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しいたけと本

作者: 蓮実 真珠
掲載日:2026/06/01


 金曜日の夕方になると、書店の空気は少しだけ変わる。


 仕事終わりの人々が増え始め、静かだった店内に、外気の冷たさや湿ったコートの匂いが流れ込んでくる頃になると、本國 心陽(もとくに こはる)は決まって文芸書の平台を整えながら、無意識に入口へ視線を向けていた。


 べつに、待っているわけじゃない。


 それでも、十八時を少し過ぎたあたりで自動ドアが開き、あの人影が店内へ入ってくると「あぁ、来たんだ」と胸の奥が静かに落ち着くのだから、人間の習慣というものは不思議だと心陽は思う。


 常連さんは、いつも一人だった。


 年齢は三〇代前半だろうか。背が高く、痩せすぎてもいないのに、どこか輪郭だけが薄いような印象を受ける男性で、黒や紺の落ち着いた服ばかり着ているせいか、広い店内でも妙に目についた。けれど本人は他人の目に映ることを嫌っているようで、入店しても周囲を見回すことはなく、迷わず自然科学の棚へ向かっていく。


 そして毎回、キノコの本を買っていく。


 最初に気づいたのは、たしか肌寒くなり始めた去年の秋頃だった。

 隅に追いやられていた『魅惑のキノコ図鑑』を手に取っている姿が、なぜだか印象に残ったのだ。表紙いっぱいに鮮やかな菌類の写真が載った大型本を、常連さんはまるで壊れ物でも扱うように抱えてレジへ持ってきた。


 その次の週は、『キノコと共に生きる』。

 さらに翌週は、『キノコは人生を豊かにする』。

 そしてその次は、『なんて素敵な、キ・ノ・コ』。

 あとは……確か『キノコを愛するということ』『世界一美しいキノコ』だったか。


 それから先は、もう数えきれなかった。


 図鑑、写真集、栽培本、随筆。専門書かと思えば『魔法少女キノ子』などという、子ども向けの絵本を買っていくこともある。


 ここまで一つのものばかりを買っていく客は珍しい。


 同僚が「あ、キノコくん、また来てるよ」と小声で笑っているのを聞いたこともあったが、心陽はなんとなく、その輪に混ざる気にはなれなかった。


 むしろ彼女には、その人が本を選ぶ姿が少し気になっていた。

 ただ単純に、好きなものを探す人間の目ではない、と感じていたからだ。

 もちろんキノコは好きなのだろう。けれど、棚の前に立つ横顔には熱中している人間特有の明るさがなかった。


 それでもある日、レジで思わず言葉が口をついて出た。


「キノコ、お好きなんですね」


 常連さんは一瞬だけ目を瞬かせたあと、静かに視線を落とした。


「……まあ、そうですね」


 と、バーコードを読み取る音と重なって、低く穏やかな声がポツリと聞こえた。


 会話はそれで終わったが、その短い返答が何故だか心陽の中に残った。

 曖昧な返し方だったからかもしれない、と後になって思う。


 好きなのかと尋ねられて「そうですね」と答えながら、その人は少し困ったように笑っていた。自分でも考え過ぎだと思うが、どうしてもあれは単純な肯定ではなかった気がしてしまう。


 けれど、そこから先へ踏み込むほど親しいわけでもない。


 客と店員。


 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 だから心陽は、それ以上は聞かなかったし、聞いてはいけない気もしていた。

 

 けれど、毎週金曜日になると、自然とその姿を探してしまう。

 接客業をしていれば、常連客の顔を覚えることは珍しくない。けれど彼の場合は、もう少し違っていた。


 いると安心するとは、こういうことなのだろうか。


 棚を見て、静かに本を選び、レジで小さく会釈をして帰っていく。その一定の流れが、いつしか金曜日の景色の一部に――もっと言うならば生活の一部になったかのように、すぅっと溶け込んでいる暖かみがある気さえした。


