「人形屋敷」<エンドリア物語外伝42>
「まいったなあ」
雨に濡れた肩をブレッド・ドクリルは手で払った。
勤めている魔法協会エンドリア支部はニダウの町を囲む城壁の門を入ってすぐのところにある。昼飯のサンドイッチを食べた後、天気が良かったので眠気覚ましに散歩に出た。門を出て、ベケルト街道を東に向かって歩き始めて5分ほどしたところで、いきなり雨が降ってきた。雨を避ける為に木の下に入ったが、バケツをひっくり返したような豪雨で、枝の間から絶えず雨粒が落ちてくる。
近くで雷が落ちた音がした。
焦げた臭いが充満する。
ブレッドのいる木の下に、影が飛び込んできた。
「ひでー雨になったよなあ」
「いきなりだもんな」
返事を返してからブレッドは、人影に聞いた。
「なんで、こんなところにいるんだ、ウィル?」
濡れ鼠のように全身をビシャビシャに濡らして立っているのは、顔見知りのウィル・バーカーだった
ニダウで桃海亭という古魔法道具店を営んでいる。
「客から魔法道具の買い取り依頼があったんだよ。それで来たんだけど、いきなりだぜ」
空を見上げてグチった。
「買い取りなのに、ムーがいなくて大丈夫なのか?」
ウィルには魔力がない。
魔法道具の鑑定は魔術師でないと難しいので、桃海亭ではムー・ペトリとシュデルという魔術師がウィルの代わりに鑑定している。
「手紙に『買い取りには必ずウィル・バーカー殿、おひとりでいらしてください』って、書いてあったんだよ」
「変な依頼だなあ」
「そうでもないんだ。ムーの奴、色々と警戒されるみたいで『ムー・ペトリは絶対に連れてこないでください』って、念を押されることがよくあるんだ」
「どうやって鑑定するんだよ」
「勘だよ、勘」
あっけらかんとウィルが言った。
ブレッドは、シュデルが頭を抱えている姿が見えるような気がした。
「この辺りのはず何だが…」
キョロキョロと見回していたウィルが静止した。
「お、あれかな」
豪雨で霞がかかったように見えにくいが、家のシルエットのようなものが見える。
「走れば1分かからないな」
そういったウィルが振り向いて、ブレッドを見た。
「一緒に来ないか?雨宿りくらいさせてくれるだろ」
「もしかして、オレに鑑定させようとしていないか?」
魔法協会エンドリア支部では経理を担当しているブレッドだが、魔法専門学校をでたれっきとした魔術師だ。簡単な鑑定方法は学校で勉強している。
「豪雨でしかたなくというのは、嘘じゃない。ムーでなければ依頼主も怒らないだろ」
「怒られるかもしれないだろ?」
「そのときは、そのときだろ。さ、行くぜ」
ブレッドが返事をする前に、ウィルが駆けだした。
ウィルには色々と世話になっている。たまには恩返しをするかとブレッドは、その後を追って駆けだした。
「ひでー雨だなあ」
ウィルがシャツの裾を絞った。
家は、思ったより近かった。走ったのは30秒ほどだったが、全身濡れ鼠で下着までぐっしょり濡れている。
「誰かいませんか!」
ウィルがドアノッカーをたたいた。
反応はない。
「入りますよ!」
「おい、ちょっと待てよ」
ブレッドが慌ててとめたが、ウィルはドアを開けて中に身体を滑り込ませた。
「ご連絡をいただいた古魔法道具店、桃海亭の店主ウィル・バーカーと申します。買い取りにお伺いしました。どなたかいらっしゃいませんか?」
立て板に水で口上をのべたが、誰も出てくる様子がない。
「おい、家を間違ったんじゃないのか?」
扉を開けていると、家の中まで雨が吹き込む。
しかたなく、ブレッドも家の中に入った。
重々しい音で、扉が閉まった。
暗い。
照明がついていない。
広々としたエントランス。正面に階段があり、踊り場には大きな窓がある。
窓のほとんどは黒い雲に覆われて、わずかに差し込む光量では、階段以外はぼんやりとしか見えない。
ウィルが声を張り上げた。
「おーい、誰かいませんか?いないと調理室に行って、肉を焼いて食べますよ」
「やるなよ」
思わずブレッドは釘をさした。
肉に飢えているウィルならやりかねない。
「大丈夫だ。これだけ、デカい屋敷なら肉の塊くらいあるだろ。ちょっとくらいカジってもバレない」
ウィルはやる気満々だ。
「わかった。今度アロ通りの肉屋で、焼きソーセージを買ってやる」
「本当か?」
ヨダレを垂らしそうな顔だ。
「約束する。だから、この家の肉には手を出すな」
「約束だからな」
外で雷鳴が響いた。
エントランスに窓枠の影が、床に映る。
「誰もいないのかな」
ウィルがシャツを脱いだ。
「おい、脱ぐなよ」
「気持ち悪くないか?」
濡れたシャツをねじって絞っている。
水滴が床にポタポタと落ちた。
「人の家だぞ」
「誰もいないみたいだ。間違えたのかなあ」
ズボンのポケットから濡れた手紙を取り出した。
封筒をひらいて、便せんを取り出して見ている。
「ここだと思うんだけどなあ」
「見せてみろ」
便せんは2枚。
1枚目には買い取りの依頼。ウィルが言ったとおり『買い取りの際は必ずウィル・バーカー殿、おひとりでいらしてください』と書かれている。
2枚目は地図だ。ベケルト街道を東に5分ほど歩いた右側の脇道に入ったところにある場所が示されている。
「こんな場所に家が建っていたか?」
考えがブレッドの口から漏れた。
ブレッドは生まれも育ちもニダウだ。学生時代に数年だけ離れたが、ニダウから5分のところにこれだけ大きな屋敷が建てば噂くらい聞いたはずだ。
「オレもちょっと不思議だったんだ。この位置ならベケルト街道から見えるはずなのに、見た記憶がないんだよな」
ウィルも首を傾げている。
ベケルト街道を東に5分。
立派なお屋敷。
いつもは見えない。
キィワードが頭の中でパズルのように組み合わさっていく。
「………人形屋敷」
「何を言っているんだ?」
いつものボォーとした顔でウィルが聞いてきた。
「ここは人形屋敷じゃないかと言ったんだ」
「人形屋敷だと問題なのか?」
「知らないのか?」
ウィルが少し黙った。記憶を探っているようだ。
「知らないと思う」
本当に知らないらしい。
「人形屋敷というのは後で付いた名前だ。30年くらい前まで魔道人形専門の工房があった。腕がいいと評判の店主がひとりでコツコツと人形を作っていたらしい。店主が病気になり店を閉めた。その後、屋敷の場所がわからなくなった」
「魔法で屋敷を隠したんだろ?」
「オレもそう思う。問題はそこじゃないんだ。工房が店を閉めた2年後、ニダウで子供が行方不明になる事件が起きた。
昼過ぎの警備隊の詰め所に10歳くらいの女の子がやってきて、人形に誘われて大きな屋敷に遊びに行ったというんだ。鬼ごっこをしている時に屋敷から外に出てしまい、屋敷に戻れなくなった。警備隊の人に屋敷の中に連れて行って欲しいと頼んできたんだ」
「屋敷に戻るために、警備隊に頼みに言ったのか?」
ブレッドはうなずいた。
「友達が一緒だったらしい」
「友達?」
「女の子が言うには、友達と一緒に屋敷に入ったそうだ。友達はまだ屋敷の中にいる。自分がいなくなって、きっと心配している。屋敷の中に連れて行って欲しい。そう、女の子は言ったそうだ。
警備隊は女の子の案内で屋敷に向かったが、屋敷は見つからなかった。夢でも見たのだろうということで女の子を帰したのだが、その夜、『子供が帰ってこない』と7人の子供の親たちが警備隊に詰めかけた」
「それで?」
