才を食らわば、罪までも。
もしも人を殺めることを思い描くだけで罪になる世界だったのなら、
きっと物書きという生き物こそがこの世で一番罪深い。
それならば、きっとその才を求めた時に罪が付随するのは、至極当然のことなのだろう。
そこは見渡す限りの暗闇だった。
前後不覚に陥るとはまさにこんな状況だろうか。
ふと、はるか遠く、微かに光が見えることに気が付く。それは、光と呼ぶにはいささか頼りないながらも、確かにこの空間においてただ一点の白だった。
その光を目指すことで僕は、漂うような暗闇を歩く。
光の下に辿り着けば、それはまるで舞台上で主演を示すスポットライトのようだった。
「これは、」
ぽつん、という擬音がよく似合う。それほどまでに、どこか空寒い演出。
そこには、肉塊があった。
漆黒の箱のような腹ほどまでの高さの台の上に、その肉塊は皿にも載せられず置かれていた。大きさとすれば両手に載せれば、少し手に余るほど。
ことさらに可笑しいのはその肉が焼かれるでもなく、茹でられるでもなく生の状態であることだろうか。可笑しいと形容したものの、僕は少しもそのチグハグさを笑う気にはなれなかった。
幕を下ろし損なった舞台を見たら同じように感じるのかもしれないなと、頭上の光を見上げる。
だんだんと細くなっていく光は見えないほど空高くから、糸のように落ちていた。
「―――――召し上がります?」
ふと、気づけば肉塊を挟んで向こう側に一人の男が立っていた。
闇に溶けるようなその姿が、靴音と共にこちらに近づく。徐々に光に照らされ彼の姿が露わになる。
気取った英国紳士然としたスーツにシルクハット、おまけに手にはステッキが握られている。どれも一目でよくわかるほどの上質なものであることが伺えた。シルクハットの影になった顔はよく見えないが、綺麗に弧を描いた口元に自然と眉根が寄った。
「召し上がりますか?」
つい胡乱な視線を投げていたのだろうか、彼は楽しそうな声でもう一度同じ言葉を僕に投げかける。
「聞こえていますよ。そもそも生肉を食べる趣味がないだけです」
「私も無闇やたらと人様に生肉を薦める趣味はないつもりですよ?」
「それは、僕が生肉を食べるような人間に見えるという意味ですか」
心外だと目を眇めれば、彼は愉快とでも云うようにステッキをくるりと回して見せた。
「これは失礼。私としましては親切のつもりだったんですよ」
「親切? 人に生肉を薦めることが?」
「おやまぁ、随分と警戒されてしまったものですね」
ことさら大袈裟に嘆いてみせた彼に、僕は大きくため息を吐く。
「それで」
「それで、とは?」
どうやらこの紳士はよほど性格がいいらしい。僕が黙れば、彼はくつくつと笑って、肩を揺らした。
「おやおや、そんなに睨まないで下さいよ。言ってくださればいいじゃないですか」
つい、と彼と僕の視線がその時、ようやく絡み合った。暗闇に光ることのない淵のような瞳が機械的に月を描く。
「――――薦めたからには何か他の理由があるのだろうって」
「見事な推理です。実にクレバー。ご推察の通りです。この肉塊には貴方にとって途方もない価値があります」
饒舌になった紳士を僕はやけに冷めた目で見ていたと思う。
彼の語りはどこか不快だった。まるで手を挙げなかったにも関わらず、道化師の手によってサーカスの舞台に上がらされるような、そんな類の不快感だ。
だから僕は言ってやる。もうかしこまるほどの礼節は払わなくてもいいだろうから。なぜなら彼にとって僕はきっと客だから。
「前座はもういいよ。もう十分に客席は温まってる。僕は君の舞台に上がった。これで満足だろう?」
「客席に舞台とは、酔狂な例えをしますね。私は手品師……いや道化師か何かですか?」