 だから、常連さんが来なくなった時、心陽は自分で思っている以上に落ち着かなったのだろう。


 最初の金曜日は、たまたまだと思った。

 雨も降っていたし、仕事が長引いているのかもしれない。そう考えて、いつも通り閉店作業をした。


 けれど次の週も、その次の週も、常連さんは現れなかった。


 気づけば二ヶ月が過ぎていた。


 自分でもおかしいと思うほど、心陽はそのことを引きずっていた。


 ただの客で、名前も仕事も知らない。年齢すら曖昧だ。

 なのに、金曜日の十八時を過ぎるたび、自動ドアの開く音に肩が反応する。

 そして別の客の姿を見るたびに、自分でも説明できない小さな落胆を覚えるのだ。


 ある日、閉店後の店内で平台を整えながら、心陽はふと、地元のことを思い出した。


 山ばかりの田舎だった。


 夜になれば街灯より虫の声のほうが大きくて、近所の人間は皆顔見知りで、スーパーへ行けば誰かしらに声をかけられるような暖かい土地だった。


 そこを出て、就職で都会に――東京に来たのだ。


 最初の頃は、人の多さにも、隣人とも距離感にも慣れなかった。

 誰も自分を知らないということが、ひどく心細かったのだ。


 だからなのかもしれない、と心陽は思う。


 毎週決まった時間にやって来る誰かの存在を、知らないうちに頼りにしていたのは。


* * *


 数ヶ月ぶりにその人を見つけたのは、駅裏の小さなカフェだった。


 休日の昼下がりで、窓際には柔らかな春の日差しが落ちていた。仕事前に少しだけ休もうと思って入った店だったが、注文を終えて振り向いた瞬間、奥の席に見覚えのある横顔を見つけ、心陽は思わず足を止めた。


 黒いシャツの袖をまくり、文庫本を片手にコーヒーを飲んでいる。


 以前より少しだけ顔色が良い気がした。


 けれど、声をかけるべきか迷った。


 客と店員としてならまだしも、店の外で話しかけるのは違う気がしたし、そもそも相手は自分を覚えていないかもしれない。


 しばらく迷って、それでも心陽は、結局その席へ歩いていった。


「あの……」


 常連さんが顔を上げる。

 そして数秒遅れて、その目に微かな驚きが浮かんだ。


「いつも、本屋に来てくださってた方ですよね」


 言いながら、自分でも妙な声のかけ方だと思った。

 もっと自然に言えなかったのか、と後悔したが、もう遅い。

 男はしばらく心陽を見つめていたが、やがて静かに「あぁ」と息を漏らした。


「店員さん」


 それだけで、少し安心する。

 覚えていてくれたらしい。

「……急にすみません」

「いえ」

 紡がれた言葉は短かったが、以前と同じ穏やかな声だった。

 けれど本屋で会う時より少しだけ柔らかい。


 常連さんは文庫本を閉じる。

 その本を軽く覗くと、タイトルは『足元を見ると、キノコがある幸せ』だった。

 心陽はそれに妙な安心感を覚える。


 迷った末、「隣、いいですか」と尋ねた。

 一瞬だけ間があった。

 断られるかもしれないと思った頃に、小さく「どうぞ」と返ってくる。


 向かいへ座ると、コーヒーの香りがふわりと漂った。

 沈黙が落ちる。

 店内には静かなピアノ曲が流れ、窓際の観葉植物が春風に揺れている。外では大学生らしい集団が笑いながら通り過ぎていった。

 常連さんは、その喧騒を眺めるように窓の外へ目を向け、それからぽつりと言った。


「最近、行けてなくてすみません」


 その言葉に、心陽は少し驚いた。

 まるで、自分が待たせていたみたいな言い方だったからだ。


「いや、そんな」

「毎週行ってたので、間が空くと……なんだか行きにくくなってしまって」


 その声には、自嘲に近いものが混じっていた。

 心陽はそこで初めて、この人は案外、周囲をよく見ているのかもしれないと思った。


「お仕事、忙しかったんですか?」

 

 探るつもりはなかったのだが、自然に口から出ていた。

 なにか、理由があって欲しいと思っていたのかもしれない。


 常連さんすぐには答えず、視線を店内に巡らせた。

 カップを持ち上げ、少し冷めたコーヒーを飲み、それからゆっくり視線を落とす。


「……仕事が決まったんです」


 短い言葉のあとに続く沈黙が、妙に長く感じられる。

 これ以上聞かない方がいいのだと分かって、心陽は「そうなんですね」とだけ返した。

 常連さんはその返答に、わずかに安堵したようだった。

 その表情を見て、心陽は少しだけ自分の胸の奥が痛むのを感じた。

 

