カミングアウト…?
──あなたさえいなければ…。
それが初めて聞いた声だった。──
まだ6月もはじまったばかりだというのに、湿気を孕んだ重たい暑さと、じりじりと肌を焼くような日差しが降り注ぐ。こんな日は、まるで蛙の大合唱のように、街が同じ声で溢れかえる。
──暑い。
「暑いよな。」
その周りの声に同調するように、優汰はそっと呟いた。
「ん、なんか言ったか。」
隣を歩いていた颯が優汰の方に顔を向ける。
「いや、暑いなって思ってさ。」
だよな、俺も思ってたんだ、なんて言いながら、颯は顔をしかめた。講義を終えた2人は少し時間を潰してから、晩飯でも食べて帰ろうと街へ来ている。
大学からアーケードまで、バイクで約15分。初めこそ躊躇ったものの、最近では颯のバイクに乗せてもらうのが当たり前になっている。
「あれ、颯じゃない。」
アーケードを歩く2人とすれ違った女がふいに問いかけた。
「おう、久しぶりだな。」
颯は慣れた仕草で、片手を挙げた。
その先には、明るいブラウンの長髪、黒で縁取られた目元、腕や肩、脚など露出の多い服に身を包んだ女の人が微笑んでいる。彼女が、ちらりと優汰に目を向ける。
──地味な子。
一瞬だったが、それが優汰に対する印象だった。
彼女はすぐに颯に視線を戻し、嬉しそうに話しかけている。
彼女の言葉はもっともで、優汰は黒い短髪、少しよれたTシャツにジーンズ。お世辞にもファッションに気を遣っているとは言い難い格好をしている。対して颯は、とても目立つ外見の持ち主だった。金の長めの髪、派手なタンクトップの上には白シャツを羽織っている。さらに、大きめのジーンズは、明らかに腰ではない位置でなんとか留まっていた。
「あ、こいつ、優汰。」
不意に肩を叩かれた優汰は、邪魔をしないようにとぼんやり辺りを眺めていた視線を2人に戻した。
「はじめまして。」
「よろしく。」
軽く目を向け、言葉だけの挨拶をすませた彼女は、颯に訊ねた。
「2人ってタメなの。」
「あぁ、こいつは大学に入って最初にできたツレで、それからよく一緒にいるんだ。」
な、といって肩を叩く颯に、優汰はあぁ、と短く答えて彼女に軽く会釈した。
「ちなみに歳は俺の2つ下。」
「ふぅん、20歳か。颯と付き合うの、疲れるでしょ。颯より真面目で落ち着いてるっぽいし。」
──こんな話しにくそうな子と一緒なんて、颯、疲れないのかな。
鼓膜を震わす言葉と同時に、頭に直接響く彼女の本音。
「まぁ…」
優汰は耳に届いた声に、困ったような表情を作り、曖昧に答えた。
「ちょ、どういう意味だよ。」
2人のやりとりに、すかさず怒ったフリをして詰め寄る颯を、まぁまぁと言いながら宥めると、お前も否定しろよなと肩口を軽く拳で小突かれた。
そんな2人を見て笑っていた彼女の心の声が、優汰の頭の中で何度も響く。
──颯と2人きりになりたい。
優汰は目だけをちらりと動かし、腕時計を確認した。ちょうど6時を回っていたので、邪魔者は退散しようと口を開いた。
「あのさ、実は俺…」
「悪い、そろそろ行くわ。」
優汰の考えを読んだかのように、颯は彼女にまたなと笑顔を向けると、すたすたと歩き出してしまった。颯を追いながら、優汰は彼女に軽く頭を下げると、彼女は笑顔を向けてくれたものの、その瞳にはどこか淋しそうな光を宿していた。
彼女と慌ただしく別れた後、2人は大通りから少し外れた小さい居酒屋に入り、ボックス席に座る。
この店は、初めて2人で飯を食おうと街に出てきた時に偶然見つけてから、2人の馴染みの店になっていた。あまり綺麗とは言えないが、広すぎない店内に、2人はお互いに懐かしさと居心地の良さを感じている。席はカウンターに8席、ボックス席が3つで、優汰たちの他には、カウンターに3人いるだけだった。
「おい、優汰。いい加減やめろよな。」
席に着くなり、少し不機嫌な声で颯は優汰を非難した。優汰は目の前に置かれたお手拭で手を拭きながら颯にちらりと視線を投げる。
「何のことだよ。」
「とぼけんな。またあいつと俺を2人にして、帰ろうとしただろ。」
颯はモテる。そのため、先ほどのような状況になるのはよくあることだった。颯が彼女たちに特別な感情を抱いていないことは重々承知だが、彼女たちはそれを知らない。ひどい時には空気を読めだの、邪魔だから早く帰れだのと優汰の頭に囁きかけてくる。最初は自分が居たたまれなくて、その声から逃げたい一心で始めたことだった。しかし、毎回颯に先手を打たれて失敗する内に、最近ではなんとか振り向いてもらおうと頑張る彼女たちが報われてほしいと思うようになっていた。
「…わかったよ。もうしない。」
「今度こそ絶対だからな。」
「わかったわかった。それにしても、なんでそんな嫌がるんだよ。お前、合コン好きだろ。」
「みんなで遊ぶのはいいんだよ。けど、女と2人きりで飯食うのだけはごめんだね。」
「でも、どうせお前のことだから気付いてんだろ、彼女の気持ち。」
「…俺なんかのこと好きになる奴の気がしれないね。」
颯は自嘲気味に呟くと、何か頼もうぜ、と店員を呼んだ。
颯は出逢った時から、バカでまっすぐで誰に対してもオープンだった。しかし、一緒にいる時間が増えるにつれて、颯の瞳には時々悲しい光が宿ることに優汰は気付いた。その光が宿りかけると、本人が話題を打ち切るか、優汰が話を変える。そんなことを繰り返している内に、いつの間にかそれが2人のルールになっていた。また、優汰が初対面の女にも関わらず、颯のことを好きだと見抜いてしまうことを、颯が一度も追及したことはなく、いつの間にか当たり前のこととして受け入れられていた。
周りから見ると、ほぼ対極にある優汰と颯が引き合ったのは、お互いに侵してはならない領域を何も言わなくても守りあえるからなのだろう。
さっさと注文を終えた颯の瞳の中には、先ほど宿りかけた光は微塵も残っていなかった。それを確認してから、優汰は颯に話しかけた。
「そういえばさ、お前ってほんと鋭いよな。」
「なんだよ、いきなりだな。」
「いや、いつも思ってたよ。俺が帰ろうとするの、なんで毎回気付くんだろうってさ。」
「…お前、誰にも言うなよ。」
軽い気持ちで話していた優汰に、颯は少し声のトーンを落として顔を寄せてきた。ただならぬ雰囲気にのまれ、優汰も颯に倣って顔を寄せた。
「実はさ、俺、人の心が読めるんだ。」
優汰は驚きのあまり呼吸を忘れそうになった。大きく見開かれた瞳は、真剣な顔の颯を映していた。