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 午前2時14分。オフィスのフロアを支配しているのは、数十台のサーバーラックが吐き出す低い排気音と、僕が叩くキーボードの乾いた打鍵音だけだった。窓の外、深夜の西新宿は、眠りを知らない高層ビルの明かりが冷たく瞬いている。その光の一つ一つに、僕と同じように魂を削って働く誰かがいるのだろう。そう思うと、連帯感よりもむしろ、吐き気を催すような閉塞感に襲われた。

「……はあ、またかよ」

 モニターに赤い文字のエラーログが走り、僕は思わず毒づいた。28歳、佐藤健人。IT下請け会社のシステムエンジニア。と言えば聞こえはいいが、実態は上流工程の設計ミスを現場の徹夜で埋め合わせるだけの、使い捨ての部品だ。3日連続の徹夜。目の奥は焼けるように熱く、視界の端には時折、存在しない黒い虫のような影が走る。

「佐藤さん、まだ終わらないんですか……」

 隣のデスクで、同じく徹夜中の同僚が力なく呟く。彼は1時間前から、椅子の背もたれに首を預けたまま動いていない。 「あと一息だ。……ビルドが通れば、だけどな」  僕は嘘をついた。本当は、どこを直せば正解なのか、もう僕自身にも分かっていなかった。

 プログラムの実行を待つ数分間。この時間が、僕にとって唯一、人間に戻れる時間だった。僕は仕事用ツールの影に隠すようにして開いていた、ブラウザのタブをアクティブにした。大手掲示板『2ちゃんねる』のまとめサイト。殺伐としたコードの世界から、名もなき群衆が垂れ流す毒にも薬にもならない空想の世界へ切り替わる瞬間だけが、今の僕の「唯一の心の癒やし」だった。


『【急募】一万円で売ってたらギリギリ買う能力』

 そのスレッドのタイトルに、吸い寄せられるようにクリックした。

画面をスクロールしていくと、匿名たちの欲望が、絶妙に安っぽい具体例となって並んでいた。

《お風呂の温度が適温かどうか、触れる前に確信できる能力》 《どんなに汚い字で書いても、AIがギリギリ誤読しない程度に補正される能力》 《ポテトチップスの袋を、必ず一発で綺麗に開けられる能力》 《公共のトイレに入った際、必ず一番綺麗な個室がどれか直感でわかる能力》

「1万円か。……絶妙だな」

 今の僕にとって、1万円という金額は、その金額は一週間分の食費であり、唯一の趣味であるVtuber・ミコちゃんの配信に投げるスパチャの軍資金だ。その「小さな快適」に対して、僕らのような庶民がギリギリ財布の紐を緩めてしまう、悪魔的な境界線だった。

 捨てるには惜しいが、もし本当にそんな力があるなら、つい手を伸ばしてしまう絶妙なライン。  画面をスクロールしていくと、一つの書き込みに目が止まった。

>>45:名無しさん 『電車で寝たら、降りる駅の一つ前で必ず目が覚める能力』はどう?

 その一行を読んだ瞬間、心臓が不自然な鼓動を刻んだ。脳裏に、一昨日の夜の光景が鮮明に蘇る。疲れ果てて乗り込んだ終電。座った瞬間に意識を失い、目覚めたときには見知らぬ終着駅。冷たい夜風が吹くロータリーで絶望し、震える手で2万2千円を払ってタクシーを拾ったあの惨めさ。もし、あの時一駅前で起きられていたら。タクシー代の2万2千円があれば、もっとまともな飯が食えたのに。せめて三時間は布団で眠れたのに。

「一万円……? ふざけんなよ」

 僕は自嘲気味に笑い、キーボードを叩いた。

>>108:名無しさん >>45 それ、一〇〇万でも、二〇〇万でも買うわ。今すぐ売ってくれ。

 エンターキーを強く叩く。カチッ、という乾いた音がフロアに響いた直後、モニターが古いテレビの砂嵐のようなノイズで埋め尽くされた。スピーカーからは、耳の奥を掻きむしるような「ジジジッ……」という電子音が漏れ出す。 モニターの真っ黒な画面に、僕の顔が鏡のように映し出された。 いや、僕だけじゃない。僕の背後に、誰かが立っていた。

 そいつの顔は、激しいデジタルモザイクで塗りつぶされていた。ノイズの塊のような人影が、僕の肩越しに画面を覗き込んでいる。声は、脳髄を直接、爪で引っ掻くような音となって響いた。

『取引成立だ。佐藤健人。君の全財産と引き換えに、「降りる()()駅の一つ前で起きる能力」を譲渡する』

 恐怖よりも、3日間の徹夜が僕から正常な判断力を奪っていた。 「……ああ。買うよ。200万でも。……この地獄を終わりにできるならな」

 パチン、と指を鳴らすような音がして、視界は元の掲示板画面に戻った。隣の同僚はまだ寝ている。フロアの静寂も、何一つ変わっていない。「……幻覚、か」僕は大きく溜息をつき、背もたれに体重を預けた。

 

 翌昼、泥のような眠りから覚め、僕は真っ先にスマホを手に取った。推しのVtuber・ミコちゃんのゲリラ配信。三日間の地獄を耐えた自分へのご褒美に、一万円の赤スパチャを送ろうとした。だが。

『決済に失敗しました。残高を確認してください』

「え……?」

 震える手で銀行アプリを開く。そこにあるはずの「2,002,402円」という数字は、影も形もなかった。

【残高:2,402円】

 血の気が引く。午前三時十二分。あの「幻覚」を見ていた時刻に、ぴったり200万円の振込が行われていた。振込先は空白。備考欄には――『商品代:一つ前の駅』。 二〇〇万。

 三年の月日。 将来の安心のために、血を吐く思いで貯めてきた僕の「三年間の人生」が、掲示板の書き込み一つで跡形もなく消えた。

 絶望する僕のスマホに、上司からのチャットが届く。 『佐藤、今日の客先打ち合わせに来い。渋谷に14時。遅れるなよ』


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