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air  作者: 変彩金緑石
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第1章

何気にえぐいですね

〜俺〜


妻が念願の飲食店『紫陽花亭』をオープンさせて一年が経った。


何となくとらえどころのないこの店名は、諧謔好きの妻が味最低、に引っ掛けて付けたもの。単なる悪ノリだ。


妻はオシャレなカフェ的なものを目指していたらしいのだが、妻の性格のせいか場所柄の為か、オープン当初から雰囲気は一貫してthe・めしや だ。

客層も女子会ランチやデート中のカップル等は見かけない。近場にある市場の従業員や出入りしている運送業者、ママ友関係からは卒業してしまった、声と包容力(ついでに胴囲)の大きな熟女様達が主流だ。

そういう客層の為か今時まだ分煙もされていない店で、それが更に来店者の種類を狭めているのは確かだろう。


それでも、


妻はそれらの人々に負けず劣ず、大声で話し、笑い、絶えず動き回っている。大抵の客よりは年齢もサイズもかなり下回ってはいるものの違和感は感じられない。


そして…俺は空気だ。


空気はその存在を認知されにくいものの、生命活動に必要不可欠な訳で、その点では俺の価値は空気以下ということになる。


何しろなんの貢献もしていない。


カウンター席に三十路半ばの女が座っている。

たまに来る独り客だが今日は機嫌が悪い様だ。テーブル席で大声で話している男達の会話が気に触るらしい。


「オッカが五十肩なりやがってよ、ホック止められねえつってスポーツブラ?テーブラ?だかつけてんだけどそれ着るのも痛てー痛てー騒いでクネクネタコ踊りしてやがんのよ。」

咥え煙草で身振り手振りよろしくオッカの不自由さと痛がる様を再現している男はなんとも楽しそうだ。

「毎日ダンスショータイムだわな。」

周りの仲間が囃し立てるように笑う。


女は人に気取られぬ程度に眉を顰め、短く息を吐く。


確かに聞いていて愉快になる類の話では無いだろう。


しかしあの男が毎晩そのオッカと共に入浴し、腕の上がらない彼女の髪を洗っていることを俺は知っていた。

だからといってそのような事を告げるつもりもその術もない。そもそも髪を洗ってやる事と自分の配偶者を笑いものにする事とは無関係であり、免罪符とはなり得ないのだから。

少々の情状酌量にはなるかも知れない程度の情報を、この女は別段欲してはいないだろう。


「ありがとうございました!」

昼食を終えた男達がゾロゾロと出て行き、妻がテーブルを片付け終わったタイミングで、女がドリアを注文した。

コーヒーを頼んだのみで殊更ゆっくりと啜っていたのは彼等の会話に食傷気味だったから、と言うのは穿ちすぎだろうか?


「お待たせ致しました。」

妻がドリアを出すと女は礼を述べ、スプーンをとったがふと

「ママって大抵のもの運ぶときミトン付けてるよね?」

と声をかけた。妻ははにかんだ様に微笑み

「縦型カップ麺も持って食べられないの。失礼かな?不愉快かな?とは思うんだけど落とすよりは良いしね。」


「私って面の皮以外の皮膚が薄いんだよね。」

今度はアハハー、と笑う。

女も笑いながら少し呆れた口調で

「そんな言い方ばかりしてるからメニューも内装も可愛いのに定食屋みたいになっちゃうんだよー」

と冷やかす。またもやアハハーと笑う妻。


俺は苦笑を漏らす。自虐ネタとか言うものなのか。

確かに妻は手荒れ等になりやすい。家事をこなす時は大抵何かしらで手を覆っている。

ゴム手袋等つけただけでかぶれたように痒くなる俺から見ると、水や洗剤、熱さ等より余程皮膚に悪そうに思える。


女は小さく頂きます、と呟き今度こそドリアに取り組み始める。猫舌なのか念入りに冷ましつつ、結構な時間をかけて食べ終え、少し考えてミルクティーを注文する。

食べている時はそれなりに満足そうな顔をしていた女の表情が、また屈託を帯びているのを俺は認めた。

ミルクティーを飲み終えるまでに何件かメールのやり取りをして、女は席を立った。

昼の忙しい時間帯を終えた店内には、コーヒーを前に煙草を挟んだ指でスマホを弄っている、遅い休憩らしいサラリーマンだけとなった。


先程の女の表情に興味を覚えた俺は少し観察してみたくなり、後を追うことにする。


花粉症に悩まされなくなってから気分良く外を歩けるようになった訳であるし、何より暇だけはたっぷりあるのだから。




〜女〜


自分の身に起こるはずのない事態が進行している。

否、まだそうと決まった訳では無いものの、その予感は時を経るごとに確信へと高まりつつある。それでも尚、確定させる事への不安が拭えないでいる。

―今日は、やめよう―

だらしない程あっけなく、挫折した私は踵を返した。


行く当てもする事も思い付かない。


病院を出るまではまだ確固とした足取りだっのだが、外気に触れた途端地面が柔らかくなった様な錯覚に陥る。自分の位置を確かめるように見渡した先に小さな児童公園がある。とりあえず腰を下ろせる場所を求め不確かな歩を進めた。


午後の公園には幼児とはいえもうすぐ学齢、という年頃の子供達が遊び回り、母親達はチラチラと目を配りながら井戸端会議をしていた。もっと小さな子はお昼寝の時間なのだろう。

目に映っているだけの光景はなんの感慨も与えず、子供の歓声や嬌声は琴線に掠りもせずに通りすぎるだけだ。


焦燥感が空回りして、思考も行動も追いついてこない。貧血を起こす直前のように脳が粟立つ感覚。このまま懸念も判断も放棄してしまえば楽なのだろうか?


スマホの振動が私を退嬰の微睡みから現実に引き戻す。隆也からのメールだ。

[さっきのメール、なんかおかしくなかった?]

極力普通に、何気なく書いたつもりだったのだが……何処かに違和感が滲んでいたのか?

[別に、なんで?]

[そもそも仕事時間にメールしてくるなんて珍しいし、何かあったの?]


そこか。


隆也を勘のいい男とは思っていない。今日の私の行動は鈍い人間にさえも訝しさ感じさせたと言うことか。

フッと笑いがこみ上げる。そして息の通りが良くなった感覚を覚えた。


[今日行っていい?]

本当に唐突に、私は心を決めた。彼を巻き込む。決断という重荷の半分を背負わせ、責任の一端を担わせる。

[えーやだ。嘘、良いよw]

冗談を書いたり、wなんて使わない人間なのに……既にかなり気を使わせているようだ。

[何食べたい?]