 そしてすぐに、心の中で自分を責め立てる。

 この人のことを何も知らないのに、腫れ物のように思ってはいけない。


 常連さんはコーヒーカップをソーサーに戻す。

 ――カチャリ。

 その音が小さく空気に溶けていった。


 それからしばらく、とりとめのない話をした。

 といっても、会話と呼べるほど賑やかなものではない。


 心陽が「最近、新しいキノコの本が入荷したんですよ」と話せば、常連さん――鹿茸 陽凪(ろくじよう ひなぎ)は「じゃあ、また見に行きます」と静かに返してくれた。

 陽凪がテーブルの端に置いていた文庫本について「それ、映画化してましたよね」と心陽が言えば、「まだ観てないんです」と少し困ったように笑う。


 会話は短く、沈黙は長いけれど、その沈黙は不思議と息苦しくなかった。


 言葉が途切れるたび、カップとソーサーの触れ合う音や、エスプレッソマシンの蒸気音がゆっくり間を埋めていく。その静けさの中で、心陽は少しずつ気づき始めていた。


 この人はたぶん、話すことそのものが嫌いなのではない、と。

 それは仕事柄、なんとなく分かることだった。

 

 人にはそれぞれ、触れられたくない境界線がある。そして、鹿茸 陽凪という人は、その線をずっと内側に引いて生きている。


 だから心陽も、無理に近づこうとはしなかったが、知りたい気持ちはあった。


 どうしてあんなふうに、毎週決まった時間に店へ来ていたのか。

 そして何より、どうしてキノコの本ばかり買っていたのか――それが気になって仕方なかった。


 けれど、聞けば壊れてしまう気がした。


 まだ、そこまで踏み込める距離ではない、と自分の中で折り合いをつけていたのに、鹿茸さんはポツリと零すように一言。


「……しいたけって、育てたことありますか」


 不意に、そんなことを言った。

 心陽は目を瞬かせる。


「しいたけ、ですか……?」

「はい」


 陽凪はカップを見つめたまま、小さく笑った。


「変ですよね。急に」

「いえ、全然!育てたことはないです、しいたけ」

「意外と簡単なんです」


 その声は穏やかだったが、どこか慎重だった。

 まるで、長い間閉じたままにしていた扉を、少しだけ開けるような話し方だった。


「毎日少しずつ大きくなるんです。朝見ると、昨日より傘が開いてたりして。最初は、水をあげるだけでも面倒だったんですけど」


 そこで陽凪は、一度言葉を切った。

 窓際に置かれた観葉植物へ視線を向け、それからゆっくり息を吐く。


「……何もしてないと、一日が終わる感覚がなくなるんです」


 その言葉だけで、心陽は理解してしまった。

 この人は、長い間ひとりでいたのだ、と。

 

 鹿茸さんは淡々と続ける。

「あの頃、朝なのか夜なのかも、分からなくなって。気づいたら何日も誰とも話してない。そんなのが当たり前になってたんです」

 外の春光とは別世界のような声だった。

 暗い部屋の中で、時間だけが濁っていくような静けさが、心陽には見えたような気がした。

「でも、しいたけは毎日変わる」

 陽凪はそこで、ほんの少しだけ笑った。

「水をやらないと駄目になるし、逆に育ちすぎても駄目で……。ちゃんと見てないといけない」

 その表情を見て、心陽はふと、金曜日の本屋での姿を思い出していた。

 一冊一冊を確かめるように棚を見る横顔。

 あれは好きというより、もっと切実なものだったのかもしれない。


「……大事だったんですね」


 自然に口から零れたそれを、鹿茸さんは少し驚いたようで、ゆっくりと顔を上げる。

 心陽はそこで初めて、自分がかなり踏み込んだことを言ったのだと気づいた。

 慌てて誤魔化そうとしたが、その前に鹿茸さんが静かに笑った。

「そうですね」

 今までで一番、柔らかい顔だった。

「たぶん、助けられました」

 その言葉の意味を、心陽は聞かなかった。

 聞けなかった、と言った方が近いのかもしれない。助けられた、という過去の重みが声の奥に沈んでいたからだ。

 そして、その重いものを無理に持ち上げさせるようなことを、心陽はしたくなかった。

 しばらくして、鹿茸さんが「すみません、変な話を」と小さく言った。


「そんなことないです」

 心陽は小さく首を振る。

「なんか、少し分かる気がします」

「分かる?」

「私、本がないと結構だめなので」

 言いながら、少し照れくさくなる。

 鹿茸さんは静かに続きを待っていた。


「田舎から出てきたばかしの頃、友達もおらんくて……」


 そこまで言って、心陽は「あ」と小さく声を漏らした。

 

(なして、今出たと…………)