ウィルが話の続きをうながした。
「警備隊が再び屋敷を探したが見つからなかった。当時の警備隊の隊長は目隠しの魔法がかけられていると考え、魔法協会のエンドリア支部に協力を頼み、魔術師数人と屋敷に向かった」
「屋敷は見つかったのか?」
「見つからなかった」
「屋敷がなかったと……」
「話は最後まで聞け」
ウィルがうなずいた。
「魔術師達には屋敷があるのはわかったそうだ。ただ、結界に阻まれ屋敷にたどり着くことができなかったそうだ。至急、本部に結界専門の魔術師に派遣してもらったのだが、本部から来た魔術師達は結界を破ることに反対したんだ」
「子供が中にいるんだろ?」
「だから、反対したんだ。強力で特殊な結界だったため、外側から無理矢理破ると屋敷だけでなく空間そのものが強力な力が加わることになる。屋敷だけでなく、人間も壊れてしまう恐れがある。女の子が出てこられたなら、内側からなら何かしらの出る方法があるはずだ。それを待った方がいい、ということだったんだ」
「それで7人の子供達はどうなったんだ?」
「出てこなかった」
「30年間?」
「30年間」
「まだ、この屋敷にいるのか?」
「この屋敷が人形屋敷なら、そうなる」
ウィルが周りを見回している。
ブレッドの目もようやく薄闇に慣れたらしい。エントランスの様子が少しわかるようになっていた。
天井にはシンプルな魔法球を使ったシャンデリア。床は大理石。エントランスから左右に廊下が延びている。廊下の先は暗くて見えない。
正面の階段には絨毯が引かれている。
ウィルが床で指でなぞった。
「屋敷の手入れはされているな。7人で掃除しているのかな」
「何を言っているんだよ」
「7人とも、ここにいる可能性が高いんだろ?」
「30年もここに閉じこめられていて、生きているはずないだろ!」
「どうしてだ?」
「閉じこめた誰かいるはずだろ。30年間も閉じこめるだけの目的で7人も子供をさらうか?」
「そうか?」
ウィルがのんびりと言った。
特に恐怖を感じていないようだ。
ブレッドは両腕で身体を抱え込んだ。
恐怖の人形屋敷。
小さい頃『夜に勝手に町から出ると、人形屋敷で人形にされる』と何度も聞かされた。ニダウでは今も使われる幼い子供が夜に町から出ないようにするための脅し文句だ。
頭ではわかっているが『人形屋敷』への恐怖は、なかなか拭えない。
「心配なら、この屋敷から出るか?」
ウィルに言われて、ブレッドは玄関ドアのノブを握った。
動かない。
右にも左に回らない。
ドアを引っ張っても、押しても動かない。
「どうかしたのか?」
「ドアが動かない」
「ちょっと貸して見ろ」
ウィルがドアノブを握った。
「ダメだな。閉じこめられたな」
ウィルが困った顔で、頬をポリポリとかいた。
「おい、どうするんだよ!」
「そんな顔をするなよ。こんな時の為にブレッドがいるんだろ」
「何を言っているんだ?」
「ブレッドは白魔術師だろ?」
ウィルがブレッドの着ている白のローブを指した。
「オレが白いローブを着ているから、鍵の解除ができると思っているのか?」
ウィルがうなずいた。
「白魔術師なら、亡霊やゴーストも楽勝だろ」
笑顔で言われて、ブレッドは愕然とした。
シュデルが頭を抱えて、うずくまって、愚痴をこぼしているのが見える気がした。
「なあ、ウィル」
「なんだ?」
「シュデルに、魔法協会や魔術について勉強しろと言われないのか?」
「いつも言われている」
「そうだろ」
「シュデルだけじゃないぞ。ロイドさんにも、ガガさんにも、スウィンデルズ爺さんにも言われる。この間、魔法協会本部スモールウッドさんが『勉強しろ』とぶ厚い本をくれた」
「それで本は読んだのか?」
「ページは開いた」
「読んだのか?」
「眠くなって寝た」
「読めよ!」
「数行は読んださ。でも、さっぱりわからないんだ。しかたないだろ」
「古魔法道具店をやっているんだ。知識がないと困るだろう」
「オレの店には動く辞典がいる」
「いつまでも、ムーに頼るなよ」
「シュデルもいるぞ。あいつは、たくさんの辞典を所有している、だな」
魔法について学ぼうとすれば膨大な勉強が必要になる。
魔力のないウィルに、今から魔法を基礎から勉強をしろというの酷なことだというのはわかる。
「せめて、魔法協会のルールくらい覚えておけよ。ローブの色とか位とか、初歩的なことだけでも結構あるだろ」
「ローブの色のルールくらい知っているぞ。使える魔法を協会に登録する。使える魔法をすべて登録する必要はない。登録した魔法のローブを常に着用しなければならない。違うか?」
「そこはあっている。ローブの色には自信があるようだから、オレから聞くぞ。ウィルがいままで会った魔術師のローブの色は何色が一番多かったか覚えているか?」
「白だな。圧倒的に白が多い」
「なぜ、白が多い?」
「白魔法を得意とする魔術師が多いからだろ」
「外れだ」
「違うのか?」
ウィルが驚いている。
本当に知らないようだ。
「キキグジ族のような特殊な例をのぞけば、ほとんどの魔力は応用で他の魔法が使えるんだ。たとえば、火の魔法が中級者レベルの魔術師が、練習してかすり傷程度の治癒魔法が使えるようになったとする。その場合、どのように登録する?」
「赤の魔術師か、赤と白の魔術師じゃないのか?」
「違うんだ。白の魔術師なんだ」
「なぜだよ。それだとみんな白の魔術師に……そういうことか」
「わかったみたいだな」
「貧乏なんだ」
考え方は間違っていない。
「せめて、倹約と言えよ」
「色をつけると、ローブの値段がはねあがる、そうだろ?」
ブレッドがうなずいた。
「単色で約2倍。2色だと数倍になる。デザインによっては数十倍だな。だから、みんな白で登録する」
魔術師はローブを常に着用しなければならない。毎日着るものだから、できるだけ安くすませたい。
「それに白だと他の服とも合わせ易いんだよ。冬にコートやシャツを着るとき、白なら何色でも合うけれど、赤いローブだと合わせにくいだろ?」
「言っていることはわかるけど、まぎらわしい登録をするなよ」
「嘘はついていない。白が使えるから白で登録しているだけだ」
「ブレッドはどんな白魔法が使えるんだよ」
「オレが使えるのは治癒系だな」
「ダップ様と同じか?」
「賢者ダップが治癒レベル100とするとオレはレベル2くらいだ」
「レベル2……具体的に何が出来るんだ?」
「切り傷と擦り傷くらいなら、治せる」
ウィルが目をしばたたいた。
「ブレッドの白魔法は登録用だとわかった。他にどんな魔法が使えるんだ?」
「得意なのは木系だな。蕾をひらかせたり、虫除けの魔法をかけたりできる」
「怪しげな屋敷に閉じこめられた、この状況で使えそうな魔法はないか?」
「ない」
数秒黙ったウィルがブレッドに聞いた。
「魔術師って、そんな感じなのか?」
「普通の魔術師はこの程度だ」
「ダップ様は治癒系だけどホーリーランスを次々に落下させてくるぞ」
「あれは賢者だ」
「ロウントゥリー隊長は高速飛行しながら火炎球を飛ばしてくるぞ」
「あれは戦闘部隊の隊長だ」
「ムーは…」
「あれは化け物だ」
「そうか」
ウィルが黙った。
「あのなあ、ウィル。魔術師の位が1位から50位までに登録されているのは知っているだろ?」
ウィルがうなずいた。
「構成されている人数が、30位以下が圧倒的に多いピラミッド型だというもの知っているよな?」