[あーほら、あそこのビーフシチュー?二人で三人前。飯は家で炊いといて。]

[りよーかい!]


さあ、やるべき事が目前に降りてきた訳だ。妙に気負っている自分を嗤おうとして頬が引き攣り、緊張している事に気がついた。


一旦家に戻る。

先程はどうも、ビーフシチュー三人前、お持ち帰りでお願いします。六時頃取りに伺います。紫陽花亭に電話をかけていると、夜勤明けで寝ていた母が部屋から出てきた。

「沢山さんとお家デートかい?向こうは明日も仕事だろうに。」

大して咎めるふうでもなく聞いてくる。


私が中学生の時父と離婚した母は看護師をしながら私と弟を育てあげた。

高校卒業後、私は自分の意思で就職を選んだが弟は大学を出、そこそこの企業に勤めた。結婚して父親となり、年に数回家族連れでここを訪れる。

今年の正月に帰省した弟が、ほろ酔い気分もあってか

「このマンションて、実家て感じがしないんだよな。」

と言い出した。

曰く生まれた家ではない事。小さな頃の思い出と直結していない事。そもそも戸建てでない事等々。

暗に離婚して家を出た母に非があるかのような物言いに私は反発を覚え、弟の奥さんも不穏な空気を感じたのか視線を泳がせていた。

父の度重なる不貞が原因で別れたことは百も承知な筈で、父の不倫相手から母が受けた数々の嫌がらせもその目で見ていた癖に、と私が気色ばんだ時。


カラカラと母が笑い声をあげた。


「背比べの柱の傷や階段裏の落書きばかりが思い出ってわけじゃないよ。家の風呂場にはあんたが高校の時、絶対ダメ!て言われてるのに隠れて髪染めた時につけた染料のシミがあるし、そこの鴨居には部活のスパイクを巫山戯て振り回した時の傷が残ってる。その壁の汚れは遠心力の実験だとか騒いでバケツを……」


「もういいって!わかったよ、ったく」


語気荒く遮った割にそっぽを向いた弟の顔が赤かったのは、お酒のせいか、恥ずかしかったのか。このままだと昔の彼女に振られて荒れた時のことまで暴露されそうな勢いに焦ったのかは分からない。


ただ母の顔は……茶化すでも笑うでもなく、本当に懐かしそうに壁の汚れを見ていた。


その時と同じ顔で、慈しむ様に私を見詰めながら母が口を開く。

「そろそろあんたが転職考える時期なんじゃないの?若しくは退職かな。」

母は何か気付いているのだろうか?隆也とは真逆で、昔から神がかり的に勘の鋭い母にドギマギしながら

「なにそれ?」

とだけ返して私はシャワーに逃げる。


湯を浴びシャンプーを泡立てながら私の一度目の結婚が終焉を迎えた頃のことを思い出す。

あの時も母は知っていたのではないだろうか……


そそくさとドライヤーを使い、鍋持ってくねーと声をかけ顔を合わせないように車に乗り込む。流石にビーフシチューの香り漂う鍋を持って電車に乗る勇気は無い。

―今日はアルコール抜きだな―

隆也のリクエストさえもがそこはかとなくタイムリーであることに予定調和を感じてしまう。


スーパーに寄り、サラダ用の野菜を選ぶ。人参を手にした時、さっき母が使っていたマグカップが頭に浮かんだ。兎と人参が描かれているモーニング用のマグカップ。


今日は珍しく寝起きの一服せずにコーヒー飲んでいたな…




〜俺〜


大笑いする常連オバチャンの声に辟易していると、裏にある駐車場側の出入口から女が入って来た。手に中くらいの鍋を携えている。


「あら、葵ちゃん今日はお休み?」

この店に三回以上来た人間は全て自分の友人である。という根拠不明の確信を持つこのオバチャンは持前の大声で女に声をかける。

「はい、久々の連休なんです。」

女も愛想よく答えている。

大声に釣られたように、奥のテーブル席でマンガを読んでいた二人連れのトラックドライバーがちらりと女に視線を向けた。

「平日休みって事は接客業か何かなの?」

俺は世界中のオバチャンを知っている訳では無いが、漠然とオバチャンの特性の一つと考えているものであるところの詮索好き、が発動されたようだ。

「ええまあ。」

曖昧に言葉を濁し、女は妻に声をかけ鍋を渡す。

「ねえねえ、なんの仕事?」

オバチャンのもう一つの特性、厚かましさが遺憾無く発揮される。女は諦めた様に苦笑を漏らし、当ててみてください。と返した。


ヒントを要求するオバチャン。オバチャンとその予備軍との熱い攻防の始まりか?と身構える俺……


しかし意外にも嬉嬉として、女はヒントを与え始めた。


その一、サービス業。その二、一人で大勢相手する。その三、乗ったり乗せたりする。その四・・・

何なのだこのヒントは。オバチャンの顔に好奇の色が輝き始め、ドライバー二人は完全にマンガを放棄した。

俺は昼に見た女の様子とのギャップに戸惑う。反動なのか、このテンションの高さは先程の鬱屈した表情とは別の意味で心配になる。

その四、舌がよく回る。その五、バックで頑張る。その六、自宅で眠れない事が多い!?


混乱をきたす俺。好奇を通り越して困惑を浮かべるオバチャン。顔を見合わせている二人組。


「葵ちゃんはね、バスガイドさんなの。」

あっさりと妻が正解を披露する。わざとらしくない程度に、しかし充分奥の二人にも聞こえるくらいの大声だ。


プッと吹き出すオバチャン。当てが外れたのか弛緩した笑顔を引きずって再びマンガへと目を落とすドライバー二人。

俺は暫く意味が分からず、数秒遅れてやっと合点がいった。俺は頭が弱いのか?それとも心が汚れきっているのか…?


