第三十八話 臆病者の選択
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「蓮!逃げて!」
葵が叫ぶ。その言葉が耳を通り、脳に到達し、そして意味を理解した瞬間、僕は一目散に逃げ出した。
ここにいたら殺される。怖い怖い怖い怖い。
死にたくない。
背後から爆音が聞こえた。ビクリと肩が跳ねる。でも、振り返らない。怖いから。
「はぁ、はぁ、はぁ」
もう息が切れてきた。あれだ。緊張してる時ってすぐにバテるだろ?多分それだ。
結構走ってきたと思う。勇者の力があるからか、結構速く走れた。一瞬だけ振り返ったけど、もう葵の姿は見えなかった。森の中に入ったし当たり前か。
どうやら僕は逃げ切れたらしい。葵のお陰だけど。まあ、葵ならきっと勝てるだろう。剣道の世界大会で優勝したことだってあるんだから。なにより、信じることが大切だと思う。
また、爆発音が聞こえた。反射的に振り返ると、舞い上がる砂煙が森の中からでも確認できた。まだ戦いは続いているようだ。苦戦しているのだろうか。
「あ……」
ベルクさんから貰った腕輪が点滅し出した。葵と繋がっている魔道具だ。点滅は確か、葵が危険な時の警告だっけか。
………。
まあ、なんとかなるだろ。うん。葵強いし。僕なんかがいても邪魔になるだけだしな。
もしも葵が負けたら……次は僕か。……逃げておこうかな。うん。僕がやられたら本末転倒だし……走ろう。それが葵のためにもなるだろ。
僕はまた爆発音がした方向に背中を向けると、再び走り出した。
『蓮、大丈夫だよ。私はちゃんと分かってるから』
この世界に来た時、葵は僕にそう言った。ーー何を分かっていたんだろう。そう言った時の葵の顔が、酷く優しげで、そして寂しげだったのを覚えている。
このまま逃げ帰ったら、また逃げ腰だの臆病だの言われるんだろうな。でも、仕方ないだろ?現に僕は臆病なんだから。
そもそも、周りが異常なんだ。僕は少し前まで平和な日常の中で過ごしてたんだ。争いが全くない世界とは言わない。でも僕は争いのない生活を生きてきた。
なのにある日、突然、こんな訳のわからない世界に連れてこられて戦えと言われて。それを拒否したら臆病者だと言われ、蔑まされて。命の危険がそこらに転がってる毎日を強要されて。
そんなの、無理に決まってるだろ?逃げるに決まってるだろ?
凪斗さんとリリィさんとサムさんは戦うことを選んだ。正直、頭がおかしいとしか思えない。だってそうだろ?なんでいきなり戦えって言われて戦えるんだよ。命をかけた殺し合いができるんだよ。異常じゃないか。
僕はおかしくない。周りがおかしいんだ。
だから……もし、もしも葵が負けて殺されても、僕は何も悪くない。そう、悪くないんだよ。
『はっ、臆病者が』
『この腰抜けめ』
なのに、それなのに、これらの言葉が耳に残る。鬱陶しい。
足が重い。
葵は良い奴だった。こんな僕に優しくしてくれて、守ろうとしてくれた。強いし、可愛いし、なんで僕にあんなに気をかけてくれたのか分からないけど、本当に良い奴だった。僕なんかと出会わなければ、もっと幸せな人生を送っていただろう。
……ここで、あの場所に戻るのがきっと"正しい"ことだろう。ここまで助けられてきたのだから、今度は僕が守ろうとするべきだ。
でも、それに何の意味がある?