「知っている」
「40位以下は、こんなものだ」
「ブレッドは何位なんだ?」
何気なくウィルが聞いた。
そのウィルの隣に、ペコペコと謝っているシュデルが見えた。『店長なんです。悪気はないんです。許してやってください』という声まで聞こえる。
「……ウィル。魔術師に位の聞くのはルール違反だ。非常に失礼なことなんだ」
「悪かった」
頭をさげた。
「オレはそれほど気にしないけど、他の奴には絶対にするなよ。魔術師はプライドが高い奴が多いからな。恨みを買うぞ」
「これからは気をつける。前にシュデルに聞いたら、普通に答えてくれたから悪いことだと思わなかったんだ」
「そりゃ、シュデルだからだ。お前がわかっていないことを知っているからだ」
「よし『魔術師に位を聞いてはいけない』覚えたぞ」
「忘れるなよ」
ウィルがうなずいた。
「ついでに聞いていいか。自分が知っている魔術師の位を、人に教えることもいけないのか?」
「魔法協会の役職についている人は問題ない。支部だと支部長以上だな。どちらも公表している。エンドリア支部長のガガさんは36位だ」
「オレがムーやシュデルの位を言うのは、反則なんだな?」
「そうだ。ただし、20位以上なら問題ない」
「20位以上?」
「ニダウにもいるぞ。ロイドさんが18位だ。オレが知っている限り、ニダウでの最上位だ」
「ロイドさんって、すごい人だったんだなぁ」
「18位だぞ、18位。王宮にいれば別だろうが、オレの情報網にも引っかかっていないから、たぶんロイドさんが……」
ブレッドは、そこで気が付いた。
「ムーは何位なんだ?」
「こういう場合は、聞いてもいいのか?」
「本当はいけなんだ。でも、オレの本能が情報をよこせと叫んでいる」
ちょっと、考えたウィルは「シュデルのは怒られそうだけど、ムーならいいよな」と言った。
「5位だ」
ブレッドの耳が拒否した。
「何位だ?」
「5位だ」
「……首飾りをする、あの5位か?」
なぜか、ウィルが焦った。
「首飾りだよな、うん。ある、あるけど、重いからしていないんだ」
「ムーは5位、5位。わかる気もするよな、魔術師としては天才だからな」
「まだ、話は続くのかね」
シワガれた声がした。
声の方に目を向けると、ドレスを着た人形が一体、階段の踊り場から2人を見ていた。
「うわぁあーーーー!」
喉が壊れそうな悲鳴が出た。
ブレッドは背中をドアにはりつけた。恐怖で足がガクガクしている。
人形だ。
人形が話している。
雷光が閃いた。
窓枠と人形が黒い影となって浮かび上がる。
「まだ、話は続くのかね」
シワガれた男の声。
ブレッドの隣にいたウィルが、前に出た。
「初めまして。桃海亭のウィル・バーカーと言います。買い取りにあがりました。商品はその人形でしょうか?」
笑顔で人形に話しかけた。
手に持っていたはずのシャツを、すでに着ている。
「買い取って欲しいのは人形なのだが、これではないのだ。すまないが、この人形についてきてはくれないか?」
明かりがついた。
シャンデリアの光球が明るく光り、エントランス全体が照らされた。
ぼんやりした光景が明瞭になる。天井にはクリスタルのシャンデリア。石造りの壁と床、どちらも上質の大理石だ。
変わったところは特にない。
階段に敷かれた絨毯の濃い赤が、やけに目を引く。
「人形の案内というわけですね。ついていきますので、よろしくお願いいたします」
陽気に言って、階段を登っていく。
「う、ウィル……アブない」
「人形さん、ちょっといいですか」
ウィルが前の人形に声をかけた。
人形の高さは50センチほどだ。
髪は蜂蜜を塗ったような輝きのある金髪で、縦にクルクルとカールしている。白磁でできた顔には、蒼いガラスの瞳がはめ込まれている。ドレスは瞳と同じ青色で、何段にもなったフリルの上に白いレースのエプロンをしている。小さな足には白い革の編み上げ靴を履いている。
知識がないブレッドにも、高価な人形だというのはわかった。
「実は雨に降られて、ここに雨宿りに入った友人があそこにいるのです。一緒に行ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
「それは助かります。おい、来いよ」
呼ばれたブレッドだが、首を横に振った。
怪しげな人形に、ついていきたくない。
「それじゃあ、ひとりでここに残るか?」
それも怖い。
試しに後ろの扉のノブを動かしたが、やはり開かない。
「人形さん、人形さん、玄関の扉をちょっとだけ開いてくれませんか?」
ウィルが人形に頼む声が聞こえる。
「あれは私ではない。開けることは出来ない」
「わかりました。足を止めさせてすみませんでした。どうぞ、案内の方をよろしくお願いします」
階段の上を滑るように移動する人形について、ウィルが階段を登っていく。
「お、オレも行く」
足がうまく動かない。
四つんばいになって、手と足で階段をはい上がった。階段をあがったところで、人形とウィルが待っていてくれた。
「大丈夫か?」
「あ、ああ」
ブレッドが立ち上がると人形が動き出した。
ウィルが人形の隣を、速度をあわせて歩く。
「立派なお屋敷ですね。人形さんのお屋敷ですか?」
「そうだ。それから、人形さんはやめてくれないか。私にはデリック・ハッチフルという名前がある」
「ハッチフルさんでよろしいでしょうか?」
「それで頼む」
ウィルは身長50センチのドレスをきた人形と普通に会話している。
頼もしいという思う反面、少しおかしいという気もしてくる。
「ハッチフルさんは人間ですか?」
「人間だったというべきかな。人形を作ることを生業にしていた」
「30年ほど前まで、この辺りに人形工房があると聞いています。こちらで間違いございませんか?」
「病気になって工房を閉鎖したのだが、そのあと事件に巻き込まれた」
「どのような事件か、お聞きしてもよろしいですか?」
「実際に物をみてもらったほうが、わかりやすいだろう」
長い廊下の途中、右側の壁にかけてある等身大の肖像画の前に止まった。
「ここから秘密部屋に入るのだが、入り口が少々狭い。私は小柄だったのでギリギリはいれたのだが……」
ブレッドとウィルを見た。
2人ともニダウ成人男性の平均身長だ。
「………がんばってくれ」
丸投げされた。
肖像画が扉だと予想したブレッドだが、扉はその下だった。人形が軽く押すと、内側に開いた。
入り口は床から肖像画までの高さ、30センチ弱、幅は40センチ強。
人形は四つん這いになると、軽々と抜けていく。
「よっしゃ、入るか」
床にベッタリ張り付いたウィルが、両手から中に潜り込んでいく。
「せまいな。こりゃ、イタッ!」
頭がぶつかったようだ。
「ハッチフルさん」
「どうかしたかね」
「ここを抜けたせいで、オレの髪が減ったら恨みますからね」
「それだけあれば、多少減っても問題ない。私などは死ぬ前にはほとんど残っていなかった」
ブレッドは目の前に掛かっている肖像画の人物が、毛がほとんどないことに気づいた。耳の横にヘロヘロと伸びた髪が残っているだけだ。身長も150センチくらいだ。
デリック・ハッチフルの肖像画かもしれない。
「なんで、こんな入り口にしたんです。イタッ!」
また、どこかぶつけたようだ。
「製作をしている時は、誰にも邪魔をされたくなかったのだ」
「気持ちはわかりますけれど、他に方法があったのでは…イタタッ」
