Queen's tea party -3-
嵐のようにやってきて、そして話すことだけを話して出て行ったチェシャ猫に頭を抱えつつも、カインはそのままベッドへ身を投げ出した。
柔らかなベッドは沈み込んだカインの身体を受け止め、そのまま優しく包み込む。ふんわりと香る太陽の匂いがかすめ、その匂いが連れてきたように眠気がやってきたが、その中にいつも感じているベルゼン特有の木々の香りは混ざっていない。自然に囲まれ、自然が常にそばにあるベルゼンと、都会であるアルトプロトは匂い一つとして同じではない。その現実がカインが目をそらしてきた心の虚しさを意識させるようだった。
「姉さん……」
姉の姿を思い浮かべ、そしてその後チェシャ猫の言ったことをゆっくりと思い返した。恐ろしく現実味のない話だったが、チェシャ猫が語ったことはおそらく事実だろう、とカインは考えていた。もしかするとすべてが事実ではないのかもしれないし、そもそもまだチェシャ猫の所属している組織にハンナも所属していたという裏付けは取れていない。すべてを鵜呑みにするわけにはいかなかったが、少なくともカインが見聞きした非現実世界だったものの説明はチェシャ猫の言い分で通ってはいた。
「姉さんを探しに来たのに、とんでもないことになってきたな……姉さんは、どこかで生きてるのかな。それとも……」
そこまで口に出してから、カインは言葉を失った。行方不明という言葉が深く胸に刺さる。もしこのまま見つからなかったら、カインは本当の意味で天涯孤独となるのだ。閉鎖的な村でしがない木こりをしていたカインに、こんな大きな街の中でたった一人で生きていく術があるのか、という不安や、もう誰も家族がいないのだという悲しみに溢れた涙が静かに枕を濡らした。たったひとつの望みをかけて村を出て来たカインにとって、ここに来ればハンナに会える、という自分自身でもよくわからない自信があったのだ。その自信はこの街についたに二日目にして呆気なく崩れ去ってしまった。
だが、まだ希望はある。ハンナの行方は誰も知らない。ということはもうすでに亡くなっている、と確定したわけでもなく、その上チェシャ猫のたちも行方を捜しているというのだ。自分の姉を探している人間がいるというだけでも、カインにとってここに来た意味は十分にあるように考えられた。
村を出た時に、ここにいた記憶だけを大事に持ち、全てを置いていくと決めたのだ。戻って誰もいない村で一人孤独に生きていくくらいなら、姉が憧れて訪れたこの地で、カインは生きていく覚悟をきめていた。
「まずは、明日……女王という人物に会う」
大きく息を吸い、長々と吐き出す。母親が緊張をほぐす時にこうしなさいと教えて来れた呼吸法は、些細で当たり前なことだったがカインの小さな世界の中では特別な意味を持っている。おまじないのようなものだった。
「大丈夫。俺、頑張るから……母さん。必ず見つけ出すから、待ってて姉さん」
自分を振るい立たせるようにそう小さく声に出すと、ベッドサイドのランプの火を消してベッドへと潜り込んだ。
翌朝、窓から差し込んだ光がカインを夢から引き上げた。どんな夢を見ていたかはよく覚えていなかったが、どこか懐かしいような気持ちが胸に強く残り、目を開けた時には目尻から涙が一滴零れ落ちた。だが、家族の夢ではないような気もし、不思議な感覚を残しながらカインが体を起こした時に、扉が控えめにノックされた。
「はい」
「失礼いたします、カイン様」
そう言って入って来たのは昨晩もカインの世話をしてくれた青年、ビルだった。昨晩は店に出ていたのか、ビルもしっかりとした格好をしていたが、今は丈の長いシャツにゆったりとしたパンツというラフな姿をしている。手に木桶とタオルを持ち、軽く一礼するとカインが頭を下げる前に近くへと寄って来た。
「昨晩はよくお休みになれましたでしょうか」
「おかげさまで。何から何までありがとうございます」
「いえ、私はチェシャ猫に言われた通りにしているまでです。顔洗い用の水とタオル、そして着替えをお持ちいたしました。と言っても、カイン様用に仕立てたものではありませんので、少し丈が合わないかもしれませんが……」
「貸していただけるだけで十分です。俺の持っている服は到底女王様に謁見できるような上等なものではないので……助かります」
テーブルに置かれた木桶から水を掬うと、ひんやりとした冷たさが手から広がった。森の木々が太陽の光を遮ってくれるベルゼンは冷たい空気が流れていることが多い。それに比べてアルトプロトは太陽の光がさんさんと差し込んでおり、朝から気温は高いようだ。顔を水に浸けると、眠気でふわふわしていた頭がすっきりしてきた。