女は悪戯っぽく笑いながらぺこりと頭を下げる。狼狽を隠しきれない俺にではなく、笑い転げるオバチャンに。


笑いの発作が治まりかけたオバチャンが、それを再発させようとするかの如く勢い込んで話し出す。

「そうそう、さっきね、またやらかしたのよ!ママの今日イチ!!」

女は儀礼的に見えない程度の興味を示し、オバチャンと妻の顔を交互に見る。

「四時頃かな、来た人がさ、ポークカレーセットください。て言ったのよ。そうしたらね。」

この辺で既にオバチャンの声には笑いが滲んでいる。破顔の準備万端だ。

「ママが澄ました顔で、すみません。ポカリスエットは置いてないんです。って」

女が吹き出す。でしょでしょ、とばかりにオバチャンはポカリスエットを連呼する。

妻は最近の言い方をするのであれば、テヘペロ、とでも表現される様な表情を作る。


相変わらずだ。妻は昔から幼稚な間違いが多い気質である。俺からすれば注意力以前の問題だとしか思えない類いの失敗も多数だ。


昔と変わらぬ過失の多さと反比例するかの如く大きく変わった部分がある。

この、テヘペロだ。笑い飛ばして自らネタとして提供する恥じらいのなさだ。声が大きくなり、表情筋全てを駆使して笑うようになった。何という図太さ、年齢を重ねるとは慎ましさを脱ぎ捨てる事と同義なのだろうか。


何度咎めても下らない失態を繰り返し、あまつさえ反省の素振りさえなくヘラヘラしてばかりいる妻に俺は危機感を覚えた。まともな躾を受けずに育ってしまった結果がこの有様なのだろう。


俺はまず言葉で妻の言動は健常な人並み以下であること。それがどれ程人を不快にし、更には正しい生活にとてつもない支障をきたすものかを教えこんだ。毎日根気よく教え導いた。


ヘラヘラすることは消えたが小児的な失態は相変わらずなので態度で教える事にした。露骨な蔑みの眼差しを浮べ続け徹底的に無視をした。身体に教えるのが1番なのは分かっていたがそんな短絡的な事はしたくなかった。

甲斐あって妻はやっと人の半分位の羞恥心と人を不快にさせない心掛けを少しづつ身につけ始めた。


当時の妻であれば先程のような失態を指摘された場合(指摘するのは殆ど俺である。)狼狽えて口も聞けなくなったものだ。顔を真っ赤にし、真っ赤になった事で恥の上塗りを演じてしまい俯く。涙ぐむ。


自分の稚拙さを自覚し、向上心を持ち克服する努力を怠らない。ただ生来の幼児性に努力が追いつかず、改善どころか悪化の傾向が増して行き、妻は己を恥じた。

何事にも慎重になり自分には無い見識を持つ俺にお伺いをたてることを学習した。

妻は自ら言動を改めるどころか、自身の全てを俺に管理される事を希望したのだ。


思考停止状態の妻は自分がお荷物である事を十二分に理解しながらも己を律する能力がなく俺の負担を減らす事は出来なかった。更に俺への依存は高まる一方だった。


自分で着る服を選ぶことが出来ないに始まり、外出、物品購入の必要性、視聴するTV番組、体調不良の場合の受診の是非、友人への連絡、その頃入院していた妻の母の様子伺い。

ありとあらゆる事の判断を俺に委ねた。


委ねた以上は完璧に従った。歯を見せて笑うのはガサツだと言えば笑わなくなった。掃除の際音を立てるなと言えばほぼ雑巾だけで家中を磨いた。もちろん手袋の類は体に良くないので禁止した。噂話は下品だと教えれば全ての友人の連絡先を削除した。私物が多すぎるので片付かないのだと指摘すれば独身時代から集めていた趣味の小物をまるごと処分した。俺が買い与えたもの以外の服も消えた。


お金を持つのが怖いとベソをかくので、独りで外に出られない上他人と会話すら出来ないのに何の為に金が必要なのか訊ねると、たちまち心底安心した顔になりそうよね、要らないよね。教えてくれてありがとう言われないと気付かないなんて私やっぱり馬鹿だなあ。と呟いた。

仕事の他に妻の管理まで負担させている事への謝罪と感謝を常に繰り返し、至らなさを自覚し一晩中正座して俺の指導を受けた。妻のせいで俺にかかる余計な手間とストレスを心配し、俺に居心地良い環境作りを至上命題とするも無能な為失敗してはペナルティを繰返す日々。


ある日妻がキッチンで固まっていた。食事の用意の最中、小麦粉をぶちまけたらしい。俺を見て真っ青な顔で立ち尽くしている。

この頃には既に俺が促さない限り言葉を出すこともなくなっていた為、俺は自分からどうしたの?と訊ねた。

「すみません。こぼしてしまいました。」

ふむ。それは見て取れるのだが何故妻は何もせずただぼーっと立っているのかが不可解極まりない。そこを問い質すと

「先に小麦粉を片付けるべきでしょうか、食事の支度を続けるべきでしょうか?」

震え声だ。本当に分からなくてパニック一歩手前に陥っている。

俺は大きく溜め息を吐く。妻がビクリと痙攣する。

「小麦粉が先だね。」

そう指示してやると妻ははい、と嬉しそうに頷き従順に小麦粉を掃除する。

何か言うことはないのかと訊けば、ありがとう、馬鹿でごめんなさい。まさにバカの一つ覚えだ。吐息混じりに、聞き飽きたよ。と呟いた。妻は泣き崩れる。


俺はそのまま外出し翌朝戻ると、妻はまだ同じ場所に蹲ったままだった。食事の支度も昨日と寸分違わぬ状態だ。

「さあ、立って。」

俺は優しく声をかけ、やるべき事を伝えた。出しっぱなしの食材は不衛生なので捨てる事。調理道具、シンク回り等を清潔に磨いてから朝食を作る事。それらの作業を迅速且つ静謐に行うこと。

努力家だが能力の劣る妻は迅速を守れず、また泣こうとする。君はそんなだから仕方が無いさと笑顔で食卓に着く。

だが向かい合うと作業中から気になっていた違和感が更に顕著に感じられた。何時にも増して集中力が無い。その為普段よりもロスタイムが多く、俺の求める迅速さを著しく欠く結果となったのだ。

子供を諭す様に理由を説明する事を促すと、小声で、トイレに行きたかった。という。

精一杯の心遣いで極力穏やかに行っておいで、と言ってはみたが俺の寛容さもここで限界を迎えた。普段の言いつけ通り静かに歩いてダイニングを後にした妻の背中が消えた瞬間、目の前のテーブルをひっくり返したい衝動に駆られたが辛うじて耐え、薙ぎ払ってやろうとして手に触れたひと皿を持ち俺はそのまま自室に入って鍵をかけた。

鍵などかけずとも妻は勝手に開けるどころかノックすらしない事は分かりきっていたのだがかけずには居られなかった。


妻はいつか呼吸さえも俺なしでは出来なくなるのではないか?