それでも、ジリジリと前に進んでいるようで、胸が入り、腹の途中まで来ている。
小さな穴に腹ばいになったウィルの身体が少しずつ飲み込まれていく。
「あっ!」
ウィルの両足をつかんだ。
「おい、ブレッド。何するんだよ!」
「このポケットに書かれているのは護符だろ?」
ウィルのズボンの後ろポケットに、黒い線で見覚えがある形が書かれている。
「ムーのイタズラ書きだよ。とにかく、手を離せ」
「ちょっと、見せてくれ」
「あとで見ろよ。とにかく、離してくれ」
しかたなく離した。
ウィルの身体が穴の中に消えて、少しして穴の奥から声がした。
「来いよ」
ブレッドも腹ばいになって穴に入った。
狭い。
上下の高さはギリギリで、顔は床に密着、髪はこすれる状態、横は肩幅いっぱいだ。顔を斜めにして、両手を真上にあげて魚のように左右に身体をくねらせて、少しずつ前に進んだ。穴の長さは約2メートル。ウィルじゃないが『なんで、こんな入り口にした』だ。
ようやく抜けたときには、汗びっしょりになっていた。
「はあ、疲れた」
「帰りも通るのか」
ウィルがイヤそうに言った。
立ち上がったブレッドは、周りを見回した。
人形製作の為に作られた部屋というのが、ぴったりな部屋だった。右の壁には手入れされた大工道具が整理整頓されて掛けられていた。のこぎり、錐、やすり、のみ、たがね、とんかち、などが大きさ順の並んでかけてある。その下に設置されたテーブルには旋盤が置かれている。左側の壁は作り付けの棚になっていた。ラベルを貼った同じ大きさの箱が整然と並んでいた。ラベルには、絵の具赤色系とか平筆というような普通に見るものだけでなく、眼球とか歯とか物騒な名前も書かれている。
正面は本棚と焼成用の釜が置かれている。本棚の本には全部カバーが掛けられており題名は見えない。
ブレッドは忘れないうちにと、ウィルの後ろに回った。
「何を…」
「護符を見させろ」
「だから、イタズラ書きだ」
「お前のことを心配して、こっそり書いてくれたのかもしれないだろ」
「ムーだぞ」
しゃがみこんで、ポケットに書かれた護符を見た。
間違いなく護符だ。ブレッドの知識では詳細はわからないが、光系統と白系統の呪文で構成されている。
「護符だ」
「本当か?洗っても落ちなくて困っていたんだ」
「護符だけど、お前の言うとおりイタズラ書きだ」
ブレッドはポケットを指した。
「この護符は魔力がないと発動しない」
護符にも魔力が必要なものと必要がないものがある。
ポケットに書かれた護符は、魔力を流しこんで発動するタイプだ。つまり、魔力ゼロのウィルがつけていても、ただのイタズラ書きでしかない。
「ほら、イタズラ書きだと言っただろ」
魔力ゼロでも桃海亭の店主、ムーのことをよくわかっている。
「こいつをオレにくれ」
「使えるのか?」
「わからない。でも、発動はさせられる」
「いいけど、あとで別のポケットをつけてくれ。ないと困るんだ」
「ポケットの布地を買ってやるから、シュデルにつけてもらえ」
ポケットを引きはがそうとして、ズボンの布地が傷んでいることに気が付いた。このまま、力を入れるとズボンが破れる。
何かに肩をたたかれて、振り向いた。
目の前で銀色のものが光った。
「うわぁーーーー!」
ハサミだ。
刃渡り50センチもある巨大なハサミを人形が持っている。
「お、オレは……」
喉が詰まって、うまく声が出ない。
「糸を切るの使ってくれ」
ハサミを差し出された。
「あ、あっ…ありがとう……ございます」
震える手で受け取った。
手入れがされているようでピカピカだ。動きもいい。
「でかいハサミだな。大丈夫か?」
のんびりとしたウィルの声に、冷静さが戻ってくる。
「オレは器用なんだ。安心しろ」
そうは言ったが、刃先が太くて切りづらい。
護符の書かれたポケットとウィルのズボン、どっちを優先すべきか。
迷う必要はなかった。
ジョキン!
「終わったぞ」
線を一本も傷つけず、護符を切り取れた。
「なんか、涼しいんだけど」
ポケットのあった場所から、ウィルのシマシマパンツが見えている。
「ポケット用の布は…」
「ああっ!」
振り向いたウィルが穴に指をつっこんでいる。
「こりゃ、シュデルだと無理だ。王宮のポーモントさんに頼むか」
ブレッドは礼を言って、人形にハサミを返した。
ハサミを受け取った人形は、ウィルの切り取られたズボンを見た。
「布が傷んでいるようだな。繕うのは難しかろう」
感情のないガラス玉の目が、ブレッドを非難しているように見える。
「……新しいズボンを買ってやるよ」
「いいのか?」
「魔法協会は安月給なんだ。高いのは無理だからな」
「お前は、本当にいい奴だよなあ」
焼きソーセージにズボン。
予定外の出費がかさんでいく。
巨大バサミを壁にかけた人形が戻ってきた。
「魔法協会に勤めていると言っていたな。そこの友人は魔術師か?」
「こいつ……彼の名前はブレッド・ドクリル。魔法協会エンドリア支部で経理をやっています」
「私は魔術師を好かない」
「ブレッドはいい奴です。陽気で親切です」
「だが、魔術師だ」
「安心してください。魔術師ですけど魔術師としては3流、いや5流だそうです。かすり傷を治すのと花の蕾を開くくらいしかできないそうです」
魔術師はプライドが高いやつが多いから言動には気をつけろと、注意したばかりなのに、完全に忘れている。
この調子だと、すでにかなりの数の魔術師の恨みを買っていそうだ。
「本当か?」
「本当です。それにブレッドは非常に役に立つ人間です」
「特殊な魔法でも使えるのかね?」
「いいえ、それより素晴らしい力を持っています」
ウィルがブレッドを指した。
「彼はニダウで一番の情報通です」
ボォーとしているウィルとは思えない、力強い言い方だった。
「ハッチフルさんは30年間、この屋敷にいらしたのですよね?外に出なくなってからの受け取ることのできなかった情報を、彼は持っているのです」
人形のガラスの目が、ブレッドを見た。
何か言いたげに見える。
自然に言葉が出た。
「何かお知りになりたいことがあるのですか?」
「……30年前のことでもわかるか?」
「大体のことでしたら」
「子供が行方不明になった事件を知っているか?」
「はい。人形屋敷に連れ去られたということになっています」
「そうだ、7人ともあの日この屋敷にいたのだ。そのせいで、私ともども7人も巻き込まれてしまったのだ」
「いま7人とも巻き込まれたと言われましたか?」
「その通りだ。7人の子供たちの親のことを思うと…」
「待ってください。8人です」
「8人?あの日、ここにいたのは7人だ」
「あとひとり、女の子がいるはずです。彼女は警備隊に『友達がまだ屋敷にいる。戻りたい』といったそうです」
「っ!」
表情がない人形なのに、驚いているのがわかる。
「本当なのか?」
「本当です」
「なんということだ……」
人形がちいさな手で頭を抱え込んだ。
ブレッドはできるだけ、落ち着いたはっきりした声で、人形に問いかけた。
「知りたいことを聞いてください。わかることには全部答えます」
人形が顔を上げた。
「その女の子はどうなった?」
「この事件の記録は警備隊と魔法協会に残されていました。警備隊は翌日、その女の子の家まで会いに行きましたが、そこにいたのは別の女の子でした。隣の旅館に似たような女の子がいたそうですが、前日の夕方に家族と一緒に出立したそうでいませんでした。魔法協会の記録には女の子については一切書かれていません」