カタン、と音が鳴り、室内に風が通る。タオルで顔を拭きながら見ると、ビルが部屋の窓を少し開けたところだった。風が運んでくるアルトプロトの朝の匂い、人々の喧騒に、今まで静かだった部屋も心なしか明るく感じる。カーテンを開けたことによって直接差し込む太陽の光は、いつも木々にさえぎられて薄暗いベルゼンよりも強烈で、それでいて力強さを感じた。
行き交う人々が窓辺に立って手際よくカーテンをまとめているビルへ挨拶をする。ビル自身はあまり人と接するのが得意ではないのか、もともとが寡黙な性格なのかは定かではないが、静かに頭を下げてそれに応えていた。
「都会は、すごいですね……」
「そうですか。私は生まれも育ちもこの街ですが、この街は少しうるさすぎる気はしますね」
カーテンをまとめ終えたビルはピクリとも表情を動かさずにそう告げると、「朝ご飯を持ってきます」とだけ告げて、部屋を出て行った。
口から生まれたのかと思うくらいくるくる口が回るチェシャ猫と、無口で淡々と物事をこなすビル。まるで太陽と月だな、と心に浮かんだ感想に自分で、ふっと笑みを浮かべながら着替えを済ませる。
少々袖丈、裾丈が短い気もするが、カインの持つ服とは天と地の違いがあるといっても過言ではない、きちんとした服だった。正装に近いジャケットとパンツ姿に自然と体に力が入る。こんな格好をしたのは、隣町の学校の卒業式の時くらいだった。それでもここまで上等なものはカインはもちろん、村の子どもたちは誰も着ていなかった。きこりという生活が人生そのものといってもいいであろうあの村の人々には着る機会すらないだろう。
ほんの少し自分が特別になったような気分になり、そしてそのすぐあとこの後に控える女王様との謁見というクリアすべき難題に、カインは心が重たく感じてベッドへと座り込んだ。
「女王様に会うのにそんな暗いカオしてちゃ、まずいよォ……カイン?」
「……っ! チ、チェシャ猫! いつからそこに!」
「さっき来たとこだよ。何、見られたくないようなことでもしてた?」
入り口にもたれかかりながらにやにやとした笑みを浮かべながらカインを見つめている。特に何も見られて困るようなことはしていないが、他人に見られるということ自体が何だかむず痒い。カインはごまかすように上着のボタンを締めながら立ち上がった。
「ビルに朝食を運んでもらおうと思ってたんだけどさァ……、女王様がぜひ一緒にご飯でも、っておっしゃってるんだ」
「なっ?! 俺、そんな育ちのいい食べ方なんて……知らない」
「だぁいじょうぶ! そんなことくらい雰囲気でわかるから」
さらっと言われた失礼な発言に、むすりと顔をしかめるとわざとらしく気づいたふりをしたチェシャ猫がますます笑みを深めた。
「怒ったのかい?」
「別に……失礼な奴だなと思って」
「ふは、怒れる元気があるなら大丈夫。緊張もほぐれたでしょ」
チェシャ猫なりの気遣いだったのか、音もなく静かに近づくと肩を優しくつかまれる。見上げると、チェシャ猫は真剣なまなざしをカインに向けて何か言いたげな表情を浮かべていた。だが、カインが口を開いてその表情の真意を突く前にへらりとまた顔を緩ませて何事もなかったかのようにカインから距離を取った。
「女王様は、ものをはっきりおっしゃる方だよ。リーダーって、そういうものだろう。決断力がある。それに、女王様には侯爵夫人がついてる。このグループの、まとめ役みたいなものでさ、侯爵夫人も手ごわい。ある意味、女王様より」
何が言いたいのかなんとなく察したカインが不安を露わにしたのだろう。それでも普段より落ち着いた口調を変えないまま、チェシャ猫は続けた。
「それでも、その壁を君なら超えると思った。君の立場はハンナより弱い。その理由は女王様に会ったらわかると思うけど……でも、僕は君の味方だ。揺るいだら、僕を信じて。僕は、君を待っていたんだから」
「姉さんとの約束を守るために?」
その問いかけに一瞬言葉を選ぶように視線をさまよわせてからチェシャ猫はしっかりカインを見た。
「ハンナとの約束と、そして僕自身の願いもあって、だよ」
「その願いが何かは、誰にも言えないんだけどねェ」と、チェシャ猫がまた笑みを浮かべる。また、チェシャ猫の真実はその笑みの奥へと隠されてしまったが、カインを信頼した目だけは変わらずにカインを捉えて離さなかった。
「それじゃあ行こうか、カイン」
チェシャ猫が差し出した手を、カインは力強く頷いて握りしめた。