 咄嗟に口をつぐむ。

 けれど陽凪は揶揄ったり、珍獣を見るような目を向けるわけでもなく、むしろ少しだけ目を細めて「その喋り方、いいですね」と穏やかに言った。


 心陽の胸が、ほんの少しだけ跳ねる。

「……田舎臭いじゃないですか」

「いえ。暖かくて、素敵です」

 鹿茸さんはそう言ってから、どこか懐かしそうに続けた。


「ちゃんと帰る場所がある人の話し方だなって思います」


 その言葉に、心陽は少し戸惑ってしまった。

 なんて返すべきなのだろう。


 帰る場所――それが自分にはある。

 山ばかりの田舎で、少しうるさい母親がいて、近所の人たちが野菜を持ってきて、電車は一時間に一本しか来ないような単線で――それでも季節が変わるたび匂いの変わる土地がある。


(やけど、鹿茸さんには……)

 

 方言を素敵と言ったこの人には、そう思える場所があるのだろうか。

 ふと、そんなことを考えてしまった。


 窓の外では、夕方が近づき始めていた。

 淡かった春の光が少しずつ橙色へ変わり、店内の照明がガラスに映り込んでいる。

 鹿茸さんは腕時計を見て、「そろそろ行きます。夜勤前なので」と言った。

 その言葉に、心陽は少しだけ目を見開く。


「夜勤……?」

「病院勤めなんです」


 穏やかな声だった。

 心陽は想像できない――いや、しちゃいけないと思った。それでも、外に鹿茸さんの世界があると分かって、胸の奥がじんわり熱くなるのが分かった。


 鹿茸さんは立ち上がり、軽く会釈して「これから火曜日に行きます」と言い残して、扉へ向かった。


 その背中を見送りながら、心陽は自分でも説明できない感情を抱えていた。

 安心に近いけれど、それだけではないのだろう。


 二ヶ月来なかった理由を知れて心のつかえが取れた反面、踏み込み過ぎてしまった自分に気づいて、少しだけ嫌になる。

 鹿茸さんは察しがいい人なのだろう。

 だから心陽が「なして、キノコの本ばかし買うと?」と、聞きたいけど聞かないようにしていたことを見抜かれたんだと思う。


 それから、鹿茸陽凪は金曜日の常連さんから、火曜日の常連さんになった。


 同僚は「例のキノコくん、火曜日に来るようになったよ」と話題になっていたが、やはりその輪に混ざる気にはなれなかった。


 そして鹿茸さんとは、週に一回会う常連さんから、キノコの本を一緒に読む読書仲間という関係性に変化した。

 

* * *


 本好きの書店員――本國 心陽は、木曜日になって、足取り軽くカフェに向かっていた。

 

 ――カラン。

 少し重たい手動ドアを開けると、涼しげな音が近くで響く。

 耳になれた音を横に、店内を見回す。

 そして、いつものあの人――鹿茸さんの姿を探した。

 猛暑日が続く今日この頃、淡い涼しげな服を着ている人が多い中、紺の半袖に黒のデニムの人が目につく。

「こんばんは」

 心陽がそう声をかけると、鹿茸さんは、隣の椅子に置いていたリュックをヒョイッと床にどかして、挨拶とともに軽く会釈する。

「今日混んどるねぇ……」

 心陽はいつもなんとなく、座ってる二人がけの席に視線を移す。鹿茸さんも一瞬そちらを見て「そうですね……」と、頷いた。

 

「借りていた本、読み終わりました」

 心陽は、最近買ったばかりのベージュ色で涼しげな鞄から、一冊の文庫を取り出す。

 本のタイトルは『夢見る人たちはそのキノコを、まだ知らない』。

 丁寧にブックカバーを撫でると、紙のザラつきが僅かに指先を伝う。

 視線を鹿茸さんに戻すと、続く言葉を固唾を飲んで待っているのが分かった。

 借りた本を返す時、毎度毎度緊張した面持ちで来られることに、なんだか少しおかしくなってしまって、心陽は息を吐くように表情を緩めた。

 実は心陽も読み終えた本を返すたび、少しだけ緊張を覚えているけれど、鹿茸さんの緊張様で心が暖まるのだ。

 

 面白かった、で終わらせるのは簡単だけれど、本は読んだ人の中で別の形に変わる。

 だから心陽はいつも、本そのものではなく「出会わせてくれたこと」へ礼を言いたくなる。

 

「今回も素晴らしい本との引き合わせ、ありがとうございます」

 