僕の思考をのぞき込むようなその台詞にはもう答えず、目で先を促す。対話は言葉が資本ですよ、なんて非難めいたことを笑顔のまま口にして、彼はしばしの無言ののち口火を切った。
「貴方、本はお好きですか?」
「問題集を一例外として本と呼ばないのであれば、物語がある本はすべて食べてしまいたいほど好きだね」
「勉強はお嫌いで?」
「まぁね」
「けれど、貴方はきっと優秀で頭がよろしいんでしょうねぇ」
「否定はしないよ。お金をかけて貰ったことに、見合うくらいの脳みそは育ててきたつもりだから」
小学校に中学、高校なんの不自由もなく進級してきた記憶がある。この国の最高峰の大学を受ける時でさえ、あまり勉強したつもりはない。それでも、周囲からは「神童だ」「天才だ」と持て囃されてきたのだから、僕の学問という名の足跡はただの一本道にしか過ぎなかったのだと思う。迷うこともなく、迷う必要もなく、ただのつまらない一本道。
「でも、そんなに優秀なら仕事だって選び放題です。本を売る側になんて回らなくてもよかったでしょうに」
瞬きすれば、再び目が合った彼はその瞳でもって僕を嘲る。自分の顔が歪むのを自覚して、それでも一歩踏みとどまった。
「君は道化師より心を読むメンタリストにでも近いのかな」
「褒めてくださっているんですか?」
「いや、何もかもをわかっているという風に微笑まれるのがとても不快だってことだよ。読解力はないみたいだね」
いちいち癇に障ると吐き捨てれば、彼は芝居がかった様子で小さく肩を竦めた。
「口から生まれたものでして、どうかお許しを」
「その癖に、本題は言い渋っているようだけれど」
「そうでした、そうでした。つまり、端的に言ってしまえば、貴方が望むものを差し上げたい、ただこれだけなんです」
動かされた僕の視線の行く先を彼は先廻るように誘導した。その先にはぽつんと台の上に鎮座する肉。
「そうです。これを召し上がれば、貴方は貴方の望むような物語が書けますよ」
「信じていらっしゃらないようですので、もう少し想像を膨らめてしましょうか」
彼はステッキでこつり、と床を叩いて見せる。それから、ステッキから手を離した。
そのステッキを目で追おうとした僕の目の前で、彼はばっと両手を虚空に広げる。
「この肉を召し上がること! たったそれだけで貴方は、まるで永遠に水があふれる泉のように軽やかにペンを走らせることができるでしょう! その滑らかさは歌を歌うようにのびのびとした表現力に満ち溢れていることでしょう! そして!」
彼の手が僕のはるか後ろをぐるりと指し示す。まるでそこに客席でもあるかのように、溌剌とした声で暗闇に意味を描く。
「貴方の文章を読んだ方々は、貴方の才能と君の物語に歓喜し、立ち上がり、手を叩き、涙を流しながら貴方を褒め称えるでしょう! 素晴らしい! 傑作だ! これまでに読んだこともない! この作品は素晴らしいっ!」
まるで四方から声が響くように、彼の声は暗闇の中で響いては余韻を残し消えていく。
いつのまにかステッキは死体のように地面に転がっていた。
小さな咳払いと共に、ややトーンを抑えた彼の声が僕の視線を彼自身へと戻させる。
「この肉塊を召し上がれば、そういう作家、という生き物に貴方はなることができるんです。ここまでは例え貴方がぴかぴかでつるつるで、まるで皺ひとつない脳みそをお持ちだったとしても理解できるはずなんですけれども」
「まぁ、その汚い言葉をひとつも使っていないくせに、僕のことを馬鹿にしているんだろうなということも一緒に理解できるくらいには」
「あぁ、そうですか、それならよかった」