この世界も、あの世界も、本質は同じだ。何も変わらない。正しいことをしようとした奴が、真っ先に痛い目に合う。理不尽に見舞われる。悲しみに溺れる。
『蓮……お願い。あなたはーー』
なんだ?………。そうだ。"あの日"、母さんが僕に言った言葉か。そうか、僕はそんな事も忘れてたのか。
足の動きが鈍い。
僕に父さんはいない。数年前に死んだ。ぽっくりと、呆気なく。クソみたいな死に方だった。僕が一番嫌いな死に方だった。
父さんは警察官だった。町では誰からも信頼されていたし、実際、解決した事件は数多く立場もそれなりに高かったらしい。当時は僕も、父さんに憧れていた。
ある時期から、僕たちの町に連続殺人犯が現れた。毎日死体が見つかり、人々は皆、恐怖に体を震わせていたものだ。
その当時、警察はパトロールを強化し、常に二人一組で行動していた。犯人を見つけた場合、確実に確保するためだ。
その日、父さんは一人で町を歩いていた。仕事が終わり、僕たち家族と外食するために。そこで、父さんは犯人を見つけた。
もう分かるだろう?
正義感に溢れていた愚かな父さんは、他の警察官に報告する間も惜しんで犯人を追いかけたんだ。そして、死体で見つかった。返り討ちにあったんだ。
僕と母さんは、ずっと約束のお店の前で待っていた。何も知らず。ずっと。ずっと。
葬式には多くの人が来た。
『全く、手柄を一人締めしようとするからだ』
『俺たちに連絡もなしに……自業自得としか思えん』
『やあねぇ。自分一人でやろうとしたせいで、犯人を捕まえることは出来なかったんでしょう?ちゃんと仕事を果たして欲しいわよねぇ』
『所詮、名声欲しさだったってことかしら』
他の警官が、町の人達が、そう呟くのが聞こえた。いや、わざと聞こえるように言ったのだろう。理不尽だ。一度失敗すれば、評価が地に落ちるんだから。
母さんはずっと泣いていた。理由は分かる。母さんは、父さんのことが大好きだったから。正義を信条にしていた父さんのことが大好きだったから。
足が止まった。
『蓮……お願い。あなたは死なないで。どんなに卑屈でも、どんなに臆病でもいい。絶対に死なないで」
母さんはそう言った。正義を捨てたのだ。大切な人を失うかもしれない恐怖に屈して。でも僕は、それが間違ってるとは思わない。
だから、僕はあの世界に帰らないといけない。母さんは、僕なしでは生きていけないから。父さんを失った母さんには、僕しかいないから。
僕は母さんが大好きだった。毎日、こんな僕の帰りを笑顔で迎えてくれた母さんが。母さんの笑顔が好きだった。だから、そんな母さんを泣かせる存在が許せなかった。
警察が憎かった。
町の人達が憎かった。
そして、父さんが憎かった。あの人は、自分勝手な行動で母さんを不幸にしたんだ。何よりも守るべきものを守らなかったのだ。正義なんてくだらないもののために。
だから、7歳の僕は誓った。僕は一生、愚者であろうと。臆病者であり続けようと。父さんのようには、ならないと。
頰が熱い。……濡れている?
なのに、なのになんで、僕は父さんに憧れていたんだろう。なんで、ああなりたいと思っていたんだろう。なんで、父さんが侮辱された事があんなに悔しかったんだろう。
僕は正義の味方になんてなりたいとは思わない。ただ、いつか、何か一つでも出来た守りたいものを作って、それだけは守り抜きたいと思った。何かを守るために奮闘していた父さんが、無性に格好良かった。
体が反転した。
母さんは、僕が臆病であることを望んだ。僕もそれを望んだ。
くだらない。正義なんて。
くだらないくだらないくだらないくだらないっ!
……でも、正義を成す"勇気"は、何よりも格好良い。
足が動き出した。
僕はなんだ?僕は何をしてきた?僕には何がある?僕は何がしたい?
