ゴースト・レゾナンス
ゴースト・レゾナンス
天井を眺めていたら、いつの間にか朝になっていた。ベッドに入ったのはいつだったかなと記憶をたどる。横になったときの気持ちのいい感覚は、もうすでになくなっていた。
僕はため息をつく。一度考え事を始めてしまうと、こうなってしまうのがオチだ。
七月の燦々とした陽射しが窓を通して僕の部屋を照らしている。それはまるでスポットライトのように、もう使わなくなった勉強机を照らしていた。薄暗い部屋に一つだけピントを合わせられたその光景に、僕は過ぎてしまった時間を感じた。
一日の始まりがこんなに憂鬱でいいのだろうか。
この生活には慣れたはずなのに、どうにも朝日を見ると陰鬱な気持ちがこみ上げてしまう。朝起きて、日を浴びる。世間一般的に「健康的だな」と言われるようなその行為は、脳から分泌されたセロトニンが体に「今が朝だ」と認識させるという意味で、一日を始めるエンジンのようなものだ。
そしてエンジンを回すと同時に、僕らは日の光という祝福を全身に浴びる。それはまるで世界から「お前のことを見守っているぞ」と言われているようなもので、僕らはそれによって自分が世界に認識されているという安心を得る。
だが、今の僕にはそれが分からない。その安心とやらも、失って初めて気づいた。
眠ることもできず、朝と昼と夜の境界すらもなくなった今、どうして朝日を見て、一日が始まると思えるのだろう。一日24時間、太陽が昇って下る、そんな当たり前のサイクルから外れた僕は、きっと世界から見放されたのだ。だから朝日は好きじゃない。
僕は体を起こす。体は軽い。その軽さが、また僕を孤独にさせる。
重さというのは、平等に与えられた生の実感なのだと思う。
朝、体を起こすことがあんなにも辛かった日々が、今は懐かしい。その重さこそが、世界から認められていた証拠だったのだ。だからこそ、世界から隔絶された今の感覚は「軽い」。
僕は救いを求めるように部屋を見渡した。あるはずのそれを探す。あった。壁に掛かった時計を見つけると、僕は少し安心した。
時計だけは、平等かつ正確に、世界がまだうまく流れていることを僕に教えてくれる。ゆっくりと動く針は、まるであくびをするみたいに、刻一刻と世界を前に進めている。どうやら、僕はまだ世界に追い出されたわけではないらしい。
時計は6時30分を指していた。そろそろ朝食の時間だ。僕は部屋を出て、下の階への階段を目指す。廊下はすでに照明がついていた。おそらく兄が自分より先に降りたのだろう。
僕は朝食に遅れないよう、少し急ぎ目に階段を下りた。どたどた、なんて音はでるはずもない。
リビングは今日も静かだった。父親はすでに会社に行っているようで、残された母親と兄がその静寂に込められた意味をかみしめるように、ただ箸を動かしている。仕方のないことだと思う。僕は申し訳なさを 感じながら、いつものように仏壇へ足を運んだ。
そこには、僕の遺影があった。
――たしかあの日も、今日と同じくらい燦燦とした日が差していたと思う。
梅雨が終わり、7月ももうすぐという朝だった。すでに夏の始まりを感じる暑さで、ぎらぎらとした太陽が地面を焼いている。アスファルトでできた道路は熱を帯びて、それを踏み抜く足に焦りを与えた。曲がり角に刺さったカーブミラーが光を増し、そこに息を切らしながら走る僕の姿を映し出しす。
鏡に映ったのは、よれよれの制服とぼさぼさの頭をした冴えない僕。そのだらしない格好とは似つかない真剣な顔を見れば、僕がいかに寝坊して、そして素早く朝の諸々の準備を行い、学校への最短距離を最速で突っ走っているかが見て取れる。
それを「遅刻しそうで走ってるやつ」と片付けてしまえば話は早いが、入学して半年もたたない僕にとってその肩書きはあまりにも重い。運が悪ければ素行不良だと思われ、友達ができるできない以前の問題になってしまうだろう。