「息吸ってもいい?」

と訊いてくる妻の顔を想像してしまい、俺は何とも言えない心境になる。頬が歪んだ。


ダイニングからは物音ひとつしなかった。

手付かずの朝食を前に静かに座り続ける妻の姿が目に浮かんだ。


腹が減っていたのでテーブルから適当にひと皿だけ持ってきた料理に手を出す。食べるという判断が出来ず絶対に口をつけられないであろう妻。


むず痒い気分だ。


聞き慣れた甲高い笑い声で、俺は我に返る。記憶の中の妻に宇宙人が取り憑いたのかという疑惑が脳内で打ち上げ花火のごとく弾けては消える。


大きく口を開け、身を捩って笑う妻の横で更に高らかな笑い声をあげている娘がいた。俺が過去をさ迷っている間に塾から戻ったらしい。

「お母さん・・・有り得なすぎ!」

オバチャンは早速ポカリスエットの披露に及んだらしく、娘は苦しそうに時々引き笑いを混じえながら笑い続けていた。

或いは他にも第2弾、3弾があったのかもしれないが。


娘は友達と一緒に帰ってきていた。途中でその母親とも合流したらしい。この母親は妻と同じ中学の同級生だったのだが子供のクラスの懇談会で数十年ぶりに再会し、以来旧交を温め親しくしているという。


「でもね、この間凛ちゃんね。」

娘の友達が話し始める。何でもお道具箱をロッカーにしまう際に箱の角をロッカーにぶつけてしまったらしい。

娘は何故か咄嗟におお、ヨシヨシとロッカーをさすり、その為手にしていた箱を取り落とし中味をぶちまけてしまった。娘はへっ?という顔の後、大笑いしながら拾い集めたのだという。

またひとしきり笑い声のトルネードが沸き起こる。

「凛ちゃんのそういうところ、お母さんにそっくりだねー」

友達の母親が笑い過ぎて涙の滲んだ目を押さえながら話を引き取る。

全くだ。いつまでも幼稚さの抜けない妻の遺伝子が娘にまで悪影響を及ぼすとは。俺の子供にまで迷惑をかけている。

「そうなの?」

娘の声は弾んでいる。

「うん。天然だけど優しくて、底抜けに明るくて、いつも笑ってたよ。男子からも女子からも人気者だったんだから。」

嘘嘘!人気者はあなたでしょう?と妻が遮る。母親は私は男子にだけ、と返す。・・・また、笑。


この母親は今日パートに急な欠員が出て残業だったらしい。夕食の支度にシワ寄せが来た為メインのおかずをここのお持ち帰りで済まそうと言うことか。

「スーパーのお総菜より美味しいし、食材も調味料も安心だからねー」

「それだけじゃないよ。ママは家族の好き嫌いからアレルギーまで、ちゃあんと確認して気をつけてる。」

珍しく静かに見ていたオバチャンが口を挟む。

ありがとう、と妻はストレートに礼を述べている。能天気に嬉しそうな様子を晒して恥ずかしげも無い。


お持ち帰り、お総菜・・・

躁鬱気質なビーフシチューの女はどこだ。

既に男の元へ向かったのだろうか。興味深い女だ。




〜女〜


ビーフシチューにサラダ、デザート?にたい焼きまでも平らげてしまい、二人とも動くのが億劫になってしまった。食器もシンクに下げはしたもののそのままだ。

「腹キツい……」

百八十六cmという体格の割にはあまり食べる方ではない隆也は少し苦しそうだ。


付き合い始めて四年、八十一kgだった体重は一年に三kgづつコンスタントに増えていたが、今年社内での地位と責任が上がり、忙しさに拍車がかかったせいか、いきなり七十kg台に落ちた。今日のように定時後二〜三時間で帰宅出来るのは珍しい事だ。社畜くん、とからかうと仕事のハードさならまだまだそっちのが上だろ?と言ってくる。

言下に否定出来ないのが辛いところではある。


普通の会社勤めの隆也と私とでは徹底的に休みが合わない。私は連泊で仕事に出ることが多いので電車で20分しか離れていないのにちょっとした中距離恋愛の様な関係になっている。隆也が多忙になった昨今は遠距離恋愛化してきた感がある。


ソファに腰掛けるのではなく、背中を持たせかけてラグの上にぺたりと座るのが私の定位置だ。隆也はその後ろで食いすぎた、と繰返しながらソファにごろりと横になった。

「朝食用に何か作っとこうか?」

と言うと今食べ物の事考えたくないかも……と呟いた後

「いいよ、明日の朝は生オムライスにする。」

とつけ加える。

「なにそれ、美味しそう。」

「美味いよ、最高」

作り方を教えて欲しいと言うと、得意げに勿体をつけて語り始める。

「……それって、卵かけご飯だよね。」

「そうとも言う。」

何だかなあ。


思い出したのでポカリスエットの話をするとやはり大ウケしていた。が、葵もそういうとこあるよね。などと言い出す。

「なにそれ、あるかなあ……」

「あるって、前にオレがこれ伝説のカオス(混沌)ゲーなんだよ。て言ったらどんな顔なの?とか言うし。」

「それは違わなくない?」

カオスゲーと顔すげーはまるっと一緒だし。と反論するが隆也はいやいや同じ、と笑う。

私はゲームをあまりやらないのでホラゲと言われて、何かの体毛を指しているようにしか思えない。

「なんの毛だよ。」

隆也は笑い続ける。その流れに乗ったままさらりと言ってみる。


「あのね、八割方の確率だけど、妊娠した。」

「へー……ってえっ!?」

フリーズしてしまった模様。私は医師から妊娠は望めないと宣告されていたし、隆也にもそれは告げてある。それもあってお互い油断していた事は否めない。

「市販の検査キットでは陽性だった。病院はまだ。」

隆也が徐々に解凍され始める。

「オレのって逞しいんだなあ……参ったな、禁煙か。」

隆也は寝起き、食後、就寝前と日に五本だけタバコを吸うらしいが、今までも私に気を使い一緒の時は吸わずにいた。

これまで同棲や結婚の話が上がらなかったのには、二人の生活サイクルの合わなさが勿論大きな原因だが、同居イコール禁煙。な空気があり、煙草に未練のある隆也がぐずぐずと引き伸ばしていたのも理由の一つだ。

