ぶつかり大羽さん
## 第一章 新宿のぶつかりおばさん
大羽真砂は、人に道を譲るのが嫌いだった。
新宿駅の朝八時。人の流れは濁流に似ている。ほんの少し肩を引けば、誰ともぶつからずに済む。それは真砂にも分かっていた。それでも正面から人が来ると、なぜか肩に力が入った。
向こうが避ければいい。
そう思って歩き続ける。相手も避けなければ、肩と肩が鈍い音を立てる。舌打ちされても振り返らなかった。
数週間前、その様子を撮影した動画がSNSに投稿された。
『新宿駅のぶつかりおばさん、今日もいた』
コメント欄では、真砂の歩き方や服装まで面白おかしく論評されていた。会社でも動画を見たらしい同僚が遠巻きにこちらを見るようになったが、真砂は知らないふりをした。
三十五歳。都内の会社で事務職。独身。これといった趣味もない。
少なくとも、周囲にはそう見えている。
その夜も残業を終え、新宿駅を歩いていた。人の少なくなったホームへ続く階段の前で、真砂はふいに足を止めた。
誰かが背後にいる。
振り向いた瞬間、口元を布で覆われた。
次に目を開けたとき、真砂は新宿駅のホームに寝かされていた。
「……何、これ」
身体を起こして、最初に気づいた。
ホームドアがない。
いつも線路との間を隔てていた壁が、跡形もなく撤去されている。むき出しになった線路の向こうには、同じように呆然と立つ人々がいた。年齢も服装もばらばらだったが、男女合わせて六十四人いるらしい。
突然、風が吹いた。
直後、特急列車が凄まじい轟音を立ててホームを通過した。真砂は反射的に一歩下がった。ほんの数メートル先を、銀色の車体が残像になって駆け抜けていった。
「おい! なんだよ、これ!」
中年男が叫んだ。
ホームの電光掲示板が一斉に消えた。
代わって、白い文字が浮かび上がる。
《第一回 全国ぶつかり選手権》
「は?」
真砂が呟くと、駅の案内モニターに黒い仮面をつけた男が映った。
「皆様には日頃より、駅、繁華街、商業施設等において、多数の方々へ積極的なぶつかり行為を行っていただいております」
ざわめきが止まった。
「全国から選りすぐりました、ぶつかりおじさん、そして、ぶつかりおばさんの皆様。今夜、その頂点を決定いたします」
真砂の背筋が冷えた。
自分がここにいる理由を、理解してしまった。
## 第二章 全国ぶつかり選手権
ルールは、あまりにも単純だった。
二人ずつホームへ残される。武器は禁止。第三者の介入も禁止。相手を線路へ落とした者が勝者となり、次の試合へ進む。
「落ちたらどうなるんだよ」
誰かが訊いた。
仮面の男は穏やかに答えた。
「ご覧いただくのが早いでしょう」
第一試合に選ばれたのは、五十代ほどの男と、小柄な中年女性だった。二人とも泣きながら拒んだが、ホームの両端から黒服が現れ、逃げ道を塞いだ。
開始を告げる電子音が鳴る。
二人はしばらく動かなかった。
先に動いたのは男だった。
「悪い! 悪い!」
そう叫びながら女性へ突進した。女性は腕を突き出して耐えたが、体格差は明らかだった。何度も押され、靴の踵が黄色い点字ブロックを踏む。
「やめて! 待って!」
「俺だって死にたくねえんだよ!」
最後の一押しで、女性の身体がホームから消えた。
数秒後、警笛が響いた。
真砂は目を閉じた。
轟音が通過し、風が髪を巻き上げた。列車が去ったあと、ホームに戻された男は膝から崩れ落ちた。
「第一試合、勝者決定」
仮面の男の声だけが平然としていた。
「六十四名によるトーナメントです。最後まで残った一名には、賞金三億円を贈呈いたします。そして我が国最強のぶつかり屋として、栄誉ある称号――」
電光掲示板に金色の文字が浮かんだ。
《ぶつかり王子さん》
何人かが乾いた笑いを漏らした。
「王子って。女もいるじゃん」
「どうせ最後は男だろ」
近くにいた男がそう言った。
真砂は反論しなかった。
そうだろうと思ったからだ。
自分は八十二キロある。女性としては大柄だし、昔は身体を鍛えていた。女相手なら、まだ生き残れるかもしれない。
でも、男に当たったら終わる。
当然のことだった。
「三億か」
真砂は小さく呟いた。
三億円あれば、会社を辞められる。あの動画のことも、毎朝の新宿駅も、全部捨てられる。
勝てるところまで勝つ。
それでいい。
それ以上を考える必要はない。
## 第三章 身体が覚えている
真砂の第一試合の相手は、四十代の女性だった。
開始と同時に相手が肩から突っ込んできた。真砂は反射的に腰を落とした。受け止める。腕を差し込み、相手の身体を起こす。自分でも考えるより先に足が動いていた。
「えっ」
相手が声を上げた。
真砂は身体をひねった。