 心陽は少し居住まいを整えてから、そう言い、ぺこりと頭を下げる。

 鹿茸さんも「いえ、読んで頂けて嬉しいです」と言い、同じように頭を下げる。

 コーヒーカップのハンドルに指をかけながら、心陽は言葉を紡ぐ。

「この本を自分なりに解釈できたときは、震えました」

「分かります」

 コーヒーを一口含むと、特有の香りが鼻くすぐり、心地よい深みが心を満たす。

「鹿茸さんは、どげん解釈したと?」

 この本を読み終わってから、鹿茸さんならどう解釈するだろうと気になって仕方なかった。


 鹿茸さんは少しだけ視線を落とした。

 窓の外では、夕立を予感させるような灰色の雲がゆっくり流れている。

「そうですね……」

 手元のカップを指先で回しながら、言葉を探すように間を置く。

「最初は、不思議な話だなと思いました」

 心陽は頷いた。

(そりゃー、そうちゃね)

 

 『夢見る人たちはそのキノコを、まだ知らない』は、物語として見れば少し奇妙な作品だった。

 人生に行き詰まった人々が、山奥で見つけた名もないキノコを追い続けるだけの話。

 派手な事件もなければ、大きな恋愛もない。

 けれど読み終えた後、不思議な余韻だけが長く残る。

「でも、読み返しているうちに、キノコの話じゃないんだろうなと思いました」

 心陽は少し身を乗り出した。

「というと?」

「主人公たちは皆、何かを失っているでしょう」

 その言葉に、心陽はゆっくり頷く。

 夢だったり、居場所だったり、人間関係だったり――失ったものは違うけれど、登場人物たちは皆どこか欠けたものを抱えていた。

「それなのに、誰も取り戻そうとしない。代わりに、森へ行くんです」

 店内に流れるジャズピアノが、一瞬だけ耳に入る。

「普通の物語なら、失ったものを取り返して終わると思うんです」

 鹿茸さんは苦笑した。

「でも、この小説は違う」

 その声音に、心陽は自然と耳を傾けていた。

「失ったまま生きていく話なんですよね」

 その言葉が落ちた瞬間、心陽は息を飲んだ。

 読んでいる最中には気づかなかった。けれど今、鹿茸さんの言葉を聞いて初めて腑に落ちる。

 主人公たちは誰一人として過去を克服していない。

 許されてもいないし、救われてもいない。

 それでも朝になれば森へ行き、夕方になれば帰ってくる。

 ただそれだけを繰り返している。


「私は逆でした」


 心陽はぽつりと言った。

「逆?」

「私、主人公たちが羨ましかったです」

 鹿茸さんが少しだけ目を細める。

 続きを促されている気がして、心陽は言葉を探した。

「羨ましい、というか……」

 カップの縁を指先でなぞる。

 上手く言葉にならない感覚を、どうにか掬い上げようとする。

「だって、皆ちゃんと探してるじゃないですか」

 窓の外では、灰色の雲の隙間から僅かに陽の光が覗いていた。

「名もないキノコを探してるだけなのに、読んでるとそれだけじゃない気がして」

 夢だったり、居場所だったり、もう戻れない過去だったり――主人公たちは皆、それぞれ違うものを抱えながら森を歩いている。

「私、主人公の女性が最後に言う言葉が好きなんです」

 心陽はゆっくり息を吐いた。

 そして、本を閉じたあの日から何度も思い返した一文を口にする。


 ――あのキノコを見つけたから幸せになれたんじゃない。探し続けた時間が、私を幸せにした。


「最初に読んだ時は、よく分からなかったんです。でも読み返してたら、なんとなく分かる気がして」

 心陽は視線を落とす。

「何かを見つけたから幸せになるんじゃなくて、その途中で出会ったものとか、過ごした時間とか、そういうのが大事だったのかなって」

 そこまで言ってから、自分の言葉が少し気恥ずかしくなる。

 けれど鹿茸さんは笑わなかった。

 静かな目で、真っ直ぐこちらを見ている。

「だから私は」

 心陽は少しだけ肩の力を抜いた。

「最後には、主人公たちも何かを取り戻したんだと思いました」

 それは失ったそのものではなくて、前に進む理由だったり、明日も森へ行こうと思える気持ちだったり――そんな名前のないものだ。

 