彼はにこり、とでも効果音が付きそうなほど作り物めいた笑みを唇に引っ掛けて、それからぱんと手を打った。
「そう、つまり、要約すれば、手短に言えば、有体に言えば、この肉塊を食べた瞬間に、食んだ瞬間に、飲み干した瞬間に、貴方は作家という生き物になれる」
「まるで……宇宙人にでもなれる、みたいな口ぶりだ」
「そういっても大きな差はないと思いますよ。作家というものは少なからず人を外れるんじゃないんですか、そして少なくともこの肉塊を食べた人間はもう人間と呼ぶことが憚られるでしょうから」
彼のあまりにも淡々とした言葉に、僕は再度眉を寄せる。
「それは、つまり?」
「つまり……? あぁ、なんてつまらない質問の仕方をするんですか。それじゃあまるで推理小説の冒頭で、まだ事件すら起こっていないのに、じゃあ探偵さん、犯人は誰なんですかと尋ねるようなものじゃありませんか。もう少し貴方は物語というものを理解していると思っていました」
まるで悲劇とでも言わんばかりに彼は大きく肩を竦める。その胡散臭さに僕は多少なりと腹立たしさを覚えた。
「なんだか君にそう言われるのはとても心外だ」
「そうですか」
「そうだよ」
「それは、まぁ、大変申し訳ないとだけ言っておきましょうか。こんな薄っぺらい謝罪で貴方が納得するとは到底、天地がひっくり返ったとしてもありえないかとも思いますが、それでも紙飛行機を飛ばすくらいの労力なら惜しまないことが私のモットーです」
「……君と話していると疲れる。いいから話を進めてほしいのだけれど」
「エリートじみた見た目に違わず、せっかちですねぇ。いいじゃありませんか、貴方の何兆の何億の何千の分の一くらいの時間を私に割いてくださったって」
「それなら考えてみてよ。それは君のためにその何億分の一くらいの時間、寿命が短くなるってことと大差ないだろう?」
「それは、私との会話は生という時間に組み込まれないということでしょうか」
「余生と呼ぶのはもったいないから、そういうことになるね。あぁもう、こんなことはどうでもいいんだよ、いい加減に話を戻してくれないかな」
「かしこまりました」
恭しく頭を垂れて見せた彼に、僕は冷たい一瞥を投げる。
「つまり、僕は現時点で謎を抱くわけだ。これがなんだかわかるか」
「えぇ、もちろん」
待っていましたとばかりに、目を瞑って見せる彼に僕は尋ねる。
「なぁ、この肉はいったい何の肉なんだ?」
音のない笑みを浮かべる彼にしびれを切らせて僕は言葉を重ねる。
「なら、僕が推理にもならない、まだ事件すら起きていないのに、犯人を当てるような、そういうとても滑稽なことをしてみても構わないかな?」
「どうぞ」
「それなら。これはきっと、この肉はきっと――――作家の肉だ」
彼は何も言わないまま微笑んで、僕の言葉の続きを待っている。
そう、この回答の続きは確かに僕の頭の中にあるのだ。
「そして、これは妙な確信があるのだけれど、間違いなくきっと、そう。これは」
彼の笑みが深くなる。
「これは――――僕が大好きで、尊敬してやまない作家の肉だ」
陳腐で安っぽい寒々しいライトに照らされた、滑稽ともいえるこの肉の塊を指さし、僕は早口にまくしたてる。
「君の言葉を借りるなら、この作家の文章を読んだ人が、彼の才能と彼の物語に歓喜し、立ち上がり、手を叩き、涙を流しながら彼を褒め称えるような、素晴らしい! 傑作だ! これまでに読んだこともない! この作品は素晴らしいっ!とそう僕に言わしめた、その人の……!」
暗闇に叫びが溶けていく。
気づけば僕は肩で息をしていた。背筋を汗が伝っていく。熱いわけではなかった。
静寂に沈んだその場の、目を覚まさせたのはひとつのゆったりとした拍手だった。