「女の子の家族についてはわかっていることはないのか?」
「ありません。何人いたのか、どのような構成だったのか、警備隊が旅館の者に聞いていますが、覚えていなかったそうです。宿帳にも記載はなかったそうです」
「いなくなった子供達の親はどうなった?」
「全員元気です。ニダウに住んで、子供が戻ってくるのを待っています」
「ありがとう」
ブレッドに、そういうと人形はウィルの方を向いた。
「君の言うとおりだ。この魔術師が、ここにいてくれてよかった」
「そうなんですよ。ブレッドがいるととても便利で」
「今度は私の話の番だ」
人形が壁にあるスイッチのようなものを押すと本棚がスライドして地下に降りる階段が現れた。
「この下が倉庫になっている。ついてきてくれ」
慣れているらしく高い段差をものともせずに、ジャンプしながら降りていく。
「さて、鬼がでるか、蛇がでるか、それとも、人形かな」
陽気に言ったウィルが、人形に続いて階段に降りていった。
ブレッドは階段をのぞきこんだ。壁に囲まれて外の光は射し込まないが、光苔を利用した照明システムがあるらしく、周りがみえないほどではない。ウィルに続いて階段を降りていく。踊り場をほぼ一緒に回ったところで、それが目に入ってきた。
「うわぁあーーーー!」
人だ。
人が死んでいる。
仰向けに倒れた男の顔は干からびて黒ずんでおり、生きているようには見えない。
「死体のようなものが見えますが、あれは人形ですか?」
ウィルが人形に聞いた。
「いや、人だ。元、人だったというほうがいいのかな」
「お亡くなりになったのは30年前ですか?」
「そうだ」
階段を降りた人形が、死体の横を通り過ぎた。次に階段を降りたウィルは横たわっている死体の前に行くと、目をつぶり黙祷している。
「こっちだ」
人形が隣の部屋に通じる扉を開けて、ウィルを呼んだ。ウィルは死体に一礼すると隣の部屋に移動した。ブレッドも後を追った。
「し、死体」
「うん、可哀想だよな」
ウィルはまったく動じていない。いつもと変わらない緊張感のない表情だ。
前を歩いていた人形がとまった。
壁に作り付けられた大型の飾り棚を指した。
「買ってもらいたいのは、あの人形なのだ」
人形の小さな指が、飾り棚の中央を指した。
「うわぁあーー!」
喉から飛び出す悲鳴を、ブレッドはとめられなかった。
人形だ。
棚に無造作に置かれた人形は、斜めに折れ曲がっている。
毛糸でできた焦げ茶の髪はボサボサだ。
人形の本体は布で作られているようで、顔は手垢で黒ずみ、手足の破れたところから綿が見えている。服は汚れた花柄のハンカチで体に巻いているだけだ。
その人形の周りを、黒い霧が包み込んでいる。
魔力でできた霧だということはブレッドにもわかった。だが、どのような魔法なのか想像もつかない。包み込んでいる霧に込められた魔力は、ブレッドがいままでに感じたことにない禍々しさがある。
絵の具で描かれた目が、霧の中から、ぼんやりとブレッドの方を見ている。
「う、ウィル、人形だ、人形」
「見ればわかる。ちょっと、静かにしていろ」
ハッチフルさんが入っている人形が非常に精巧な作りなのに対し、置かれているのはニダウの街角の屋台で売られているような安物だ。
黒い霧をまとう人形の周りには、30センチほどの人形が7体囲むように置かれている。7体ともハッチフルさんが入っている人形と同じで丁寧な作りで、霧もまとっていない。
ウィルが近寄った。
「買い取って欲しいというのは、真ん中の布製の人形で間違いありませんか?人形の周りにある黒い霧のようなものは何でしょうか?」
「あの日のことを話そう。そうすれば、何がおこったのか、その人形が何であるかわかるだろう」
そういうと人形は飾り棚とは逆側を部屋の隅を指した。
ベッドが置かれていた。サイドテーブルには薬の袋や吸い飲みが置かれており、病人のベッドであることが見ただけでわかった。
「あそこに私の遺体がある」
「ハッチフルさんも、お亡くなりになっていたのですか?」
人形がうなずいた。
「あの日はまだ生きていた。いなくなった7人の子供達は、私がまだ工房を開いていた頃から、よく遊びに来ていた。彼らはこの屋敷を見えなくする魔法の隙間の場所を知っていて、病気になってからも時々、見舞いに来てくれていた。あの日もいつものように見舞いに来てくれたのだ。いつもと違っていたのは、見知らぬ女の子を連れてきたことだ。子供達は旅の女の子だと言っていた。『人形を見たい』と言っていたから連れてきたのだと。子供達に悪意はなかった。あったのは、その女の子の方だった」
人形は、飾り棚を指した。
「女の子は7人に連れられて屋敷に入るときに、密かに仲間を2人引き込んだ。彼らの目的は子供達だった」
「子供達?」
ウィルが怪訝そうに聞いた。
「彼らは人さらいだった。この屋敷に案内させたのは誘拐するのに人目につかない良い場所だったからだ」
人形は隣の部屋を指した。
「私たちがここでお茶を楽しんでいると、先ほど転がっていた死体の男ともうひとりの男が入ってきた。男達は逃げようとする子供達を捕まえて縄で縛ったのだ。私は助けたかった。だが、身体が動かなかった」
人形が悲痛な声で言った。
「泣き叫ぶ子供達をどうしても助けたかった。だから、この人形に私の魂を移したのだ。あそこに死んでいる男は倒せた。だが、もうひとりの男は逃がしてしまった。残された女の子は奇妙な魔法を使って空間に道を開いて、子供達をそこに投げ込みはじめた。そして、自分もそこに飛び込んだ。あの女の子がこの屋敷に戻ろうとしているなどと思ってもみなかった。だが、あの女の子が無事ならば、他の子供も無事だろう。どうかニダウに戻ったら、子供達の親にこのことを伝えて欲しい」
人形は黒い霧をまとった人形を指した。
「あれには死んだ男の魂を入れた。あの人形を詳しく調べてくれれば何かわかるはずだ。あれを引き取って欲しい」
ウィルは困ったように頬をポリポリとかいた。
「ハッチフルさん。オレみたいな若輩者がいっていいのかわからないんですけどね、商売は信用だと思うんですよ」
ウィルが黒い霧がとりまいている人形を指した。
「ブレッド。あの人形に魂があると思うか?」
「ない」
即答した。
ウィルには5流と言われたが、ブレッドは自分が魔術師であることを誇りに思っている。魔法協会に入る前も入った後も、魔法の勉強を怠ったことはない。器物に人の魂が宿っているかくらいは、見分けられる。
ウィルはハッチフルが入った人形の前にかがみ込んで、視線の高さを合わせた。
「オレは、男が2人入ってきて子供達を捕まえようとした。そこまでは、ハッチフルさんは真実を言っていると思っているんです。でも、その先は作り話だと思っているんですよ。そうでなければ、話のつじつまが合わない。本当は何があったのか、話してはいただけませんか」
人形は黙っている。
ウィルはまた頬をポリポリかいた。
「オレの想像です。ハッチフルさんは子供達をかばっていませんか?それと、登場人物がひとり足りない。違いますか?」
人形がフッと息を吐いた。
「あの仮面の言ったとおりだった。私は選ぶ相手を間違えたのかもしれん」
「仮面ですか?」
「桃海亭に住んでいるのではないか?20センチほどの木製の仮面だ。北で作られたと言っていた」
