Queen's tea party -1-
耳の奥に響くような甲高い笑い声、舞うように飛び散る鮮血とその中で楽しげに踊る少女。迫りくる死の恐怖と男の拳。優しく肩を抱く手と、落ち着かせるような少し低めに出された声、そして紅茶の香り。
そこまでが一気に光の速さで駆け抜けたあと、カインは勢いよく目を開けた。
目を開けた先は木目調の天井だった。一瞬自宅の天井かと思ったがすぐに色が違うことに気づく。ゆっくりと体を起こして辺りを見回すと、やはり全く見覚えのない部屋だった。ベルゼンにある自室と同じような小部屋に変わりはなかったが、ベッドも、そのそばにおいてあるナイトテーブルも、ニスがかけられ艶やかに加工されている。伐採してそのままテーブルやいすとして使用するベルゼンとはお金回りの使用も、家具へのこだわりも段違いだ。窓にかけられたカーテンもアイボリーを基調とし、細かく刺繍が施されている。カインにはあまり価値がわからないが、母が刺繍をしていたのはよく見ていたため、その細やかな芸はとてもじゃないが素人が作れるものではない。そこから入る光はカーテンの色によって柔らかな光へと変わって部屋に差し込んでいる。
「う……っ」
体がだるく、頭も割れるように痛身を伴っている。思わず漏れた小さなうめき声は小さな室内には大きすぎるほどの声だったが、閉ざされた扉が開く様子はない。少し安堵の息をこぼしたものの、針をいくつも刺されているかのような鋭い痛みに耐えるように歯を食いしばって俯くしか今のカインにはできなかった。
そうして呻き続けて数分後、扉の開く音がした。
「ようやくお目覚めですか。よく眠っていましたね……半日は眠っていましたよ」
耳に届いた少し掠れて低い声は全く聞き覚えのないものだった。顔を上げて隣へ目をやると、髪の長い男が立っていた。声同様見覚えのない姿と、少し変わった雰囲気の男に、カインは頭を抑えながらも、ゆっくりと上から下へ視線を動かす。
手入れが行き届いておらず、伸ばしっぱなしになった髪は光の加減で黒にも緑にも見える不思議な髪色をしている。暗い髪色と対比するように肌は青白い。片目は伸ばされた髪に隠れているが、もう一方の目で鋭くカインを射抜いていた。
全体的にひんやりとした空気をまとった男は軽く一礼をするとベッドサイドにあるテーブルへ手にしていたトレーを置く。黙って何か用意し始める男に訝しげな視線を送りながらカインはおずおずと疑問を口にした。
「誰……ですか」
声をかけると男は小さく「ああ……」と声を漏らし、カインへ向き直った。そして次は深々と一礼をすると、ぎこちない笑みを浮かべる。
「失礼致しました。ビル、と申します。表向きはバーの店主をしておりますが、今はあなたを運んできた男に頼まれて、あなたの世話をしています、カインさん」
見た目に似合わず丁寧な物腰と柔らかな口調に、警戒していたカインの体から少し力が抜ける。ひとまず、見た目より悪い人ではなさそうだ。敵意も感じない。だが、人としての柔らかな感情などはあまり感じられず、カインの困惑や不安が完全に消し去った訳では無い。そしてなにより、また自分の知らない人間に名前を知られている不快感が強く残った。
「あの……なんで、」
「質問やご不安はあとでお伺いします。もっとも私より、詳しく話してくれる人間が後から来ますが……。それよりも頭が痛みませんか? アリスの近くにいれば瘴気に当てられて頭が痛くなったりするそうです、慣れない人は特に」
ビルは一気にそう言うとそのままコップと薬を差し出す。コップに注がれた水は色や臭いも特にはない。毒だなんだの心配をするよりも死にそうなくらい渇いた喉と痛む頭に我慢出来ず、カインは水と薬を手に取った。一瞬のためらいを感じるもカインは一気に水と錠剤を飲み込む。さらにビルが注いでくれた水を3杯ほど飲んでからようやく落ち着いたように息を吐き出した。
「また眠気がきます。薬の副作用で、ですが。起きる頃にまた来ますので、それまではゆっくりおやすみください。この水は置いていきますので、お好きに飲んでください。それでは」