もちろん、拍手をするのは目の前の、台の向こう側に佇む、彼1人きり。
「お見事です」
「君が…………捌いたのか?」
体から力が抜けていく。もう何も考えたくないのだと、僕の思考回路が悲鳴を上げている気がした。
「いいえ。でも安心してください。これは現実ではないんですよ。違う世界の話です」
ただ、と彼は唇に人差し指を添えた。まるでこの世の秘密を口にするように、厳かに、そしてどこまでも陽気に。
「貴方がこの肉を食んだ瞬間に、現実になる夢です」
「それなら、君は僕に2つの選択肢を選ばせようとしてるわけか」
まくしたてた時のまるで犯人を追い詰めるような高揚が、さながら波のように引いていくのを僕は感じていた。
頭の芯がどこか痺れてしまったように、心がどんどんシンプルになっていく。
「僕はその人の作品が大好きなんだ……いつも心待ちにしてる。そして、きっといつもどこかで思っていた。自分もこんな風に書けたらいいのにって」
「いまなら、それが叶うんですよ」
「そうだろうか。でも、そうしたら僕は永遠に自分の読みたい本を自分で生み出さなくちゃいけなくなるのかもしれない」
「そうしたかったんじゃないんですか? 自分の手で生み出せたらと思ったんでしょう?」
「書くことと、読むことは、似ているようで違うよ」
言うつもりのなかった一言が唇から零れ落ちた瞬間に、あぁと思った。
そう、素晴らしい物語をいくら読んでも、自分が同じように素晴らしい作品が書けるとは限らない。
子どものころの無邪気な声で誰かが笑う。
『貴方なら素敵な本が書けると思うの』
そんなことはなかったのだ。
『書いたらきっと読ませて頂戴ね』
そんな、幼いころの願いも祈りもはじめから、いつか宇宙の片隅で人知れず燃え尽きてしまう星屑のようなものだった。
「…………どうしたんですか?」
紳士が問う。その声は先ほどまでとは打って変わって、手酷く傷ついた獣をいたわるような、そんな声色だった。
僕はそっと顔を上げる。そこにあるのは、黒い台に供物のようにささげられた人の肉。
「もしかしたら、僕のこれまで読んできた作家の中にはこの肉を食べた人もいたのかもしれないのかな……だとしたら、そんなことができたら作家は永遠に死なないのかもしれない。僕の愛した物語は別の人から奪ったものだったのかもしれない」
「人は誰しも、他に生きるものから何かを奪って生きて、そして死んでいくんですよ」
「うん。わかってるよ。いや、わかってたつもりだったよ」
「…………召し上がらないんですね」
彼はぽつりと言う。その声は残念と表現するよりも、少しの失望と空虚感と、それから疑問からできているようだった。
「あぁ」
「どうしてですか? 貴方はそんな作家になりたかったんでしょう?」
紳士の表情はどこか霞んだ。僕は溺れるみたいに無理に息を吸う。胸元の服を握りしめて、せめて笑ってみる。
「違うよ。僕はあの人の話が好きだった。でも、あの人の代わりに書き続けることはできないんだよ」
「同じ才をこの肉を食らえば得られるとしてもですか?」
「君は意地悪だなぁ…………僕は嫉妬もしたよ、あの美しい才能を前にして絶望したこともあるよ、でもそれでも僕は、あの人を失ってまで自分が書けるようになりたいとは思わない」
「貴方も、悪魔にはなり切れないわけですか」
ため息と同じ温度で紳士は吐息を零した。僕は笑う。笑って頷いてみせる。
「僕は誰かの物語を代わりに書く気はないよ」
「残念です」
「僕は君に会えて中々楽しかったよ。これが例え僕の生のうちの何億分の一だとしても」
「そうですか。私はただただ凡人であった貴方を残念に思います」
その無機質な答えが最後だった。
彼は背後にある闇に飲み込まれるように、その姿を溶かしていく。