ウィルが首を傾げた。
ブレッドは急いでウィルに言った。
「おい、ウィル。あれだよ、あれ。この間までショーウィンドウに飾ってあった狩猟民族が呪詛に使う仮面」
「ああ、あれか……って、あれなのか!」
「ハッチフルさん、細長くて、目のところがアーモンド型に切り抜かれていて、赤と白の土で彩色してある仮面ですよね?」
人形がうなずいた。
「月が綺麗だったので散歩に出たそうだ。偶然、目隠しの魔法の隙間を見つけて屋敷に入ってきたそうだ」
「あの野郎、勝手に店の外に出やがって」
ウィルの額に怒りマークが出た。
「知らなかったのか?」
つい、いつもの癖で聞いてしまった。聞いてから、ブレッドはしまったと思ったが取り消せない。
「何をだ?」
「ニダウの最新の観光情報」
「何を言っているんだ?」
「月が煌々と照る夜は、深夜の2時頃から5時頃まで、キケール商店街からアロ通りの辺りに、木の仮面が踊るように跳ねているのが見られることがある」
ウィルの額のマークが2つになった。
「1度じゃないということは、シュデルもからんでいるな」
「アーロン隊長も知っている。知っていて見逃している」
「アーロン隊長が見逃している?」
「3週間ほど前だったかな。西塔から子供が足を滑らせて落ちた事件があったんだ。お前とムーはニダウにいなかったから知らないと思う。その時、ショーウィンドウを破ってあの仮面が飛び出して子供を救ったんだ。ちょうど、子供が落ちるのが見える位置にいたらしい。子供の親が礼を申し出たところ『礼は言らないから月夜に散歩したい』と仮面が言って、親がアーロン隊長に相談して、アーロン隊長が王様に頼んで1ヶ月に2日だけ、月夜にニダウを散歩していいことになったんだ。2日だけという約束だが、月が綺麗だと毎晩でも出歩いているけどな」
「それでショーウィンドウの飾り付けが変わったのか」
「仮面がニダウの町の外まで出歩いているとは思わなかったけどな」
「しばらく、納戸行きだな」
「納戸に入れる前に深夜に屋台を出している奴らに一声かけろよ。仮面が来ると思って仕込みをしているからな」
「わかった。って、なんだよ、それ」
「結構儲かるみたいだぞ。お前も出せよ」
「……考えておく」
「屋台を出すときには厳しい規制があるからな。声も音も厳禁。深夜に寝ている人たちの妨げになるようなことは絶対にしてはならない。詳しくは王宮で聞け」
人形がフフッと笑った。
「私が生きていた時とは、ニダウもずいぶん変わったようだ」
「変わっていません。平和で穏やかで陽気な町です。問題のある店が一件増えただけです」
「その店から来た仮面が言ったのだ。『シュデルの力ならばこの事件を解決できる』だが、シュデルというのが魔術師だと聞いて私は断った。仮面は次に店には普通の若者もいるといったのだ。『魔力はなく頭も悪いが、解決できるかもしれない』私はその若者ウィル・バーカー宛に手紙を書いて、仮面に託した。その時、仮面が言ったのだ。『彼は解決出来るかもしれないが、あなたの望む解決にはならないかもしれない』
私は子供達が生きている可能性があることを親に伝えたかったのだ。そして、その手がかりの人形を屋敷の外に持ち出して欲しかっただけなのだ」
人形が両手で顔を覆った。
ウィルが真剣な顔でうなずいた。
「それで、封筒に切手が貼られていなかったのか」
「そこじゃないだろ!」
ブレッドは思わず、怒鳴った。
「オレにとっては大事なことだぞ。自営業にとって、切手代は非常な負担だ。節約する方法があるなら知りたいと思っていたところに切手が貼られていない上等な封筒が届いた。切手代を払わずにすむ裏技があるのかもしれない。あるなら教えてもらおうと思っていたんだ。まさか、仮面が運んでいたとは。盲点だった」
「貧乏なのはわかっているが、今はそれ横に置いておけ。そして、人形の悩みの解決を手伝ってやれ」
「解決?今のままだとできないぞ。オレは言ったはずだ。ハッチフルさんに真実を言って欲しいと。この状態で無理に解決すると糸は絡まって解決不能になるぞ」
ウィルがのんびりした様子で言った。
人形は下を向いた。
その人形に向かってブレッドは声を張り上げた。
「ハッチフルさん、このアホっぽいウィルのことを信じられないかもしれません。こいつは間が抜けた顔をしていますし、実際間が抜けています。でも、こいつはすごい奴みたいなんです。どういう風にかはオレにはうまく言えませんが、とにかくすごい奴なんです」
説得しようと思ったのに、うまく説明できないのがもどかしい。ウィルの悪い噂ならば山のように頭に詰まっているのに、いい話が出てこない。【奇跡的に生き延びている】それ以外でてこないのだ。
「…信じるに足る人間だと言えるのかね?」
「はい」
返事してから、ウィルの起こした事件が次々に頭の中に湧いて出た。
やはり、ろくなことをしていない。
「わかった。信じよう」
「……期待はしないでください」
ブレッドは小声で付け加えた。
人形はウィルを見た。
「私が子供達をかばっていると君は言った。君には何があったのかわかっているのか?」
「階段下で死んでいた男ですが、あれは転落死ではありませんか?頭の下に血のようなものがありました。誰かと踊り場でもめて、突き飛ばされて落下。床に後頭部を直撃して死亡。病気で動けなかったハッチフルさんが犯人のはずがない。そうなると、子供達の誰かが突き飛ばした、そういう結論になります」
「もうひとり登場人物が足りないともいっていたが、誰がいないというのだ?」
「病気で動けなかったハッチフルさんの世話を誰がしていたのでしょうか?人間か人形かわかりませんが、魔法を使える何かがハッチフルさんの世話をしていたのではありませんか?事件の日、子供達にお茶を振る舞ったと言っていましたよね。動けないハッチフルさんにお茶を入れることは出来ません。とすれば、世話をしていた人が、事件が起きたときに、その場にいたはずです」
「私の世話をしていた誰かがいたとしよう。その誰かが男を突き落とした、とは考えないのか?」
「状況を考えると動けないハッチフルさんから離れるとは思えません。突き落とした犯人は逃げようとした子供しかいないんですよ」
光が出現した。
「ウィル!」
床が黒く焦げている。
「あぶねぇ」
直前までそこにいたはずのウィルは、いつの間にかブレッドの後ろにいた。ブレッドを盾にする位置だ。
「エリザベス、やめてくれ!」
人形が宙にむかって叫んだ。
「彼らは私を害するためにきたのではない。彼らを傷つけないでくれ」
「オレを攻撃した犯人はそこですか?」
ウィルも宙を見上げた。
まるで透明のカーテンの陰からでてくるように、人形が姿を現した。体長50センチほど。漆黒の髪は真っ直ぐで、腰まで垂れている。レースをふんだんに使った豪華なドレスも髪と同じく艶やかな黒い色をしている。白い磁器の肌をした闇色の人形。真紅のガラスの瞳だけ、燃えるように爛々と輝いている。
「エリザベス。私が頼んで彼らに来てもらったのだ。話が終わるまで待ってくれないか」
「くるぞ!」
ブレッドを腕に抱えるようにして、ウィルが床に転がった。
「こいつはやっかいだな」
2人がいた場所が黒こげになっている。
光がまた出現したらしい。
「話が終わるまで、待ってくれ。頼む」
ハッチフルが必死に頼み込んだが、エリザベスと呼ばれた人形は聞く耳をもちそうにない。
