考え方
全ては結局、自分の考え方次第である。
たとえば、明日を迎えるのが怖かったとしよう。
では、なぜ怖いと思うのか?
「何があるかわからないから」
それは、実に根本的な不安で、しかし不安なことがあるとは決して限らないのだ。
「嫌な先生かもしれない」
良い先生かもしれない。
「怖いことが起こるかもしれない」
しかし今この瞬間に、その答えは出ない。明日何が起こるかなど、結局は分からないのだ。
楽しいことばかりかもしれないわけだ。
ずっと笑顔でいられる一日だったら? 面白い先生だったら? 好きな先生と話が出来るかもしれない? 友達と楽しく笑いあって過ごせる一日かもしれない!
正しくは、おそらくこう考えるべきだと、僕は学んだ。
明日はきっと、楽しい一日だ! 楽しくないはずが無い!
なにせ、未来の日々は今の自分の考え、思考が形作るのだから。
不安なのは、見えないものを見ようとするからだ。
厳密に言うと、明日を得体のしれないものと考えるからだ。
人間は、自分が知らない、理解できない、想像の及ばないものに恐怖する。
であるならば、未来を恐れるのは当然の考えで、そして一番正しくない考え方だ。
僕たちは結局、今の、この瞬間にしか生きていない。
過去も未来もありえない。そこに自分は生きてはいないのだ。
過去は思い出として過ぎ去ったことであり、未来はまだ行き着いていない。
ならば、そのどちらも、恐るるに足らず。
やってこなければ幸か不幸かも分からないものに、恐怖をするなど、なんて無駄なこと。
そんなことより、今こそ笑い、明日は楽しいに決まっている! と言い切ったほうが、よほど精神に優しいと言うものだ。
胸が不安で押しつぶされそうになるなら、それは自分を、あるいは神を信じていないから。
運命、あるいは人生そのもの、もしくは世界、宇宙……そう言い換えてもいいかもしれない。それがより、自らの認識に当てはまるなら。
恐れることは無い。
笑顔でいる人を、優しい瞳で見られる人を、僕は決して否定しない。
ならば、それでいいじゃないか。
自分が否定しない人に自分がなって明日を進むなら、誰にだって否定など出来ない。
自分が肯定するものを、楽しいと思えるものを、素晴らしいと思えるものを、何よりも愛しいと思えるものを、ただただ好しとしろ。良しとしろ。善しとしろ。
自らを肯定して、納得して、受け入れて、初めて道がひらけるなら。
『性格を変える』なんて言い張らずとも、自分を愛せるなら。
きっと、もっと人に優しくできる。
もっと人を、笑顔に出来る。
もっと誰かを好きになって、そして皆を愛せるのだ。
人類全てを愛するなんて、そんな大それたことは告げなくて良い。
みんな特別で、自分も特別だ。
自分を愛せるなら、世界だって愛せるさ。
ここにきて、ようやく。
こんなビッグなプロジェクトを立てなくても、きっと僕は僕でいられたと、そしてその僕こそが、“好い人”であるのだと、そういうことが掴めて来た。
今一度考えようか。
考えるべきか。
“好い人”の定義を。




