Queen's tea party -2-
その言葉に、カインは思わず身を乗り出して立ち上がりかけた。だが、しっかりと手入れされているベッドはカインの体重を逃がすようにふわふわと不安定に沈み、あっけなくその場に倒れ込む。それでも必死に顔をあげたカインは叫ぶように男へ問いかけた。
「働いて……って、じゃあ今ここに姉さんはいるのか?!」
「人の話聞いてたかな、弟くん。働いてた、って言ったじゃん。今はもういないよ」
「辞めたんですか……?」
漏れ出すようにか細い声で聞き返すと、男は目に一瞬悲痛の色を浮かばせてからゆっくり首を振った。
「まさか、死ん……」
「わからないんだ……行方が分からない。僕たちも探しているんだよ。彼女は僕らの大切な仲間だから」
「仲間? そんなことをいって本当はお前たちが姉さんを殺したんじゃないのか!」
そう叫び、睨みつけた視線が男と絡み合った。その目に映る色に嘘がないことはさすがのカインでもよく分かった。まっすぐと見つめて来る目はただ静かに、ハンナを慈しみ、彼女の失踪を悲しんでいたからだ。勢いよく睨みつけたものの、抱えている感情が自分と同じなのだとわかり、カインはそっとその場で目を伏せた。
「今、アリスの捜索をしながら、ハンナの捜索もしている。もしかしたら、空想世界に閉じ込められているのかもしれないし、あるいは……もうアリスに……」
「アリス……」
アルトプロトに来てもう何度も耳にした名前にカインが眉を寄せた。クリスタの元夫やこの男が尊敬の意を込めて、あるいは恐れ戦くようにその名前を口にするのだ。そこまで思考を深めていると、ふと手に重みを感じた気がした。最後まで抱きしめることができず、置き去りにしてきてしまったあの太陽のように笑う女性……。姉のことも大事だが、親切にしてくれた恩を返すこともままならなかったクリスタのことが一気に脳内を占めた。
「クリスタさん……クリスタさんは! それに、アリスって誰なんですか! あの、いっぱい人が死んでたのはいったい……」
「落ち着いて。アリスについては、関わってしまった上に記憶の保持がみられる以上君にはきちんと説明するよ」
男はゆっくりとベッドに近づくと、興奮したカインの肩を優しく押して浮いた体をベッドへと落ち着かせた。男はそのまままたベッドサイドの椅子に腰かけてカインに向き直ると、説明を始めた。
「この町、アルトプロトを中心に今病が流行しているんだ。その病の名前は。”空想世界症候群”。人の思い描く夢や希望、あるいは呪い、復讐の世界を形にする病だよ。
感染した人はうわごとのように自分の理想を口にし、望みを言い、性格も変わっていく。そして症状が最終段階まで行くと、背中からガラスの羽根が生えるんだ。そのガラスの羽根が生えたときに飛び散った破片がつながって、そこに一時的に異空間を作り出す。その異空間が、君や殺された人々が閉じ込められた世界、空想世界だよ」
「空想世界……」
そう言いながらカインはあの時の出来事を思い描いていた。確かにあの時、何かが飛んできた。そして顔をあげたときには一瞬にして世界は全く知らない場所へと変化していたのだ。それがその、病の成す症状であるなら男の様子がおかしかったことも、そのあとの出来事もどうにかつじつまを合わせることはできた。
「その病の原因が、アリスだよ。おそらく完全に発症する前からあの男のそばにいた……君には見えていただろうけども、水色のエプロンドレスを着た女の子。あの子は実体を持たない、幽霊みたいなものなんだ」
「嘘だ! 俺は確かにちゃんとその女の子が見えていた!」
「君はね」
「……」
男の含む言い方に、心当たりのあるカインは黙り込んだ。あの時あの少女が見えていたのは確かにカインだけだったのだ。
「信じられないっていうことは君自身が見えないものが見えたことになる。もしそうなら、君は立派なビョーキだ、精神のね。でも違う……アリスは存在する」
「そのアリスは、どうしてそんな病を流行らせてるんだ……」
「彼女はね、体を探しているんだ。病に感染した人間、空想造主の作り出す空想世界のどこかにあるって言われている、自分の身体を……。