ウィルがエリザベス人形を見た。
「おい、エリザベス。オレが事件の内容を当ててみせる。そこで聞いていろ」
そう言ったウィルは、直後に右に飛んだ。
ウィルがいた場所に光が出現。床が焦げた。
「ハッチフルさんと子供8人でお茶を飲んでいるところに男が2人やってきた。子供達の後をつけて、目隠しの魔法の隙間から侵入したのだろう。男達はすぐに子供を捕まえ始めた。動けないハッチフルさんと10歳の子供が相手だったから、成人した男にはさほど難しくはなかったはずだ。逃げようとした子供のひとりが男を階段で突き飛ばして死なせた。残った男が、7人の子供を捕まえてた」
後ろにウィルが飛んだ。
光が出現。床が焦げた。
ゼロコンマ数秒でウィルは避けているが、どうやって前兆をとらえているのか、ブレッドにはわからない。
「子ども達は男に連れて行かれた。たぶん、ハッチフルさんはお前に頼んだはずだ。子ども達を助けて欲しいと。でも、お前は動かなかった。子供のことなぞ、お前にとっては、どうでもよかったからだ」
ウィルが再び後ろに飛んだ。
光が床を焦がした。ギリギリのタイミングだった。
「男と手引きをした女の子が、そのまま帰れば問題なかった。だが、女の子がお前の怒りを買った。たぶん、人形に手を出したのだろう」
ウィルが黒い霧をまとった人形を指した。
「あの人形、あれは手引きをした女の子が持っていた人形じゃないか?女の子には大切な人形だっただろうが、ここにある人形に比べればみすぼらしい。美しい人形を欲しくなった女の子は、飾られていた人形に手を出した。お前を怒らせた女の子を、ハッチフルさんはかばった。その結果、人形の身体に意識を閉じこめられることになった。肉体に戻る方法は見つからず、命を閉じることになった」
ウィルが身体をそらした。
斜めに出現した光を、紙一重で避けている。
「お前はなんらかの方法で女の子をこの屋敷から放り出した。その方法がわからなかったハッチフルさんは、いなくなった女の子は死んだと思っていた。だから、さっきブレッドから『生きている』と教えられて驚いた」
ウィルが人形から視線を外さず、怒鳴った。
「ブレッド!」
「な、なんだよ」
いきなり怒鳴られて、驚いた。
「今から、オレは2つのことを言う。耳の穴をかっぽじってよく聞けよ」
「わかった」
ウィルがジャンプした。
足下を光が抜けていく。壁が焦げた。
「1つ目。最近でなくていい。この辺りに魔道人形の工房があったという話はないか?」
「ある。100年くらい前と150年くらい前に、腕のいい魔道人形の工房があったらしい。ただし、これは魔法協会にメモ書き程度の記録だけだ」
「なるほどな。つまり、屋敷の本当の主人は……」
ウィルが人形をにらんだ。
「…エリザベス、お前なんだな」
ウィルが大きく左に飛んだ。
光の束が通る。床が広範囲に焦げた。
「お前は才能ある人形師がニダウに生まれると、相手が不信感を抱かないような状況を作り上げ、接触を計った。素晴らしい制作環境提供すると甘い言葉でこの屋敷で引き入れて、自分の監視下で人形を制作させた。違うか?」
ウィルが屈み込んだ。
頭上を光の帯が通過した。
壁が焼けて、長い横線が入った。
「ブレッド、2つ目だ」
ウィルは人形から目を離さない。
「オレは自分が逃げるのに精一杯だ。危なくなったら、自力で頑張れ」
「えっ」
「ほら、来るぞ」
人形がいつの間にかブレッドを見ていた。
光が来る。
わかっていたが、身体が動かなかった。
「ぐふぅーーーー!」
わき腹に何かが刺さっていた。
猛烈な勢いで飛んできたそれによって、ブレッドの身体は壁にたたきつけられた。
わき腹から何かが離れると、押さえる力を失ってズルズルと身体が床に落ちた。
「いてぇーーー!」
痛みで床に転がり回るブレッドの目に、立って居た場所が焦げているのが見えた。
助かったという気持ちと痛くて死にそうだという気持ちが混じり合う。
「大丈夫ですか?」
飛び込んできた淡いピンク色。
桃海亭の店員、シュデルだった。
「助けに来てくれたのか?」
「ノースから話を聞きました。まもなく、アーロン隊長もやってくるはずです」
「ノース?」
「店長、いい加減に名前を覚えてください。彼です」
木製の狩猟民族の仮面が、床に直立していた。
ブレッドの脇腹にぶつかったてきたのは、この仮面らしい。高速で飛んできて、ブレッドを助けてくれたらしい。
「まあ、いいや。あの人形をなんとかしてくれ。お前ならできるだろ」
「できません」
「……へっ?」
「できないと言ったんです」
「あの、魔法道具全般はOKなんじゃないんですか?」
慌てているのか、ウィルの言葉づかいが変になっている。
「あれは悪魔です」
「悪魔だとダメなの……」
ウィルが黙った。
シュデルがにらんでいた。
銀色の瞳が、冷たく輝いている。
「ブレッドさん。僕はこの悪魔と交渉します。店長に違いを教えておいてください」
氷点下の目でブレッドを見た。
反射的にうなずいた。
「それでは、エリザベスさん。こちらで話しませんか?」
優雅な仕草で壁際に寄った。
小声でなにやら話し始めている。
「ブレッド、悪魔だとダメなのか?」
ブレッドが立ち上がると、のんきな声でウィルが聞いてきた。
「全部というわけじゃないが、基本ダメだ。神と悪魔は例外だ」
「どうしてだ?」
ため息が出そうになった。
シュデルがブレッドに押しつけた気持ちがわかった。
「悪魔について、どれくらい勉強した?」
「あーー、天魔と地魔があって」
「それから?」
「なんか、天魔は空の星座、違ったかな、とにかく、暦とあわせて、なんとかの宮と照らし合わせ……」
「もういい」
詳しい説明をしても、途中で寝そうだ。
「悪魔つきの人形は、魔法道具に分類されない。そう覚えておけ」
「わかった」
ブレッドはまだ足下にいる仮面を持ち上げた。
「ノース、助けてくれてありがとう」
手の中で軽く跳ねた。
返事をしてくれたと解釈して、そっと床におろした。
「話が付きました」
シュデルが戻ってきた。
「その前に、店主たるオレに仮面が散歩していることを、なぜ言わなかった」
「言ったら月に2日しか出せないじゃないですか」
「2日出せば十分だろ!」
「ノースが可哀想です!」
「どうして、お前は道具となると際限なく甘やかすんだ!」
ブレッドは、怒鳴り合っている2人の肩を軽くたたいた。
「あとで、店でゆっくりやってくれ」
渋々といった様子でシュデルが話し出した。
「魂一つ。それが条件です」
「へっ?」
シュデルがブレッドの方を向いた。
「ハッチフルさんを含め、屋敷内の全員の解放。屋敷内の物をすべて自由に持ち出していい。ただし、魂をひとつ置いていくようにということです。エリザベスさんの希望はブレッドさんの魂です」
「お、オレの魂……」
悪魔に捕らえられた魂はどうなっただろうと思いだそうとしたが、恐怖のせいか思い出せない。
「まあ、しかたないか」
「そうですね。ここはブレッドさんに少し我慢していただいて」
「ま、待って……くれ」
歯の根が合わない。
話そうと思うのにガチガチと音がする。
ウィルがブレッドの耳に囁いた。
「心配するな。オレ達が外に出たらムーを呼んできてやる」
「ムーさんは使えません」
「どうしてだ?」
「こちらの悪魔は強力な力をお持ちなので、ムーさんと戦うとこの辺りは瓦礫の山になります」
「少し位いいだろ」