一番の原因は私が乗り気では無い事なのだけれど…


「待って、いつ産むって言った?」

「えっ、じゃあ…」

非難する様な目で私を凝視する隆也。

「産まないとも言ってない。」

迷っている。私は正直に告げた。

「なんで迷うの、そりゃあガイドの稼ぎって結構いいから辞めるのはきついかもしれないけど」

待って、と私は再び遮る。

「私、子供できないって言ったよね。」

うん。と隆也は頷く。

「バツイチなのも。」

うん。私はその結婚生活について話し始める。


夫は頭が良く博識で弁が立つ人だった。ただそれを過信して他人の考えを徹底的に否定する。社会生活を送る上でその本心をさらけ出す事は出来ないので、矛先は常に私に向けられた。

誰それは何もわかっていない癖に一々自分に突っかかってくる。誰それのプランはコスパばかり重要視してクオリティを下げるのに採用する上司は使えない。

全てにおいて正しいのは自分なのだが周囲の人間が無能なのでそれが分からない。自分はレベルが高すぎるせいで理解されず、迫害されている。という論調。

私がチラリとでも反論したら烈火の如く怒り出し、そうなると論理も何もなくなってしまって、要するにお前如きが口答えするな。という事になる。怒りが凄まじい時は手が出ることもあった。

いつしか私はハイハイ、そうだね。とばかりに聞き流しつつ夫にはそうと気取られない術を身に付け、怒らせることは無くなったが、正直うんざりしていた。


夫が上機嫌で帰ってきた日があった。帰宅途中当時流行っていた実演販売を見て買ってきたのだというスポンジを持って。

「風呂掃除これを使えよ。優れものだからさ。」

なんでもそのスポンジはナントカという特別な素材で、しかも大変密度が高く、見えない汚れまでも落とすのだとか。

お風呂用洗剤など必要なく石鹸で充分。大体風呂の汚れは体から出るものなのだから石鹸が一番適しているのだ。やれ何用、かに用と細々と洗剤を買い揃えさせるのは企業の陰謀である。

恐らくは販売員が話したのであろう事を自分のオリジナルの様に滔々と捲し立てる夫。

何時もならスルーしてありがたくスポンジを押し頂いて終了なのだが、その日に限って私は苛ついた。ぼんやりと夫の顔を見ながら、この人はスポンジについて一家言を持っていて、今それを声高に主張しているのだ。と思うと何故か発作的に笑いが込み上げてきた。

「企業の陰謀て……見えない汚れって……見えるから汚れなんだし、最初から見えないもの落ちてるかどうかなんて分からないし。それに汚れは一緒でも肌と浴槽は違うものだから……肌が浴槽並みに丈夫なら石鹸より洗剤使う方が絶対落ちるし。同じ肌でも顔と体とでは石鹸違ってたりするのに。」

耐えられない笑いの合間に支離滅裂な論理展開をしながら最後に、使うなら貴方がどうぞ。と言ってしまった。


夫は真っ赤になった後青く、というかどす黒い顔色になりいきなり私を殴りつけた。お前が、とかお前は、とかよくわからない言葉を切れ切れに喚きながら殴り、蹴りあげた。

当時私達はメゾネットタイプの部屋に住んでいたのだが、引きずり回された挙句階段から突き落とされた。


気がついた時は病院で、起き上がる事もできない程の身体の痛みの中、母の顔を見上げていた。母は涙を流していた。

あまりの騒音と夫の罵声を聞きつけた隣家の奥さんが恐る恐る顔を出し、階段下で倒れている私を見て慌てて救急車を呼んでくれたという。その奥さんは付き添ってくれていた。母の勤めている病院だったのは偶然では無く何かの折に私から聞いたのを覚えていて、奥さんが救急隊員に頼んでくれたのだそうだ。

最も母は循環器科の看護師だったのだが丁度日勤明けだった事もありずっとついていてくれたのだ。

掠れる声で奥さんにお礼を言うと奥さんは涙ぐみ、やり切れなさそうに私を見て挫けないでね。と優しく手を握った後で帰っていった。


母はもう一度眠りなさいと言ったが痛みが酷くて眠れそうにない。私は全身何箇所か骨折とひび、打撲等があったが脳に異常はないらしい。左の鼓膜が破れていたそうだ。打撲の痛みは数日続くという事だ。


医師から警察に連絡が入っていたので、事情聴取等されながらその数日がすぎた頃、医師が顔を出した。落ち着いてきた私を認め体調と気分が安定していることを確かめた後、話があるという。母も横にいた。


妊娠初期だった事、流産した事。適切な処置が取られたが損傷度合いからこの先我子を抱くチャンスはない事。


胎内にいた赤ん坊は1度も認識されることなく、生まれたかもしれない弟妹をも連れてその存在が消えた事により、知られることとなったのだ。

隣りの奥さんがあれ程に辛そうだったのは、感情移入の激しさだけではなくバタバタとした処置のさなかに妊娠と流産までの事実を漏れ聞いてしまったからなのだそうだ。


母はこのままだと顔を合わせた時にまだ若いのだから、というような慰めを受けるかもしれない。それが耐えられないなら真っ直ぐ母の家に来る様にすると良い。と言ってくれたので荷物等も全て母に甘えることにした。

面会は全ての方にお断りしているという。道理で母と警察しか見ない訳だ。


暴行致傷と言うのだろうか、私は被害届を出していたので夫は警察で子供のことを聞き、号泣したという。それを聞いても心は毛ほども動かなかった。

退院後母の家に戻ると私の荷物は全て結婚前の私の部屋にあった。弁護士を入れDVと流産と妊娠不可能にされた事等諸々含めて、破格の慰謝料と2度と近付かないという誓約書を取り、離婚届提出後に被害届を取り下げた。

夫の両親は泣いて謝罪してくれたが彼らに恨みはない。警察沙汰を起こした夫は転職して遠くへ引っ越した。


暫く養生した後結婚前と同じくバスガイドをして働き始めた。私も母も家を開けることが多く2人で家賃と家事と光熱費を分担し(家事は母の方が負担が大きいが)生活費はそれぞれ自分の分を持つという気楽な2人暮らしを続けてきたのだ。