そして、後には僕と肉塊と台だけが残った。
手を伸ばせばスポットライトが僕の影を地面に縫い落そうとする。それでも僕はそっと台座に手を伸ばし、そこに備え付けられている小さな小さな取っ手を引いた。
軋むような音と共に、台の扉が開いていく。途中、少し目線を上げれば、いつの間にか台の上の肉塊はなくなっていた。
「…………まだ、眠るには早いですよ」
完全に開いた扉の向こう。
そして、黒い箱の中で膝を抱えて目を閉じるその人に、僕は涙を零しながら声を掛けた。
「書けない」
「え?」
振り返れば、真っすぐとこちらを見る瞳があった。
先生の仕事部屋はいつもうず高く資料が積まれているせいで、昼間でも暗い。
僕がカーテンを買ってきたことをいいことに、昼間から節電そっちのけで電気をつけている。
ひらりと僕の足元に原稿が落ちた。反射的に拾い上げようとしゃがめば、頭の上から数え切れないほどの原稿が落とされた。
呆けたように見上げれば、その向こうで先生が泣いているのが見えた。
はっとして立ち上がった時、けれど先生は泣いてなんかいなくて、ただ僕に言ったのだ。
「お前が書いたらいいのに」
私が死んだのならお前が書いたらいいのに、と。
昨夜、そんな罰当たりな夢を見た日から、僕はきっと迷ってしまったんだ。
でも、本当に泣いていたのは誰だったんだろう。
あの原稿用紙が舞う向こう側に立っていたのは、本当はきっと先生ではなかったのだ。
ふっと目を開ける。目に入るのは家具が倒れ、天井が崩れ落ちた部屋の中で、うつ伏せに倒れているひとつの背中。その上に覆いかぶさる大きな本棚。
強盗にでも襲われたような荒れ果てた部屋で、僕はそっと身を起こす。
後頭部が痛いのはきっと、脇に落ちていたが原因だろう。
辛うじて付いているテレビが、大雨のせいでこのマンションの裏山が土砂崩れを起こしたこと、その被害状況を速報で伝えている。
「…………せんせい」
足が痛いのは知らないふりで、目の前の背中に向かって這いずっていく。
「せんせ、」
壊れた窓ガラスから風と雨が部屋をまた荒らしていく。
『おめでとうございます! 重版ですよ、先生』
『次の原稿の依頼が来ていて、少し予定がブッキングしているかもしれないんですけど調整するので』
『先生のファンなんです、だからたくさんの人に先生の話を届けたいんです!』
『僕にはとても思いつかないし、書けない話ですよ』
『え? そんなことない? いえ、先生は天才です』
伸ばした手が先生の服の先を掴んだ。指に力が入らなくて、なぜかわからないのに涙が溢れてくる。
どれだけ書くことを切望しても、
それでも、僕はあなたの書く物語だから愛したんだ。
それは決して僕の描けるものではなく、そしてそれは同時に自分にも帰ってくることをやっと僕は気づけた。
「生きている間に私は私の書きたい話を書ききれないんだろうなぁ」
いつの日か先生は紅茶を飲みながら、そんなことを呟いた。
「そうなんですか?」
「そうだよ。考えてもみてくれ、例えば一年に4冊刊行できるとして、20巻のシリーズを書くとしたら5年だろう? 書きたいシリーズが10個もあればその瞬間に50年」
「……途方もないはなしですね」
僕がぽつりと呟けば、先生は椅子に深く身を沈めた。
それから、そんなことはないよ、とだけ囁くようにそう零した。
ただ、この人を死なせたくないと思った。
それなら、せめて誰かの中に、物語の中に、あの人を生かせたら、なんてそんな夢を見た。
***
「…………んせ……先生!」
浮上した意識のままに目を開けば、目の前には泣きそうな顔をした青年がいた。
