件、牛女、牛鬼、その他の怪
件。
人面牛身で予言をなすを言われる怪異だ。
小松左京の「くだんのはは」で有名だ。
あれは特に怖い展開でもないのに非常に嫌な気分を味わえる名作なので、未読の方には是非読んで頂きたい。
件については四谷怪談のヒロインと同じくずっと気になっていた。
だが、変な座りの悪さがあったため深く追求はせずに放置していた。
座りが悪いと言うことはアプローチが間違っていると言うことだ。追求しても結果はでない。
結果が出る時は答えまですっと一本道を行くごとくで、大抵座りの悪さを感じていた問題と別方向から道を示される。
今回、件とはなにか、について俺なりの答えが出たので記していく。
件と似た怪で、牛女と言う怪異がある。
件とは反対で、牛の頭に人の体、古くは第二次大戦期から最近では震災まで。
新耳袋には阪神大震災で瓦礫のなかで目撃された牛女の話が収録されている。
東北の震災でも目撃されたという話もあるが、それについてはどうでもいい。
東北での目撃が偽であると言う訳ではなく、牛女の話が新耳袋に収録され広く知られた以上、真偽に関わらず、絶対に牛女の目撃譚は出てくるからだ。
これからもある程度の震災が起きる度に牛女は目撃されるだろう。
さえ、牛女とはなにか?
これからはいつもの通り、本質直観に導かれるままの妄言だ。
なんの裏付けもない妄想だ。
それを踏まえて、牛女とはなにか?
牛女なのではない、牛と女なのだ。
災害を静めるために牛と女を贄に捧げたことに端を発する怪異なのだ、あれは。
地域よっては牛だけったり、女だけだったりもしただろう。
しかし、天変地異の度に牛と女、もしくは牛か女は生け贄にされてきたのだ。
もちろん裏付けはなにもない。俺の本質直観がそうだと言って深く納得しているだけで証明するものはなにもない。
本気で調べたところでそれは秘祭であろうから、なにも出てこないだろう。
以上の妄想を仮にお互いの共通認識にして次に行こう。
前に俺は「震災後はいつまで続くのか」でゴジラとは太平洋戦争の心理補償であってゴジラと言う幻想の獣に戦争の傷を仮宅してそれを倒すことで心理補償を得るってな事を書いた。
詳しくはそっちを読んで頂くとして、書いている時は気づかなかったが戦争や天変地異の心理補償としての幻想の獣はもっと古いのがあった。
日本最古のあれだよ、あれ。
スサノオによるヤマタノオロチ退治。
ヤマタノオロチに関しては水害であるとか、いやいや噴火であるとか、色々解釈がある。
その正体はさておき、古代の大災害の心理補償としてヤマタノオロチは退治されなければならなかった。
古事記や日本書記にヤマタノオロチの形で記さねばならないほどの大災害があったということだ。
世界各地で悪竜退治やそれに類する話があるのも、それぞれがその地方の大災害を担っているためだ。
また、ヤマタノオロチ退治に関しては八人の姫のうち七人がヤマタノオロチに食われ、スサノオはヤマタノオロチを酒に酔わせて退治した。
これは牛女の伝で読み替えると、大災害を静めるために女と酒を供物に儀式を行ったと読み変えることもできる。
八人の姫のうち七人が食われ、最後の一人だけ助かるのはオカルティックなメタファーではなく、災害で確かに大打撃を被った、しかし、人類は災害に対して決して無力ではないのだという意地にも似た心理が導いたものだろう。
そう、人の心理はやられっぱなしを許容できない。
だから八人の姫のうち七人食われたが一人は助けたになるし、殴られてカツアゲされた男子生徒はあんなカスより俺のがずっと頭いいし、俺のが上等だしになる。
被害を受けるほどに被害をもたらしたものに優位な点を探さずにはいられない。それが天変地異相手であってもだ。
震災の時も実は地震計が数日前から異常を検知していたなんて報道があっただろう。
あれもこの心理だ。
実は前から知ってたもんね、俺は不意打ち食らったけど人類が不意打ち食らった訳じゃないもんね、と言いたい訳だ。
それがどうした? という些細な勝利でも求めずにはいられないのだ。
人の業というかなんと言うか。
あれ、件の話はどこへ行った? と思っている方、ちゃんと件に絡む話だから安心してほしい。
ゴジラは倒せるからいい。科学万歳! 芹沢博士万歳! である。
ヤマタノオロチもいい。神話の時代であるし倒したのは神さまであるし。
ゴジラもヤマタノオロチも戦争や災害の化身である幻想の獣を倒せるリアリティーを人類が備えているからいい。
しかし、それがない時代は?