「なんと言うか…壮絶だね。」

何かを言わなければと思いつつも言葉が見つからなかったのだろう。隆也はポツリと月並みな感想を洩らした。

「でもそれで何故子供持つことを迷う事になるの?結婚に不安があって踏み切れず、シングルマザーは難しいからって事かな。」

「その前に、私がこれらを、特に流産したとは言え他の男の子供を宿した経験がある事なんかを隠していた件について、謝らせて。本当にごめんなさい。」

話の途中からソファに座りなおし膝に肘を付け項垂れるように耳を傾けていた隆也に向き直り頭を下げた。

「いや、夫婦だった訳だし。その頃の事にオレがどうのこうの言える問題じゃないから。」

何だろう。反応がとんちんかんだ。

私は事実そのものでは無く、隠していた事に対して謝罪したのだが…

「それにさ、軽々しく話せないでしょう。思い出したくもないだろし。」

ただね、と隆也はソファから降り私に並んで座りながら続ける。黙っていた理由の中にこんな事知られたら嫌われるかも、ってのがあったとしたら、それは全くないからね。


何だか感動してしまうではないか。隆也は私が思うよりも懐の深い男なのかもしれない。

「子供を持つことへの不安や迷いを説明する為に話してくれたのはわかるけど、オレの事も少し信用して。奇跡の子だもの、亡くなった子の分まで大切に、幸せにしようよ。」

涙が溢れた。隆也はそれを感激の涙だと思ったようだ。確かに感動も感激もしたが、そうではない。決してそうではないのだ。

本当の理由はこの先にある。


ここまではね、母と私と病院内くらいだけどまあ、オフィシャルな話なの。私は隆也の顔を見ることが出来ず、俯いて言葉を継いだ。


「私ね、知ってたの。」


そう、私は知っていた。自分が妊娠している事を知っていたのだ。今と同じ状況。病院にはかかっていないが検査キットでは陽性を確認していた。

それを知った時の私の心境は煩わしい、だった。

子供が生まれたからと言って夫の性格が変わるとは思えない。いや、子育ての事などで自分の主張を更に頑なに通して来るに違いない。夫の意に沿わないことを言ったりしたりすれば暴力を振るうだろう。そしてそれは子供にも向けられる、多分。

今までとは違う。スルーして受け流せることではないのだ。

子供を守ろうという方向ではなく、そんな煩わしさを回避する事ばかりに気持ちが動く。私は夫の子供を産みたくなかった。


夫がスポンジについてのご高説を垂れている間、私はそのよく動く口を眺めながら、この男の血を引く生き物が今私の中にいる。私から栄養と若さを吸い取りながら大きくなり、耐え難い陣痛を私に与えるのだ。そんな昏い想念に取り憑かれていた。


ワタシガ、コノオトコノ、コドモヲ、ウム?

どうしようもない嫌悪感で体が震えだし、その次に発作的な高笑いになった。


私は子供にも夫にもそして自分自身にも、より無残な形でこの現実を無かった事にする為に夫を挑発したのか。あまりの不安定さから出た単なる狂態なのか、今も分からない。

どちらだとしても私が子供を手にかけたということには変わりがない。


「そんな女に子供を持つ資格があると思う?育てていくことなんて出来るのかな?」

泣きながら隆也に答えを求めた。

自分が卑怯な事くらいもう充分知っている。もうひとつくらいの自己欺瞞や責任転嫁くらいがなんだと言うのか。


夫は子育てに無関心で、時々一緒にお風呂入る程度でイクメンを気取るような父親になったかもしれない。私が徹底的に戦えば勝てないまでも夫はうんざりして口出しを控えるかもしれない。同じ結果なら普通に離婚して、産むかどうかは落ち着いて考えれば良かったのだ。他にも選択肢は数限りなくあったろう。


私が選んだのはその中でも最悪のカタストロフ。


意図してなのかどうかなんて関係ない。この先何かの折にまた精神が少しでも追い詰められたりしたら、私はきっとそれを極限状態と錯覚し、一番の悪手を選択するのではないか。その選択が招くであろう最悪な結末を引きずりながら何食わぬ顔をして人に頼りながら生きていくのではないか。子供はもちろん、夫も私の被害者ではないのか。私は……私は……

決壊したダムの水のように涙と言葉がとどまることなく流れ続けた。しゃくりあげ、つっかえながら私は喋り続ける。


「寒くない?」

何……突然何を言っているのか。隆也はベッドから毛布を引っ張り出して私に着せかける。自分が震えていた事に気づいた。確かに、寒い。

「あんまりいっぱい泣くからさあ。体温も流れちゃうでしょ。ほら、オシッコの後ブルブルって寒くなるのと一緒。」

およそこの場には似つかわしくない隆也の言葉とおどけた様な顔。言葉が見つからない私はただポカンと隆也を見つめる。

口、開いてるよ。と笑われ慌てて閉じる。流しっぱなしだった涙と目の周りを拭う。

「まさにカオスゲーだね。」

何なのだこいつは、さっき感動した私に謝れ、と思う。

「オレの好きな言葉教えた事あったっけ。」

今更何か気の利いた事でも語るつもりなのか。

「結果オーライ。」

一気に脱力しましたよ、はい。

「後、やらない善よりやる偽善。」

ぽんと私の頭に手を置き立ち上がった隆也は机から何かを取って戻ってきた。

「当時の葵がどんなつもりだったかなんて、葵自身が分からないのにオレに分かるわけないけどね。そのせいでどうしても辛いなら葵の意思を尊重するよ。」


隆也が持ってきたのは煙草だった。箱から1本取り出して咥えるとライターを右手に取る。

ああ、私の長話に疲れたのだな、そりゃあそうだ気力削られる内容だった訳だし。


あの……手。隆也の声でそちらを見る。何をしているのだろう。私の手は隆也の右手を包み込む様に握っている。手にしたライターごと。

「このタイミングでラブシーン?」

嘘々ごめんと笑いながら隆也は左手で煙草を箱に戻しそのままゴミ箱へと放り込んだ。

「多分こうなると思った。紫陽花亭からメールくれただろ。そん時咥え煙草のおっさんとか、煙草持ってスマホ弄ってるリーマンとか、凄く嫌そうな感じだった。」

そうだっただろうか……。

いつの間にこんな煙草嫌いになったのだろうと訝しんだそうだ。私から妊娠報告を受け、そういう事かと納得したのだと。いの一番に禁煙と呟いたのはその為だと。

私は隆也の観察力に舌を巻く。

そして今、私は隆也の喫煙を妨害したと言う。妨害した事、になるのだろう。


「葵、自覚無しに赤ちゃん守ってるじゃないか。」

思いがけない指摘だった。私が子供を守っている、等とは。

「赤ちゃん生まれて来たとして、葵は以前の罪悪感や贖罪、或いはそういう自分を隠すためにかもしれないけど、大切に、優しく接すると思うよ。それは偽善なのだと否定して放置したり無関心だったりするよりずっといい事だと思う。」