視線を巡らせば、ここは個室の病室のようだった。身を横たえているベッド脇の机には彼の私物と思わしき、手帳が開いたままにされていた。ワーカーホリックな彼らしい。
はっきりしない脳内に視覚情報を流し込んだせいでくらりとする。目を閉じて遮断したものの、今度は自分の内部に向いた知覚に耐えきれず結局目を開いた。
だんだんと戻ってくる身体感覚に、顔をしかめる。
「全身が、痛い」
「当たり前ですよ! 本棚の下敷きですからね! 本当によく無事でしたよ」
ほっとしたように息をつく彼をまじまじと見つめる。
病室の白の中で、黒いスーツを着込んだ彼はどこか異質に思えたからだろうか。
お前は誰だと、思わず問いそうになった口を慌てて閉じる。
「お前……何か変わったか?」
それでも、堪えられなかった探求心が唇から零れ落ちる。
さわりとカーテンを揺らした風が、彼の前髪をも揺らしていく。一瞬彼の表情が陰ったかのように見えたのは、揺れた髪の影が落ちたからだったのだろうか。
けれど、彼の指先に微かに力が入ったことだけは確かにわかった。まだ数年の付き合いだが、これは彼が言葉を迷うときの癖だ。
窓の外で枯れ葉が一枚、重力に引かれ舞い落ちていく。
「夢を」
注意して耳を澄ませていなければ聞き逃してしまい様なほど小さな声で彼が呟く。
「夢をみたんですよ」
「どんな?」
端的に問うたのは彼自身が夢を辿るような、そんな面持ちで言葉を紡いだから。
「先生が……いなくなる夢です」
続いたその予想を大きく裏切った言葉に、拍子抜けする。
「私がいなくなることがそんなにお前を変えるのか」
「先生はいなくなってないじゃないですか」
「あぁ、でもお前は私がいなくなるかと思ったから、変わったんだろう?」
「…………先生」
答えない声が、張り詰めて耳を焦がす。
あぁ、と思う。先の手帳だ、と違和感の正体にようやく合点がいった。
仕事と心中するのではないかというくらいの青年の手帳はいつだって読めないようなびっしりとした予定が書きこまれているのだ。それも自分のためでない、私のため――――否、私の書く文字のため。
「やめるのか」
「……はい」
目を向けた先の机にはすべての予定にバツがつけられた手帳がある。その脇にはいくつかの付箋と引き継ぎの算段をつけるためであろう、電話と書類がある。
視線を戻して相対した彼の瞳は凪いでいた。泣きそうな目をしているかと思っていたのに、やはり彼は変わったのだと目元が緩む。
「ふ、自分が死にかけるのではなく、私が死にかけてようやく道を選べたか。なんとお前らしいか」
「皮肉は甘んじて」
「皮肉とはひどいな。これはお前への賛辞と称賛、あぁそれと門出を祝う言葉だよ。おめでとう、お前はようやく私の元から去るのか」
「狡いですよ。まるで初めからわかっていた風にいうんですね」
「あぁ、わかっていたとも。いや、もしかしたらいつか後ろから刺されるやもと思ったこともある」
身を起こそうとすれば、迷わず手を貸そうとした彼に手でもって静止を掛ける。
「私はここからお前を気長に待とう。私が灰になる前にお前にまた会えるといいが」
目を見開いた彼が、くしゃりと笑う。彼にもこんな表情ができたのかと今更に知った。
「灰ですか、先生がただの肉塊になるまでには必ず」
「む、肉塊とはこれまた嫌なものの例えをするな」
「はい、すみません」
悪びれた様子もなく、笑顔で謝って見せた彼がいつかまた私の前に現れるのはいつの話か。
けれど、その日はきっと、いくらか楽しい日になることだろう。
才を食らわば罪までも。
食らわぬならば我が才を、罪になるまで育てよう。
リハビリに書きなぐっていた話。
本当は唯一、肉を食べることだけが決まっていて書き出した話でした。
食べませんでした。