女性は勢いのまま横へ流され、ホームから転落した。
警笛。
真砂は動けなかった。
十三年ぶりだった。
相手の重さが腕へ伝わってくる感覚。腰を落としたときの床とのつながり。相手の身体が浮く一瞬を待つ感覚。
昔と同じだった。
「あなた、経験者?」
待機場所へ戻った真砂に声をかけてきたのは、朝倉美月という二十九歳の女だった。身長は百五十五センチほどしかない。
「何の」
「相撲」
真砂は眉を寄せた。
「違うよ」
「今の、完全に相撲じゃん」
「昔ちょっとやってただけ」
「私も女子相撲やってた」
美月は嬉しそうに言った。
真砂はそれ以上話したくなかった。
二回戦、三回戦と進むにつれて、ホームには人が減っていった。
大柄な男が小柄な男に落とされる試合もあった。真正面から押し続けた男が、寸前でかわされ、自分から線路へ飛び出すように転落したのだ。
女が男を倒す試合も一つあった。
ただし真砂は、それを例外だと思った。
「運がよかっただけ」
美月にそう言うと、彼女は顔をしかめた。
「なんでそう決めるの?」
「身体見れば分かるでしょ。男のほうが強いよ」
「平均ではね」
「平均とかじゃなくて現実の話」
「だから現実の相手を見なよ」
美月はホームの向こうにいる参加者を指した。
「性別じゃなくて、あの人自身を見るの」
真砂は返事をしなかった。
昔、自分も似たようなことを言っていた気がした。
## 第四章 女だから
残り十六人になったとき、美月の相手が発表された。
轟大吾。
四十二歳。身長百九十二センチ。体重百二十キロを超える巨漢だった。
「うわ」
美月は名前を見て、それでも笑った。
「でかいなあ」
「無理だよ」
真砂は即座に言った。
「え?」
「あれとまともにぶつかったら駄目。絶対、正面から行かないで」
轟は向こうのホームで軽く足を引きずっていた。
美月はじっとその姿を見た。
「右へ崩せると思う」
「やめなって」
「右膝、悪そうじゃない?」
「そんなの関係ないよ。体重差何キロあると思ってるの」
美月が黙った。
真砂は畳みかけるように言った。
「できるだけ逃げて。あいつが疲れるまで近づかないで。女があんなのとまともにやったら殺される」
美月はしばらく真砂を見つめていた。
「真砂さんが、そう言うなら」
試合が始まった。
美月は逃げた。
轟が前へ出れば横へかわし、距離を取る。何度か轟の身体が傾いた。右足が追いつかず、上半身だけが前へ流れる瞬間もあった。
そのたびに、美月は踏み込もうとして――やめた。
轟が追う。
美月が下がる。
ホームの残り幅が減っていく。
「美月!」
真砂は叫んだ。
もう逃げる場所がなかった。
最後に轟が前へ出た。
美月は両腕で受けたが、身体ごと押し込まれた。
靴がホームを離れる。
落ちながら、美月は真砂を見た。
「私が女だったから負けたことにしないで」
それが最後だった。
列車が通過した。
轟が戻ってきたとき、真砂はその右脚を見た。
明らかに引きずっている。
次の試合で轟が横へ振られた瞬間、右膝が崩れた。相手があと半歩踏み込めていれば、そのまま転落していただろう。
真砂の耳に、美月の声が戻ってきた。
右へ崩せると思う。
真砂は俯いた。
美月は相手を見ていた。
自分は、女を見ていた。
## 第五章 相手を見る
それから真砂は、参加者の性別を数えるのをやめた。
足を見る。腰を見る。肩を見る。呼吸を見る。
次の相手は男だった。真砂より背が高く、腕も太い。しかし開始前から右肩だけが上がっていた。突進を受けた瞬間、真砂はそちら側へ身体を開いた。
男は崩れた。
次の相手は大柄な女だった。力なら真砂とほとんど変わらない。だが恐怖で足が固まり、押されるたびに上半身だけで抵抗していた。
真砂は低く入った。
相手が浮いた。
性別は、消えなかった。
ただ、順番が変わった。
以前は「男だから」「女だから」を最初に見ていた。今はその人の身体を見たあとで、必要なら性別も体格も材料の一つとして考えた。
準決勝を終え、ホームに残ったのは二人になった。
大羽真砂。
そして、轟大吾。
轟は真砂を見ると、疲れた顔で笑った。
「まさか、あんたと最後になるとはな」
「私も」
「女だからって手加減はしないぞ」
真砂は一瞬、何も言えなかった。
「ここまで残った相手に、それやったら失礼だろ」
十三年前、何度願っただろう。
男と同じ場所に立ってみたかった。
勝てると言ってほしかったわけではない。
手加減してほしかったわけでもない。
ただ、本気でぶつかってみたかった。
「うん」
真砂は腰を落とした。
「それでいい」
## 第六章 最後の一歩
開始音と同時に、轟が来た。
重い。