自分の選んだ人間が作った世界に体が無かったら、アリスは不出来な世界としてその場にあるもの、いる人物すべてを破壊する。それが今回君が巻き込まれた事件だよ。
ここまではいいかな?」
男が、ほんの少し悲しげに、そして寂し気に笑った。まるで、アリスのそんな行ないを望んでいない、心の底から悲しんでいるような笑顔だ。その表情に、なぜかカインは言いたい言葉も問いかけも喉奥へと飲み込んでしまった。
しばらくカインの言葉を待っていたが、何も口を開かない状態を見ると男は説明を再開した。
「さっきも言ったように、君はあの男の作り出した空想世界の世界に巻き込まれた。通常、空想世界に巻き込まれた人間はアリスの放つ瘴気や毒気に充てられて、空想世界からは脱出できない。そのまま、空想世界とともに永久に閉じ込められてその世界をさまようことになる。もし今回の君のように僕らが助けたとしても、大半はショックで記憶を喪失しているものなんだ。
君は特別なんだよ、ハンナと同じ……アリスに対して耐性を持っている」
「姉さんも……」
「そう。ここからはハンナも関係する話にはなるけれど……、僕が所属している組織はアリスの手から人々を守る活動をしている。アリスに耐性のある者たち、その中でも特殊な能力を持った者たちが集まっているんだ。
ハンナは、その一員……白うさぎというコードネームを持っていた。そして僕はチェシャ猫だよ」
「改めてよろしく」と、男――チェシャ猫が椅子から立ち上がって手を伸ばした。カインは一気に説明されたことを脳内で整理しながらも無意識にその手を握る。チェシャ猫が握り返した時、ようやくカインの青い目は彼のきゅっと笑って細くなった猫のような目を捉えた。
「じゃあ、その話が本当なら……クリスタさんや、クリスタさんの旦那さんはどうなったんです……」
「発症者の男はおそらくアリスの闇に囚われている……アリスの用意した闇の中で自分の抱く空想の世界を夢見続けて目覚めない。彼女は、あの世界の中で死んでいるから生まれ変わることはできない。あの世界でずっと魂はさまよい続けるよ」
「……なんで……そんな」
絞り出すように呟いた言葉は虚しく宙へ掻き消えていった。
「じゃあ、もしかして……姉さんも……」
「君の姉さん、ハンナに関してはまだわからないんだ。数か月前、突然行方を眩ませた。僕らもさっき言ったように探している」
食い入るように見つめるカインの視線に困った顔を浮かべながら申し訳なさそうに言ったが、そういわれることがわかっていたカインは決めていた決意を口にした。
「なら、俺もここにおいてください」
「うん、まあ……君ならそう言うと思ってたよ。ただ、ここに置くにはまず僕の所属している組織のボスへ挨拶をしなければいけないねェ」
うん、と小さく唸りながらチェシャ猫が顎に手を当てて考えるふりを見せる。だが、カインの答えをわかっているかのように口を開く前にチェシャ猫がその言葉を遮った。
「君と我らがボス、女王の謁見はもう取り付けてあるよ。ああ、女王といってもこれもコードネームだから、安心して。今日この部屋はビルに頼んで貸切にしてもらっているから、明日の夜に女王と会うまでゆっくりするといいよ。もう夜も遅いからさ」
いろいろ頭を整理したいだろう、とチェシャ猫が付け加える。
正直宿も取っていないカインとしてはこれほどまでに有難い申し出はなかったため、ここは素直に甘えておこうと考えていた。ここまで情報を与えておいて、今更夜にカインを口封じに来る、というのも到底考えにくかった上に、チェシャ猫が言うように頭と心の整理をしなければ謁見などやってられない。
カインが静かに頷くと、チェシャ猫はぽんっと子供をあやす様に頭に手を置いてぐりぐりと撫でまわした。その行いにむすっと顔をしかめて振り払うが、たいして気にも留めていないようにチェシャ猫は後ろに下がり、また表情の読めない仮面のような笑みを浮かべた。
「明日必ず女王に会わせてあげるから、それまではここでおとなくしてて。勝手に歩き回っちゃだめだよ」
じゃ、と返事をする前に手をひらりと振ってチェシャ猫は部屋を出て行った。