ビルがそう言って部屋を出ていくのを見送る間に、カインの意識は朦朧としてくる。扉を閉める際に見せたビルの不敵な笑みに不安を覚えつつも、そのまま抗うことのできない眠りへと落ちていった。
「やぁ」
「うわああああ!」
次に目を開けたとき、目の前に迫る顔に絶叫をあげて手を振り回す。だがそれをひょいっと避けて、その男はへらへらと感情を隠す笑みを浮かべた。
三度目の対面だ。この青年が男であることはなんとなくわかった。助け出してくれた際に抱き留めていた胸板が男性のものだったからだ。意識が薄れる中、そういうことだけはなんとなく覚えている自分のどうしようもなさに少し呆れながら、改めて男を眺めた。初めて会った時と服装が若干異なりはしたが、長い茶髪と切れ長で糸目な顔、そして表情を読み取らせないような笑みを浮かべて立つその姿は間違うはずもなく、トンネルの前で出会った青年だ。
「あ、あなたは……そうか、俺を運んできた男って」
「そ、僕だよ。頭重たいよねェ、頭痛薬と一緒に睡眠薬も飲ませたからさ。でもよく眠れたでしょ、ハンナのことも思い出さないくらい……ね」
姉の名前が出た瞬間、殺意にも似た感情が走り抜ける。自分の知らない姉の部分を知っているにもかかわらず決定的な真実を告げないこの男の言動はカインをひどくイライラさせた。ちらつく姉の面影は、アルトプロトで過ごしていたであろう姉のすべてをこの男が掌握しているような感覚に陥る。こちらの様子と反応をうかがいながら、自分の手持ちの札をちらつかせて興味を失わせない。男の意のままであることは気にくわなかったが、今はそんなことは言っていられないほど、知りたいことがたくさんあった。
その複雑な感情が相手に向けた視線にこもったのか、少し困ったような顔をしながら男はベッドサイドの椅子に座った。
「ごめんって、そんなに怒らないでよ。からかいすぎたね、うん」
「いろんなことがありすぎて……どうなってるんですか」
「ハンナも、同じことを聞いたよ。君たちはやっぱり姉弟なんだねェ」
髪に触れようと伸ばしてきた手を軽く振り払う。少し傷ついたような顔で、男は笑って言う。
「そういうところも、そっくりだ。ベルゼンの人ってみんなそんなに警戒心が強いものなのかな」
「そういうわけではないですよ。俺があなたを信用していないだけです」
「僕ってそんなに信用無いんだ?」
落ち込んだように眉尻を下げながらも、たいして傷ついていないようなヘラリとした表情は崩しはしなかった。そういう表情や行為が、信用に値しないというのはおそらくやっている本人が一番わかっているだろう。カインは何も言わずただ呆れたように首を振った。
「まあでも、信用してくれていいよ。僕は君には嘘をつかない。ハンナとの約束だからね」
まるで愛する人を思っているような声音と表情に、妙ないら立ちをますます感じてカインは思わず疑いのまなざしを深めた。だが、カイン自身が現状を何も理解できていない以上、唯一情報をくれそうな人物を無下にすることはできない。ベッドで深くため息をつきながら、改めて男を見た。
「まず、あなたの名前とここがどこなのか教えてくれますか」
「ここは、”バー Queen”の地下にある部屋だよ。普段は人の立ち入りを禁じているところだけど、君は特別。きちんとオーナーの許可も取っているし、気にせず体を休めてもらっても大丈夫」
「Queen?」
聞き覚えのある名前に小さく頭をかしげると、男も真似をするように頭をかしげた。
「姉さんに聞いたのかい?」
「いえ……。ドミニクさんに教えてもらったバーの名前が、確かQueenだった気が……」
「ドミニクって、ああ……彼は一度もうちを使ったこともないし、アリスにもかかわったことはないんだけどね。さすが、ゲートに立つ人間の情報力はすごいねェ」
男は静かに立ち上がるとベッドの前へ回り、カインの正面へと立った。手を後ろで組み、姿勢を正すとにっこりと営業用と思えるような笑顔を貼り付けた。
「君がここの場所を知っていたなら真っ先に来るべきだったね。そうすればアリスに巻き込まれなかったのに……」
「どういう意味ですか」
カインの鋭く刺さる視線を気にした風もなく、男は背を向けて小さく言った。
「ここは君の姉さん、ハンナが働いていた場所だよ」