真砂の靴底がホームを滑った。
一歩。
二歩。
押し返そうとしても、轟の身体は壁のように動かない。
「くっ……!」
さらに一歩。
背後で警笛が鳴った。
黄色い線まで、もうほとんど距離がない。
やっぱり無理なのか。
その言葉が浮かんだ。
女が男に。
八十二キロが百二十キロに。
勝てるわけがない。
十三年間、自分を守ってくれた言葉だった。挑戦しなければ、負けなくて済む。土俵に立たなければ、自分の弱さを証明せずに済む。
轟がさらに踏み込んだ。
その瞬間、真砂は気づいた。
右膝。
轟は最後まで、右足を深く踏み込めない。
力で返す必要はない。
真砂は押すのをやめた。
「なっ」
轟の身体が一瞬、前へ泳いだ。
真砂は半歩だけ身体を開き、腕を入れ替えた。腰を落とし、轟の前進する力を止めず、そのまま横へ流す。
身体が覚えていた。
二十二歳で捨てたはずのものを、三十五歳の身体が覚えていた。
轟の巨体が傾いた。
「おおおっ!」
轟が耐える。
真砂も耐える。
ほんの一瞬だった。
真砂は足を踏み込み、腰を切った。
轟の身体が浮いた。
次の瞬間、巨体はホームの外へ消えた。
真砂はその場に膝をついた。
列車の警笛が響く。
轟は線路の上から真砂を見上げていた。
不思議なことに、笑っていた。
「強えじゃねえか」
列車が二人の間を横切った。
轟はいなくなった。
真砂だけが残った。
## 第七章 ぶつかり大羽さん
ホームが静かになった。
六十四人いた参加者は、一人になっていた。
仮面の主催者が、初めてモニターではなくホームへ姿を現した。その後ろを黒服の係員が歩き、銀色のケースを運んでくる。
「おめでとうございます、大羽真砂様」
ケースが開かれた。
賞金三億円の目録。
そして、金色のプレート。
《初代 ぶつかり王子さん》
「あなたが、日本最強のぶつかり屋――初代ぶつかり王子さんです」
真砂はプレートを見た。
不思議だった。
三億円が欲しくて生き残ったはずなのに、胸は少しも躍らなかった。
「違います」
主催者が首を傾げた。
「何がでしょう」
「私は、ぶつかり王子さんではありません」
真砂は自分の胸に手を置いた。
「大羽真砂です」
「存じておりますが」
真砂は少し笑った。
「私はぶつかり王子さんではありません。ぶつかり大羽さんです」
主催者の動きが止まった。
「……大羽さん?」
「王子さんって、最初から男が勝つつもりで付けた名前でしょう」
返事はなかった。
真砂は金色のプレートを裏返した。
「女が勝ったら、女のほうが名前からはみ出す。おかしいじゃないですか」
「しかし、これは大会創設時から決定していた名称で――」
「じゃあ変えてください」
真砂は三億円の目録までケースへ戻した。
「賞金もいりません」
さすがに主催者の声が揺れた。
「三億円ですよ?」
「いりません。その代わり、一つだけ」
真砂はホームの電光掲示板を指さした。
そこには今も、
《優勝者に与えられる称号 ぶつかり王子さん》
と表示されていた。
「次に誰が勝っても、勝った人のほうがおかしいことにならない名前にしてください」
主催者はしばらく黙っていた。
やがて、黒服の一人へ合図した。
電光掲示板が暗くなる。
《ぶつかり王子さん》
その文字が消えた。
数秒後、新しい文字が浮かび上がった。
《ぶつかり王者さん》
真砂はそれを見上げた。
「これならいいです」
「お気に召しましたか」
「まあ」
主催者は笑った。
「では最後に、優勝者だけへお教えしましょう。この大会が何だったのかを」
「何だったのか?」
「押す。突く。組む。投げる。そして、相手を境界の外へ出した者が勝つ」
真砂は黙った。
「日本人は、ずっと昔からこの勝負を知っています。今夜は円の代わりにホームを使い、俵の代わりに黄色い線を使った。それだけです」
真砂は足元を見た。
押した。
突いた。
組んだ。
投げた。
そして最後は、相手を外へ出した。
「……相撲」
「正解です」
真砂はしばらく何も言わなかった。
十三年前、自分から降りた場所だった。
女だから仕方がないと思っていた場所だった。
今夜、自分はそこへ戻っていた。
しかも最後まで立っていた。
ホームの端に、閉ざされていた階段への扉が開いた。
真砂はそこへ向かって歩き出した。
途中、向こうから黒服の係員が一人歩いてきた。真っ直ぐこちらへ来る。
真砂の肩が、いつもの癖でわずかに固まった。
けれど、すぐに力を抜いた。
半歩だけ横へずれる。
相手も半歩ずれた。
二人は触れることなく、すれ違った。
真砂は振り返らなかった。
背後の電光掲示板には、新しい文字が光っていた。
《初代 ぶつかり王者さん 大羽真砂》