僕は腰抜けだ。
僕は卑屈だ。
僕は臆病だ。
僕がどれだけ足掻いても正義なんてものは手に入らない。そもそも欲しいなんて思わない。
正義なんてくだらない。世界で一番くだらない。でも、何かを守ろうとする行動は、勇気は、きっと何よりも大切で、かっこいい。
……そうだ。そうだよ。
腰抜けな奴にも、立ち向かう権利ぐらいはあるはずだ。
卑屈な奴にも、覚悟を決める権利ぐらいはあるはずだ。
臆病な奴にも、勇気を抱く権利ぐらいはあるはずだ。
「は、はは、はははははははははは」
乾いた笑い声が、喉の奥で掠れて消える。笑うしかない。気付けば逆走していたのだから。
「おいおい、どこに向かうんだよ。僕は戦えないぞ?」
答える者なんていない。僕の足を止める者もいない。だから、僕は走り続けた。
「くそ。……ちくしょう!」
誰か、誰でもいいから僕を止めてくれ。頼む。止めてくれ。
怖い。連鎖する爆発音が近付いてくる。当たり前だ。僕から近付いてるんだから。
怖い。足が震える。体に力が入らない。溢れる涙が止まらない。なのに、足は前へ前へと走り続ける。
怖い。もう何度もこけた。食い縛りすぎて歯茎から血が出てきた。なのに、体は止まらない。
怖い。どうしようもなく怖いんだ。止めてくれ。誰か。
……もう、いいか。諦めよう。
きっと、これが最期だろう。もちろん、怖い。怖すぎて気付けば漏らしてた。それでも走り続けてる。
どうせ最期なら、恥じない生き方をしたい。何も成さずに終わるぐらいなら、何かを成そうとして終わりたい。例え、それで何も成せなくても。
……今まで、あらゆる事を見て見ぬ振りをしていた僕にこんな事を言う資格はないだろう。でも、最期なんだ。これぐらいのエゴは許してくれ。
「蓮!何してるの!?」
前を見れば、あの黒いナニカが立っていた。背後にはボロボロになった葵がいる。いつの間にか葵の前に出てたみたいだ。
訳が分からないほどの恐怖が、僕を襲う。
足がガクガクと震える。音が聞こえてきそうだ。今すぐにも逃げ出したい。でも、体は動いてくれない。
ごめん、母さん。約束、守れなかったよ。そっちに帰れそうにないや。また悲しませてしまうことになるのは、本当に申し訳ない。
息が荒い。涙が止まらない。歯がカチカチと噛み合わない。股は尿で濡れている。こんなに格好悪い男は、どの世界を探しても僕ぐらいだろう。
でもね、母さん。もしあのまま逃げてたら、僕は絶対に後悔してた。葵だけは見捨てられないんだ。なぜか分からないけど、それだけは駄目な気がするんだ。
僕は愚かで、どうしようもないクズだ。誰からも見下され、蔑まされてきた。それも当然だから何も言い返したりしてこなかった。
でも、自分にだけは見下されたくない。そして、父さんにだけは負けたくない。
「はぁ、はぁ、はぁ」
「蓮!逃げてって言ったでしょ!?」
葵が叫んでいる。凄いなぁ。こんな時まで他人の心配なんて。
「蓮!」
「うるさいっ!」
「っ!」
「うるさい!うるさいんだよ!いつまで強がってるつもりだ!いつもいつも、僕の事を分かったような顔をしやがって!僕がお前のことを分からないなんて思うなよ!怖いなら、言えばいいじゃないか!怖いなら、縋ればいいじゃないか!」
そうだ。葵が勇敢だから、僕はこんな事をしないといけない。葵のせいだ。全部、葵のせいだ。
でも……ありがとう。君のお陰で僕は……最期の最期に、少しだけ自分のことが好きになれそうだ。
「ーーー!」
獲物が増えたことに喜んでいるのか。ナニカは僕を前に、叫んだ。全身が震える。
……父さんは。父さんはこんな恐怖と、戦っていたのか。
「こ、ここからはっ!」
声が震えている。格好悪いなぁ。でも、こんな僕にだって意地はある。譲れないものはある。
「ぼぼぼ僕が!相手だっ!」
言い切った。言い切ってしまった。もう引き返すことは出来ない。引き返すつもりもない。
「蓮!?」
「いいから!……いいから、早く逃げてくれ」
葵が逃げてくれたら、僕も逃げれる。きっと、もう逃げ切れないだろうけど。
母さん。……父さん。僕に力を、勇気を貸してくれ。
「蓮!」
「僕は!死んだりなんかしない!!!」
僕は、せめてもの抵抗に握り締めた拳を突き出した。せめて、せめて一矢報いたかったんだ。
そして、全てが黒に染め上げられた。