僕はこの危機的状況を打開するため、悲鳴を上げる心臓を余所に思考をめぐらせた。
まず避けねばならないのは学校に遅刻することだ。何があってもそれだけは避けなければならない。そのために急ぐのは必至だ。しかし、幸い間に合ったとしても、今この姿を誰かに見られてしまえば「遅刻しそうで走ってるやつ」という不名誉なレッテルを貼られてしまう。それもできるだけ避けたい。だからといって歩けば、それこそ遅刻して本末転倒だ。
進路も退路も断たれた僕には、誰かに見られないよう祈りながら全力で走る以外、選択肢はなかった。
僕は全力で駆け抜けた。初夏の生ぬるい風が頬を撫でる。学校まであと十分といったところか。横断歩道の信号が点滅し始めたのを見ると、僕はさらにスピードを上げた。視界の焦点はより中央に集約され、周りの景色をないものにする。そうやって世界が曖昧になると、逆に意識は冷静になる。
何故こんなことをしているのか、そんな自問自答を空に向かって投げかけた。だが、青と白がこれでもかと塗られたキャンバスには、それは小さなノイズにすぎず、僕の疑問はほこりでも払うかのように風に飛ばされる。僕は自分のちっぽけさを呪うと共に、空を雄大さをその沸騰しそうな頭で理解した。
空は広いし、大きいんだなあ――そんな風に思っていたら、僕はすでに横断歩道を渡りきっていた。
ぜえぜえと息がこぼれる。正直、今の加速でかなりの体力を持っていかれた。学校に着いたとしても、教室にたどり着けずに力尽きるのではないか。そんな余計な心配に少しくらっとしたが、僕は息を吐いて再び走り出した。
途中、足が少し重くなるのを感じた。
それを些細なものと隅に置き、僕は駆ける。風が心地よかった。
ぼやける視界に紫色が見える。後ろを振り返ると、道の脇にあじさいが咲いていた。それが目に入った途端、僕は自分が大きな忘れ物をしている錯覚にとらわれる。今朝の忘れ物ではない。もっと昔の大事なものを僕は忘れている気がした。考えが遡ると同時に体の感覚は鈍くなる。
右足、左足、右足、左足――それまでリズムを保っていた二つの針に少しずつ狂いが見え始めた。そして積み重なったズレは、やがて大きなバグを引き起こす。歪みは、重ならないはずの針をめぐりあわせた。
右足と左足を同時に出した僕は、体のバランスを失い、車道に倒れ込む。揺れる視界には、こちらへと向かうトラックが見えた。スピードを落としながらも、それは僕を殺す凶器として近づいてくる。トラックは目の前で倒れた人間を避けられるはずもなく、そのまま僕を跳ね上げた。
「あっ」
地面に容赦なくたたきつけられた僕が最期に見たのは、さっきの赤信号と、嫌味なほど明るい太陽が雲の後ろにその姿を隠す光景だった。
そうして僕は死んだ。
しかし、僕が次に見たのは、自宅の天井だった。
訳が分からなかった。僕はさっき車に轢かれて、そのまま死んだはずだ。まさか助かったのか、そんな幻想がよぎった。
とりあえず体を起こそうと、僕は全身に力を込めた。だが、そこで無視できない違和感に気づく。
体が軽い。
昨日今日で急に痩せたとか、そういう次元じゃない。体にまるで「重さ」が感じられない。腕を使って起き上がろうとしても、体は一本の棒のようで、少し力を入れただけでひょいと持ち上がってしまう。僕は膨れ上がる違和感とともに、ベッドから降りた。
だが、二本足で立ってみると、さらに奇妙な感覚に襲われた。力の反発がない。自分の体重を床が支える、あの物理的な実感がない。この気持ちの悪い感覚は、僕にひとつの可能性を突きつけてくる。
僕は部屋の隅にある姿見を探した。もしそうだとしたらこれで分かるはずだ。姿見を見つけると、僕は震える足で前に立ち、顔を上げた。
そこに、僕の姿はなかった。