神話の時代を過ぎ、さりとて科学も発達していない時代は?
江戸時代にゴジラが江戸城目指して上陸したら、幕府はゴジラを倒せるか?って話だ。
お侍さんが土蜘蛛や妖怪を退治した話はあっても、ゴジラVS伊藤一刀斎なんて話はない。
お侍さんにゴジラを切り殺せるリアリティーはないのだ。
刀で切り殺せるのは地方の小災害の化身である土蜘蛛や妖怪がせいぜい。
つまり天皇が退位して天意を問うような大災害に対しては、災害の化身である幻想の獣を倒して心理補償を計ることができない。
だから件なのだ。
幻想の上でも倒せないならば、せめて前持って知ってたもん、あれは不意打ちじゃなかったもんね、の状態に持って行かねばならない。
だから、件は予言を成す。
災害の度に秘祭で生け贄に捧げられた牛と女が混じり合い、時間を遡及して過去に結実して件となって予言を成す。
件とは常に過去に存在する怪異なのだ。
もし件と実際に遭遇して予言を聞いたとしても、実際に災害に合うまでは記憶は封印され思い出すことはできないだろう。
件とはそういう怪異なのだ。
戦争やら天変地異が発生した瞬間に過去に発生する怪異、それが件だ。
どうにもならない災害に対して、過去に遡って発生し予言という形でコミットすることによって制御不能なもものをもしかして少しは制御可能だったかもいう幻想を発生させることによって心理補償を成す怪異なのだ。
つまり件の怪異に遭遇した時、その発生原因は未来にしか存在しないしまた件が発生した時点で不可避的に災害は起こる。俺たちからしたら未来の災害であるが、件からしてみたら既に発生した災害を告げているだけだから。
なんというテッド・チャン。
なんというあなたの人生の物語。
テッド・チャンのあなたの人生の物語を知らん人はぜひ読んでくれ。短編だからすぐ読める。あれは下手にあらすじ調べたりせず、なんの情報も入れずに読んだ方がいい作品だ。
小松左京の「くだんのはは」に感じた違和感もそれだ。
怪談の皮を被った時間SFじゃん!
ホラー読んでるつもりで、実際は時間SFだったんではそら嫌な感じはするわな。
同時に納得でもある。もともと小松左京はSFの人でもあるし。
「くだんのはは」で主人公が疎開先で広島に原爆が落ちる数日前に、家族は広島市にいるのか? と尋ねられるシーンがある。
もちろん件の予言によってなされた問いなのだが、主人公の家族は最初から広島市にはおらず予言関係なく家族は被爆しない。
ほんと小松左京って天才だなあ。
件の本質は未来の災害をただ告げるだけであって、予言によって害を避けるをなるとまったく違う話になってしまう。
きっちりそこら押さえて書いてたのだとしたら、あんた頭おかしいと思うほどの天才だ。
そうでなければ、実際に件に遭遇したか、だ。
俺としては、実際に遭遇してくれていた方が楽しい。
それでもって小松左京の「くだんのはは」とテッド・チャンの「あなたの人生の物語」は本質としてイコールで結べるんだ。
少し改変すれば「くだんのはは」は「あなたの人生の物語」に「あなたの人生の物語」は「くだんのはは」に、
ならなくもないか。
だとしたら、それこそが怖い話であることよなあ、と。
どっとはらい。
ああ、タイトルに牛鬼入れてて牛鬼書いてないじゃん!
まあ、牛鬼という妖怪は土蜘蛛以上ゴジラやヤマタノオロチ未満の災害のメタファーとしての幻想の獣だったのであろうなあってだけの話だけどさ。
どっとはらい。