だがそんな関係は子供にも私にも不幸ではないか。偽善というよりは欺瞞であり、愛情とは呼べないだろう。

「だって葵は生まれる前からもう愛しちゃってるじゃない。」

なぜさっきから妙に嬉しそうな顔をしているのか。

「赤ちゃんが苦しくない様に煙から遠ざかろうとするのは、愛でしょ。既にちゃんと愛があるんだから後はもう偽善だろうと欺瞞だろうと毎日笑顔で接していれば……」

結果オーライ、という事か。


さっきも言ったけどさ、隆也は言葉を続ける、上機嫌な態度も相変わらず続いていた。

もうちょっとオレの事信用してよ。もし葵が何かでいっぱいいっぱいになっちゃって、とち狂ったとしてもさ。とうとう笑いだした。何を考えているのか。

「オレが居るし。」

笑いながら、早口で言い放ってから手持ち無沙汰にあちこち触ったりしている。にやけていたのは照れ隠しだった様だ。

一緒に正しい道を選んでこうぜ。ぶっきらぼうに言う。


「うん。」


毒気を抜かれるとは、こういう事なのだろう。禁煙を決意した癖に人をケムに巻いた、という気がしないでもないが。

殺し文句の後、挙動不審気味だったのは間を持たせるための煙草を無意識に探していたのであろう事はそのうち何かのネタにしよう。


家に帰ると母が待ち構えていた。開口一番収まる所に収まった感じだね。などと言う。この人はスペックホルダーなのだろうか。

私は自分の修羅場部分は割愛してあらましを伝え、隆也と結婚しようと思う、と告げた。隆也もそのつもりだと。そうなればいいと思っていたよ。頷く顔を見て悪戯心が頭をもたげる。


「ただね…最後にちょっと不安材料があって。」

私は目を伏せてみせる。

「隆也と結婚したら私、沢山葵になる訳で、それって沢ワサビだよね。」

母は目を丸くし私を凝視した後、人の口癖を声色まで真似て放ってくる。

「なにそれ。」




〜俺〜


戻ってみれば、既に店は閉まっていた。

妻と娘は二階の居住スペースへと移動している。娘は就寝しようとしていた。

「おやすみなさい。」

妻と俺にそう挨拶するのが毎日の日課だ。

娘が部屋に入った後で、なかなか大したタマだったよあの女……とでも教えてやりたい気分だったが、どうせ流されることは目に見えている。


「森口さんは私そっくりって言っていたけど、凛の機転のきく所とか、真面目で人の話をよく理解する所は貴方似よね。」

森口と言うのは娘の友達の母親だ。現在は設楽と言うのだが妻は未だに時々旧姓で呼んでしまうことがある。

妻は入浴後らしく、濡れた髪を整えながら話し続ける。化粧けのない、ほんのり上気した顔は実際の年齢よりも妻を若く見せていた。

「凛は明るくて健康だし、お客様も良い方ばかり、全部貴方の配剤だよね。私は抜けてるから、貴方のお陰で何とかやっていけてるんだよねえ。」

妻は今も俺なしでは生きられないでいる。妻にだけは俺は空気では無い。俺という存在は妻の全てだ。だがその立ち位置に居るのは……。

妻の視線は、俺を見ていない。妻と娘が肩を寄せて笑っている写真の横に飾られた、俺の写真を愛おしそうに見つめるばかりだ。

それは俺ではないのだと叫んでも届くことはない。本質的な俺は空気なのだから。


あの朝、トイレに立った妻を残し自室に籠った俺はむず痒い気分を味わい、そのむず痒さが嵩じて……死んだ。


持ち出した料理はトマト、チーズ、アボカド、オリーブオイル、バジル等で作られたサラダのようなものだった。どうせならもっと腹に貯まるものにすれば良かったと忌々しく思いながらそれを口に放り込み咀嚼する。


どれが原因かは分からないが、俺は激症的なアレルギー反応を起こした。子供の頃からアレルギー等とは縁のなかった俺なのだがあの朝突然にそれが起こったのだ。

顔が腫れ上がり、そればかりか体の内部、喉も腫れ上がっていた。息ができない。喘息患者のようにヒーヒュー音をたてて必死に酸素を求める。

熱をもったかのように全身が熱く、痒みが耐えきれないが、掻き毟る手も思うように動かない。

鍵を開けるとか扉を開く事など出来よう筈もなく、ただ痙攣しながらのたうち回る。


ダイニングからは相変わらず何かが動く気配は届かない。実際妻が俺を不快にさせた際、恣意の為に部屋の備品を破壊し尽くす事は時折あるので、妻はいつもの様に息を潜め、身を縮めていた筈だ。


かなりの時間苦しんだ後、俺は空気となった。


誰かに見られることもない。声が届く事も語りかけられる事もない。何者かに働きかけることもできぬ。食べも眠りもせず、時間の概念から弾き出された存在。

自我と記憶とを持った空気。それが現在の俺だ。


俺の死体と衰弱した妻が発見されたのは2日後だった。

俺は自宅で請負仕事をしていたし、妻の人間関係は全て断たせていたので、訪問者等あるはずも無く、僅か2日で発見されたのは妻にとっては僥倖と言えるだろう。

発見された経緯は僥倖とは程遠いものではあったが。


階下の住人が硫化水素自殺を図ったのだ。住民全てが避難させられることとなり、管理会社も出動して全ての部屋を確認したのだ。

ダイニングで倒れている妻は最初、自殺のとばっちりを受けたと思われ病院に搬送された。自室の鍵は管理会社も開けられず打ち破られる事となった。そこで死体となった俺が発見され、自殺事件と相まってマンション中が一時騒然となってしまった。


病院で妻は硫化水素とは関係無く衰弱しているのみと判断され、その為の処方が施され妻の父が呼ばれたが、驚くばかりで何の情報ももたらす事は出来なかった。

妻の母は入院中の為まだ耳に入れていないが、年単位で接触は無く何も分からないだろうと述べた。

目を覚ました妻を待ち受けていたのは父親、医療関係者、警察からの質問攻めである。その頃には俺の死因がアレルギー性のショック死であることは判明していたが、謎だらけである事には変わりがない。