背筋に悪寒が走る。喉が渇くのを感じた。どうして。なんで。足が崩れる。気持ちが悪い。吐きそうだ。腕に力が入らない。僕は耐えきれずにその場にへたり込んだ。だがその醜態も、鏡には映らない。そこにあるのは、僕の部屋だけ。命の香りが抜け落ちた僕の部屋があるだけだった。よれたベッドも、教科書も、開きっぱなしの机も、漫画の詰まった本棚も、日が差す窓も――すべては初めからそうだったかのように、無機質で無慈悲で、僕という存在を一切肯定してくれなかった。両手で自分の体を抱きしめる。鼓動が早くなって、走ってもいないのに、はあはあと息が漏れた。
これは、なんの悪い冗談だ。まるで、そう、幽霊みたいじゃないか。
僕はそのまま床に倒れこんだ。床は冷たい。その冷たさが体にじわじわと染み込む。体の温度が下がるのを感じた。
僕はこの現実を――自分が死んで幽霊になったという虚構を――どう受け止めればいいのだろうか。意識が遠くなる。僕は色の消える世界で、ただ手を伸ばした。
ぱりん――
何かが落ちる音で、僕の意識は現在に引き戻される。キッチンから音がしたようだ。
僕は仏壇を離れ、音の方へ向かう。もう線香の火は消えていた。
カウンター越しにキッチンを覗くと、母が落とした皿を片付けているのが見えた。洗い物の途中だったのだろう。手には洗剤が少しついている。シンクを見ると、三人分の食器が水切りにきれいに立てかけられていた。そして三角コーナーには、僕の分の朝食が捨てられているのが見えた。
我が家の食卓には、いつも一人分多く食事が並ぶ。母は僕が死んでから、毎日欠かさず僕の分のごはんを作り続けている。
父と兄は母を気遣い、母の行動に口をはさむことはない。
しかし当の僕は、ありがたさと申し訳なさとで、胸が締めつけられる思いだった。
僕は、物に触れることができない。
僕が触れようとしても、薄い空気みたいなものに遮られて、それに触ることはできない。無理に触ろうとするとすり根けてしまう。だから目の前にあるおいしそうな料理も、僕はただ眺めることしかできない。腹が減ることはないが、それ以上に大切なものを満たすということが、今の僕にはもうできないのだ。
母は片付けを終えると、仏壇に向かった。当然、僕に気づくことはない。
母はうつろな足取りで座布団に腰を下ろし、僕の遺影をじっと見つめる。
何を思っているのだろうか――いや、そんなこと、分かりきっている。
母の目に、涙が浮かびはじめる。
ううっ、と嗚咽が漏れた。
その声は僕の耳を通り抜けようとする。でも今日はなんだか上手く通ってくれなくて、僕の体の中を何度もぶつかり、引き裂きながら、ようやく出ていった。
家にいると、辛い。
僕は玄関に向かい、裸足のまま家を出た。
家を出て向かう先は、決まっている。
死んでから1週間、僕は一人のもとへ通い続けていた。
幽霊になった後の、無限にも思えるこの時間を何に使うのか。
その最大の悩みに、僕は「さつきのもとへ通う」という一つの答えを出していた。
もっとも、それが本当にすべきことなのかどうか、僕の中ではまだ整理がついていない。
一度そのことについて深く考えると、僕の思考はどこかでエラーを起こして、考えがうまくまとまらなくなる。答えは、僕の心の奥深くにあって、硬く閉ざされているのだ。
それがなんなのか、その気持ちがどういうものなのか――今の僕には分からない。ただ無理に言葉にするとくずれてしまいそうだから、隠してもっておくことにしよう。
一人歩きしていた思考は、彼女の家の前に着いたことで終わりを迎える。
時刻は午前8時前。そろそろ時間だ。
「行ってきまーす」
元気な声が玄関先から響く。扉が開くと同時に。制服に身を包んだ彼女は、笑顔で、勢いよく外へ飛び出してくる。朝の陽ざしが彼女を照らし、山野さつきと書かれた名札がきらりと光った。
いつものことなのに、僕は彼女に目を奪われる。
高校生になったさつきに僕はまだ慣れない。