 鹿茸さんが少しだけ目を細める。

「本國さんらしいですね」

 不意にそう言われて、心陽は瞬きをした。

「そうですか?」

「はい。本國さんって、本そのものも好きですけど」

 そこで少し間を置く。鹿茸さんは言葉を確かめるように、指を握ったり開いたりする。

「なんというか……本と人が出会う瞬間も好きですよね」

 心陽は思わず言葉を失った。

 コーヒーの香りがふわりと鼻先を掠める。

 店の窓ガラスに映る自分の顔が、少しだけ驚いているように見えた。

 そんなふうに考えたことはなかったけれど、言われてみればそうなのかもしれない。

 誰かが面白そうに本を選ぶ姿も、薦めた本を嬉しそうに抱えて帰る姿も、読み終えた感想を聞く時間も――全部好きだった。


(こんこと、自分でも気づかんこと、言い当てられる人おったっちゃね……)


 心陽はなんだか照れくさくなって、誤魔化すようにカップへ口をつける。少し冷めたコーヒーは、最初よりも苦味が強くなっていた。

 向かいを見ると、鹿茸さんもまた静かに笑っていた。


* * *


 温かなコーヒーの湯気が立ち上る。

 いつもの時間より早く来てしまって、心陽はそわそわと時計を見ていた。


(あと、ちょっと)


 ――カラン。

 聞き慣れた音が遠くから聞こえた。

 心陽が顔を上げると、そこには、紺色のコートを着た陽凪が立っていた。


 目が合うと、お互い自然に表情が緩むそれが少し不思議だった。

 季節も流れて冬。

 去年の今頃なら、こんなふうに笑えてなかった気がする。

 

「お待たせしました」

「いえ、今来たところです」


 ベタな会話だな、と心陽は思った。

 鹿茸さんは席につくと、鞄から一冊の本を取り出した。

 タイトルは『晴れ時々キノコ』――見覚えのない単行本だった。

「これ、新しい本ですか?」

「はい」

 心陽が受け取ると、まだ新しい紙の匂いがした。

「面白かったですか?」

 いつものように質問したけれど、鹿茸さんは指先で本の角をなぞって、何度か言葉を飲み込むような素振りを見せた。

 

「……まだ読んでません」

「え?」

 

 心陽は瞬きをすると、鹿茸さんは少し困ったように笑った。

「今、買ったばかりなので」

「やったら、なんで……」

 そこまで言って言葉が止まる。

 鹿茸さんは視線を本へ落とすと、それから静かに言った。


「一緒に読もうと思って」


 カフェの窓を冬の夕暮れが染める。

 店内では、そこかしこにカップとソーサーが触れ合う音がしている。


 心陽は手の中の本をゆっくり撫でて、それから向かいの席に目をやると、鹿茸さんは少しだけ照れくさそうにしていた。

 なんだか、その姿がおかしくて自然と心陽の表情が緩む。

 

「今日の感想会は長くなりそうやね」


 息を吐くように呟いた、心陽の声が空気に溶けた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


心陽と鹿茸さんにとっては、しいたけも本も、誰かと繋がるための大切なきっかけになりましたね。


しかし実を言うと、この物語の始まりは、とてもくだらない一言でした。


ある日、最寄り駅の歩道橋を母と二人で歩いていた時のことです。


「しいたけと本!」


と、なぜか妙に勢いよく母は言いました。

「しいたけと本を買いに行きたい」という意味だったのですが、その言葉を聞いた瞬間、私は「しいたけと本って、なんだか小説のタイトルみたいだな」と思ってしまいました。


そこから生まれたのが、この物語です。


最初は本当に「しいたけと本」という言葉しかありませんでした。


それなのに気づけば、毎週キノコの本を買いに来るちょっと……いや、だいぶ、おかしな常連さんが現れ、本が大好きな書店員が現れ、二人で本の感想を語り合う話になっていました。


書いている途中で何度も思いました。


この物語の世界には、どうしてこんなにキノコの本が存在しているのだろう、と。


私にもよく分かりません。

⚠︎︎タイトルは、すべて作者の変なテンションによるものです。

⚠︎︎なお、『なんて素敵な、キ・ノ・コ』『魔法少女キノ子』『晴れ時々キノコ』は、母の仕業です。


恋愛小説を書くつもりで書き始めたのですが、気づけばキノコの話ばかりになっていました。

それでも、二人らしい物語になったのではないかなと思っています。


木曜日のカフェで、これからも心陽と鹿茸さんの感想会が続いていくのだろうと、そんなふうに思っていただけたなら嬉しいです。


本当に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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