もちろん妻は、口などきけよう筈もなく、怯えるばかりだ。食事も摂らず生命力の欠片もない状態。

医師もなんの情報も無いままでは対処療法しか取りようがないが妻の様子から心療内科の受診を推奨した。


事態を大きく動かしたのは、妻の父が部屋の片付けと捜索をした際に発見した、8枚のDVDだった。

妻を指導する際毎度俺まで徹夜させられるのは非効率なので、作った物である。


妻の失態や俺からの妻の能力欠如に対する苦情。自分を否定しつつ謝罪を続ける妻。理性的に妻の欠陥を指摘する俺。自分がどれだけ劣った生き物であり人に、特に俺に非常な迷惑をかけ、それを改善することが出来ない無能力者であるかを延々と述べ続ける正座した妻。

つまりは日常の全てを録画編集したもので、妻が居住まいを正し、一晩中鑑賞するためのものだ。その際寝ている俺の邪魔にならぬように必ずヘッドホンをつけさせていた。

最後の一枚はTV画面と、その前で微動だにせずヘッドホンをつけている妻を同時に撮影し、その時見ていたDVDの音を合わせたものだ。


部屋のそこここからウェブカメラやビデオカメラも発見され、最新の映像、小麦粉事件や当日朝の模様等も人目に晒されることとなった。それらを見た妻の父は嘔吐しながら号泣し、病室へと走りこんで妻を抱きしめた。自分の子育ての失敗を恥じもせず妻を甘やかす当たり、あの親にしてこの子ありというところか。


とにかくこの発見により、俺は妻の料理でアレルギーを発症した不運な被害者から、モラル・ハラスメントのサイコパスへと立ち位置を変え、悪魔の所業、最低の鬼畜、等の称号を得た。

不本意ではあるが空気になってしまった俺には反論のしようもない。まさに死人に口なしという事か。


この映像の分析から妻の治療方針を検討することとなるわけだが、問題があった。入院加療の中で妻の妊娠が判明していたのだ。

妻には夫がそういう気分になったならば、どんな場合にも受け容れるのが妻の務めであることは言い聞かせてあったし、俺は妻の体調やら周期等知りようもない。妻の体の都合が悪い日に当たった時にはタイミングの悪さを謝罪し、他の全てを使って奉仕するのが義務であるということも徹底していた。

従って俺の赴くままに妻を抱いていた訳であり、子供が出来ること自体は何ら不思議な話ではなかった。

しかし妊娠の自覚もなく、俺の死亡後に他人によって発覚させられるとは、妻の間の悪さ、配慮のなさは本当に相当なものと断じざるを得ない。


使える薬の種類が大きく狭められる事と、この状態で妊娠の継続、出産に耐えられるものかどうかが懸案事項となった。堕胎も選択肢の一つに上がりはしたが、本人が判断出来る状態になく、今現在妊娠のせいで生命の危機に瀕している訳では無い以上勝手な処置は出来ないという結論に至った。


膠着状態の中1人の医師が奇妙なアイディアを披露した。

元凶はまごう事無く俺ではあるが、妻は今俺に依存しきっており俺の支配下でなくては生きていけないのも事実である。その状態から抜け出させるには長期に渡る治療が必要で出産には間に合いそうにない。

幸か不幸か俺という人間は既に存在しないのだから、俺の人間性を改竄しようというもの。その為に例のDVDを逆に利用しようというのだ。


具体的には、映像素材の中から俺の笑顔や穏やかな表情等を選んで編集し妻に観させる。俺と似たような声の人間にセリフを喋らせ、それを加工して俺の声そのものにする。どこの蝶ネクタイ型変声機だ。


俺の使いそうな言葉をチョイスしながら似て非なる表現を繰り返し、少しずつ妻の全てを肯定する方向にスライドさせて行く。

妻を愛し、認め、尊敬と信頼を持って接する俺を作り出していくのだ。妻の自主性と尊厳を最大限に尊重し妻の幸せを心から願う俺に妻を説得させようという訳だ。


それは俺のして来た事、俺の作ったDVDの逆再生と言える代物であるかもしれない。架空とはいえ俺にそんな役回りを振られるとは、それこそアレルギーを発症しそうだ。命名、オレオレ詐欺療法。


結論から言えばその方法は大成功だったと言える。

妻の俺に対する依存度は医師の予測を越えており、俺が食えといえば食い、笑えといえば笑った。体力はみるみる回復し、俺が提案すれば最初はおずおずと、やがて積極的に誰とでも会話する様になった。

多様な価値観を身に付けた妻は傍目には普通の人間と変わりなく見え、母性に目覚めたのか胎内の子に語りかけたり、ベビー用品を編んだりする姿は幸せな母親そのものだった。


それでも持前の幼稚な失態を仕出かして失笑をかった時だけは、狼狽えて声を失う事がなかなか抜けなかったが、それも徐々に影を潜め、いつしか以前の様にヘラヘラと慎みのない女になっていった。

妻の体調を気遣い、出産に向けてエールを送り続ける架空の俺に見守られながら……。


予定日より4日程遅れて無事娘を出産し、退院が近づいた頃、最後の仕上げが行われた。俺からの卒業だ。

この時期が選ばれたのは失敗した時に出産に影響を及ぼす懸念があること。そして妻の腕の中に妻の庇護と愛情にその存在全てを委ねている、赤ん坊という拠り所があることが、妻を強くすると考えられたからである。


俺からの声の便りで精神の安定を図りつつ様々な人間との接触により依存の度合いを薄めていくという目論見は想定内のペースで進められていた。ただし俺が、自分を信じろ。自分の判断に自身を持て。と言い続けた結果である以上、俺を妻の心から綺麗さっぱり消し去る事は危険であるとの判断から、俺は一生モノの支持を与え姿を消すこととなった。


俺はどこかの病院で闘病中だったがいよいよ病膏肓に入り、この世を去る。という筋書きだ。退院して自宅に帰った時、妻の父と俺の遺骨が出迎える算段になっていた。


遠い所へ去っていくが、何時でも何時までも君の幸せを願っている。君は魅力的で強い人だ。どうか凛として明るく生きて欲しい。常に君を見ているよ。という様な、噴飯ものの安い恋愛小説もどきの内容だ。


その遺言の言葉から娘は凛と名付けられた。

妻は忠実に俺の最後の申し付けを守り続け、娘を育てながら明るく生きている。日々俺に感謝を捧げ、毎日語りかける。娘にも自分達がどれほど俺に愛され護られているかを、子守唄のように聞かせ続けた。


そして俺も、最後の言葉通り常に妻を見ている。

妻やその周辺に居る人間達で興味深いものを物色しては観察していく。


これからも見物し続けるだろう。空気である俺は見聞きくらいしかすることがなく、暇を持て余しているのだから。

了

ありませんm(_ _)m

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