物心ついた時から仲が良く、何をするにも一緒だったのに、中学校に上がるタイミングでの急な転校で僕らは離れ離れになった。親の仕事だから仕方がないが、幼い僕は両親に罵倒の言葉を浴びせた。それから引っ越してすぐの頃は、お互いに連絡を取り合っていたが、それも生活が忙しくなるにつれ減り、ついに疎遠となってしまった。
だから高校に上がると同時にこっちに戻り、入学式でさつきを見たとき、僕は金づちで頭を殴られたような衝撃を受けた。彼女は僕が出て行った後も、この地で、僕と同じように大人になっていたのだ。疎遠になった後の僕は、彼女と過ごした日々を、読み漁った国語の教科書のように懐かしくに思っていたから、そんな当たり前なことに僕は驚いた。
式が終わった後の教室で、揺れる頭を据えた僕は彼女に話しかけようとしたが、なんて声をかけていいか分からなかった。
そしてそのまま日々は経ち、たまに挨拶をして軽く話をするようになった。
ふと横を見る。
幼いころ、さつきの隣で一緒に歩いていた道を、今は彼女の後ろで歩いている。
まるで僕だけが取り残されているような気がする。
彼女と僕が進む道は、ねじれの位置にあって、きっと、もう二度と交わることはないの
だろう。
彼女の影が、静かに僕を覆った。
学校にはHR開始ギリギリに着いた。
さつきが教室に入ると、ほとんどの生徒はすでに席に着いていて、近くの友人と楽しげに話していた。彼らは「今朝は寝起きが悪くてさ」とか、「最近ほんと暑いよね」だとか、そんななんでもない話で盛り上がっていた。
僕の知る、いつも通りの教室の風景がそこにあった。
さつきは教室をぐるりと見渡すと、自分の席へと歩き出す。僕もなんとなく、その後を追って自分の席へ向かった。
僕の席は、教室の一番後ろの窓際にあり、その位置からは教室全体を眺めることができる。黒板には日付と日直の名前が書かれていて、ロッカーは運動部の荷物でぎゅうぎゅうだ。また、暑さのせいか窓を開けたままカーテンは閉め切られている。
すべてが、見慣れた「普通」の教室だった。
――ただ、一つだけ違うとすれば。
僕の机に、ユリが刺さった花瓶が置かれていることだ。
その白く厳かな姿は、喧騒な教室の空気には不釣り合いなほど美しく、まるで何もない部屋にぽつんと置かれた照明のように、その空間だけを切り離しているように見えた。
がらがらと音を立てて、教室に先生が入ってくる。
「みんなおはよう。HR始めるから、静かにしてください」
先生の一声で教室は静かになった。連絡事項が淡々と読み上げられていく。今日はかなり暑くなる予報で、熱中症に注意するようにとのことだった。
「それと、今日は、私が出張のため、4限の化学は自習になります」
教室に小さな歓声があがる。
「まじか、あぶねー。今日教科書忘れてたんだよね」
「なあなあ、自習の時間に、準備してたアレやろうぜ!」
学校生活の中で起こる、ほんの小さな幸運。それをクラスの皆は思い思いにかみしめていた。
「はいはい、静かにね。自習とはいえ、課題は出ますから。それを終えた後で、自分の好きなことをしてください」
先生はそう言って、どこか含みを持たせた笑みを浮かべた。おそらく彼自身も、学生時代は僕たちと同じ側だったのだろう。
丁寧な言葉遣いとは裏腹な、ユーモアの混じったその言い方に、僕は思わず笑いそうになった。
そのあとは、特に何事もない時間が、ゆっくりと過ぎていった。
ふと横に目をやる。その瞬間、窓の隙間から風が吹き、閉められていたカーテンが少しだけめくれた。
外が見える。
日差しが差し込み、空は澄みきった青。道沿いには、手入れの行き届いた松の木がまっ
すぐに伸びて、それが太陽に照らされて鮮やかに映えていた。グラウンドの砂もきらきらと反射していて、まるで黄金の粒のように見える。
何気ない校庭が、夏の日差しを受けるだけで、こんなにも美しくなるのか――僕は、そんなことをぼんやりと思った。