「少しではなく、かなり広いです。魔法協会エンドリア支部が消えると思います」
「そいつはまずいよな」
「はい。昨日、叱られたばかりです」
話の流れが、ブレッドを悪魔に渡して終わりになりそうだ。
「う、ウィル」
「わかっている。お前を見捨てたりしない」
「わた……渡さないで……」
「オレ達を信じろ」
さわやかな笑顔、を浮かべているつもりらしいが、にんまりとしている目が怪しい。
「それではブレッドさん。すぐに助けますので、僕らを信じてあちらの悪魔のところに」
「…い、いや……いや、だ」
「ほら、こっちだ」
ウィルに腕をつかまれた。
逃げる方法を必死に考えた。
悪魔に引き渡されたくない。
その一心でブレッドはズボンのポケットに指を入れた。
そこにあるのは、ムーがイタズラ書きをしたウィルのポケット。
覚悟をきめて、魔力を流し込んだ。
純白の光が爆発した。
「うわぁーーーー!」
悲鳴が聞こえる。
痛みで身体がバラバラになりそうだ。
身体が何も触れていない。
宙を飛んでいるんだ。
そう思いながら、ブレッドは意識を失った。
「大丈夫か?」
「大丈夫に見えるのか!見えたら眼医者に行けよ!」
ニダウ王立病院のベッドに横たわったブレッドは、見舞いに来たウィルに思い切り怒鳴った。
左腕を以外、包帯でグルグルに巻かれている。
肋骨3本、右尺骨、左脛骨、骨折。
右側頭部、右前腕、裂傷による縫合。
地面にたたきつけられた身体の右半分のあちこちに打撲による内出血があり、診察した医者に内蔵に損傷がないのは奇跡だと言われた。
「ムーの護符なんて使うからだ」
「悪魔に引き渡されるより、マシだ!」
「オレとシュデルが本当に引き渡すはずないだろ。なんで、信じてくれなかったんだ」
「信じられるか。絶対に引き渡すつもりだっただろう!」
「ブレッドのことだから、オレの調書はみんな読んでいるんだろ?オレが他人を見捨てたことがあるか?」
膨大な量があるので全部をすぐには思い出せないが、確かに何度も他人を必死で助けている。
「……それなら、どうやって、あそこから逃げ出すつもりだったんだよ」
「シュデルを信じていた」
「シュデル?」
「魔法協会の職員なんだから、あいつの特殊能力は知っているだろ?」
「道具を影響下にできることか?」
「あれだけ、デカい屋敷なんだ。魔道人形のひとつやふたつ、あるだろうと思った」
「なかったら、どうするつもりだったんだ?」
「なかったら、シュデルがお前を引き渡そうとなどしない。他の手段をオレに言っていたはずだ」
「シュデルにはあるとわかっていた、ということか?」
ウィルがうなずいた。
「オレもお前も怪我をしたが、シュデルはかすり傷ひとつしていない。仮面と人形達に助けられて、優雅に桃海亭に御帰還さ」
「怪我?どこを怪我したんだ?」
「ほら、ここだよ、ここ」
ウィルの右耳の先端がわずかに赤い。
「避けきれなくて、かすったんだよ」
唯一動かせる左手で、枕元のリンゴを力一杯投げつけた。
上司のガガさんが持ってきてくれた見舞いの品だ。
「おっと!」
受け止めると、すぐにガリッと齧った。
「いちおう……報告……しておこうと思って…」
「食ってから言え」
「わか……った」
シャクシャクと素早く齧り終えると、椅子を持ってきて座った。
「人形屋敷の3分の2が吹っ飛んだ。結界も目隠し魔法も綺麗さっぱりなくなった。ハッチフルさんは残った金をかき集めて、屋敷を取り壊すそうだ。ニダウの町には影響はなかったから安心しろ」
ガガさんから賠償の心配はないと聞かされていたが、詳細な説明を聞かされて安心した。
「古びた人形だが、シュデルに命じられて仮面が持ち出して無事だった。黒いモヤモヤはハッチフルさんがエリザベスに頼んでかけた保護魔法だったようだ。人形を万全の状態で維持しておきたかったそうだ。魔法協会のサイコメトラーが人形をスキャンして、持ち主の女の子の故郷を突き止めた。南の小さな島だった。疫病で人手が足りなくなって子供の誘拐を実行したらしい。7人とも大切に育てられて、全員結婚して子供がいるそうだ。今度、実の親に会いに来るそうだ」
「よかったな」
「ハッチフルさんも喜んでいた。あの人形以外に手がかりがなかったから、わからなかったらどうしようと悩んでいたみたいだ。それと人形の持ち主の女の子、もう40歳を過ぎているそうだが元気だそうだ。エリザベスに屋敷から放り出された時、自分の人形を持っていないことに気が付いたそうだ。あの人形の体にハンカチが巻いてあったのを覚えているか?あのハンカチは大好きだったお祖母さんの形見だそうだ。どうしても取り戻したくて警備隊に行ったそうだ。30年ぶりに戻ってきて喜んでいたそうだ」
「30年か。長かったな」
「そういえば、オレの推理が1カ所間違っていた。男が死んでいたよな。あれは事故だったそうだ。自分で足を滑らせて落ちたんだと。そそっかしい奴もいるもんだ」
「そそっかしいのはお前だろ。階段から落ちたなら最初に事故死を考えるの普通だろ。それを子供が犯人なんて、なんで考えたんだよ」
「ハッチフルさんが脅えていたから、何かを隠していると思ったんだよ。まさか、脅えていた理由が死体じゃなくて、もうひとりの登場人物だとは思わなかった」
もうひとりの登場人物。
「エリザベスはどうなった?」
「いなくなった」
「消滅していないのか?」
「ムーにポケットの護符について聞いたんだが記憶になかった。だから、あのとき発動した魔法が何かわからないんだ。消滅したのか、逃げただけなのか」
「おい、悪魔だぞ」
「悪魔だと問題があるのか?」
説明しようと思ってやめた。
「シュデルに聞け」
「シュデル………シュデルに何か頼まれたような。そうだ、シュデルと一緒にハッチフルさんの入った人形と5体の魔道人形が桃海亭に来たんだ」
「また、非売品が増えたのか」
「いや、ハッチフルさんはあの世に行くことをのぞんでいるから、数日中に教会行きだ。残りの5体のうち1体は力が強いから非売品。残りの4体は売ってもいいと魔法協会から許しが出た。4体ともいっぱい遊んでくれる女の子がいる家を望んでいるんだ。心当たりがあったらシュデルに教えてやってくれ」
「わかった」
「あとは…」
「まだあるのか?」
「アーロン隊長とアレン皇太子の説教が残っているんだ。これについては、お前も一緒だそうだ」
「オレも!?」
「オレをとめられなかった責任があるそうだ」
「なんだよ、それ!」
「怒られる理由なんてないはずなんだけどな。オレは巻き込まれただけで、何もしていないんだから」
ウィルの言う通りだ。
今回、ブレッドは一緒に行動していたからわかる。ウィルの行動には何の落ち度もなかった。
問題は別のところにある。
「退院したら焼きソーセージとズボン。忘れないでくれよ」
笑顔でウィルが言った。
「わかった」
「ありがとな」
うれしそうな顔で見舞いのリンゴをもう1個手に取った。すぐに齧りはじめる。
「ウィル、よーーーく聞け」
「なんだ?」
「ソーセージとズボンは買ってやる。だから、それ以降は…」
ブレッドは息を吸い込んだ。
折れた肋骨が痛むだろうが、そんなことは構わない。
これだけはウィルに言っておかなければならない。
息を吐き出しながら、大声で叫んだ。
「絶対にオレに近寄るなーーー!」
【不幸を呼ぶ体質】
ウィルには二度と関わらないと、固く誓ったブレッドだった。