例え魔力がなくとも、リエッタは存在しているだけでノエルを安心させてくれる存在だったのに。
それがいつの間にか、歯車が歪んでいた。
ノエルは座り込んでいた芝生から立ち上がり、魔力を研ぎ澄ませ、婚約者である少女が発する本当に微力な魔力を察知し、走り出した。
背後で何やら喚く、間諜の疑いのある女の尋問は、あの近衛騎士である女性騎士がやってくれるであろう。
彼女もまた、リエッタに救われた、リエッタの狂人的なまでの信者なのだから。
果たして、リエッタは皇妃の私室にて浅い呼吸を繰り返し、小さな身体を発熱させ、苦しんでいた。
部屋の主である皇妃は、自分が産んだ皇子ではない第三皇子を睥睨したが、彼女もまたリエッタを溺愛していた為、致し方なく部屋へ招き入れ、自分はマノンを連れ、部屋から出て行った。
ノエルは震える脚になんとか力を入れ、婚約者である少女が眠っている寝台に近づき、赤味の強い髪に手を伸ばし、梳くようにして指を髪に絡めた。
今回の任務が成功したら、ノエルは皇子位を返上し、リエッタの家へ婿として入る予定だった。
リエッタと期限付きの婚約など、認められなかった。
リエッタがいてくれたおかげで、今の自分はある。
教会になど、リエッタを渡したくなかった。
だから皇帝に皇子位を返上する約束で、リエッタとの婚姻を許可して貰う予定であった。
発熱して苦しそうな愛おしい少女の額に、己の額を合わせ、どうか早く目が覚めるようにと祈る。
そして、目が覚めたら、とりあえず謝って、そして誓いの口付けを贈ろう。
いつもは我慢しているが、今日だけは。
今日は異国では、菓子を使ってキスが許されていると聴くから。
皇子と公爵家の姫君の幼い恋は、魔力関係なく、皇帝から生温い視線で見守られていることなど、皇妃以外、誰も知らない。