「はい、それではこれでHRを終わります。今日も一日、元気にいきましょう」
チャイムが鳴ると同時に、先生はそう言って教室を後にした。生徒たちもそれぞれ席を
立ち、1限目の準備を始めていく。
僕は手持ち無沙汰のまま、教室の様子をぼんやりと眺めていた。そうしてぐるりと一周
した視線は、やがてさつきの元にたどり着く。
彼女はごそごそと、カバンの中を探っていた。少し長めの髪がふわりと揺れる。その仕草が印象的で、僕は思わず見とれそうになった。
じっと見ているのも気が引けるので、視線を逸らそうとして僕は下を向く。その時、ふ
と彼女のかばんに目が留まった。
木で彫られた小さなお守り。
鞄に付いているそれは、お守りというには少し小さく、彫られた文字も消えかけている粗物だった。僕があげたお守り。僕が引っ越すとき、「離れても元気でいてね」と願いを込めて作った小さなお守り。
胸の奥が、ざわざわと騒ぐのを感じる。得体の知れないものがうごめいて五月蠅い。止
まった心臓がどくんと跳ねた。
「見つけた!」
彼女がカバンからノートを取り出したと同時に、1限の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
2,3限が終わり、昼休憩を挟んだ後に4限が始まった。
先生が言った通り、授業は自習となり、各自出された課題を黙々とやっている。内容は小テストみたいなもので、前回の授業でやったところが大半だった。おそらく、先生は急な出張だったのだろう。問題集が張り付けられたようなそれは先生の余裕の無さを物語っていた。
沈黙が続く中、僕は自分自身について考えた。ふと気になったのだが、僕は化学的にはどのような存在なのだろうか。意識はある。自分の体も見える。しかし、周りからは僕は見えず、声も聞こえない。眠ることもできず、ものに触れることもできない。こういった状況から僕は自分を「幽霊」だと認識しているが、果たして正しいのだろうか。幽霊なのだとしたら、自分以外の幽霊も見えていいはずなのに、今のところそういったものには会っていない。一度深夜に、家の近くの共同墓地に行ったことがあるが、ただ雰囲気があるだけで、僕以外には誰もいなかった。
ぱた、ぱた、とみんなが課題を終えてペンを置く音が聞こえる。授業が始まってから25分が経ち、クラスのほとんどが終わらせたようだった。
「なあなあ。さっき言ってた、あれ、やろうぜ。」
静寂を破ったのは後列の男子生徒だった。
「いいよ。昨日準備してたからな。ばっちりだぜ。」
そう言って彼らはカバンから五十音が書かれた紙と10円玉を取り出した。
「おっけい。こっくりさんのルールは分かるな。」
「任せろ。一度始めたら最後まで指を話しちゃいけないんだろ。」
「ああ。ルールを破ったら呪われるって話だ。」
げらげらと笑う彼らはどうやら「こっくりさん」をやるみたいだ・
「こっくりさん」は一時期流行った降霊術だ。やり方は、五十音が書かれた紙に鳥居の絵と「はい」と「いいえ」という文言を書き、その紙の上の十円玉に指を乗せて、質問をするというものだ。なんでも、 その「こっくりさん」とやらはどんな質問にも答えてくれるらしい。
「こっくりさん。こっくりさん。どうぞおいでください。もしおいでになられましたら「はい」へお進みください」
男子たちはそういって儀式を始める。
今の時代に「こっくりさん」はないだろと思った。だいたいそういうのは、筋肉の疲労だとか、集団催眠とかで話がついているはずだ。もし仮に10円玉が動いたとしても、それらが原因だったり、そもそも誰かが動かしているに違いない。
「うおっ動いた」
「やばいやばい」
「どうすんだよこれ」
僕の予想通り、10円玉は動き、「はい」の文字に止まった。彼らもまだげらげらと笑っているし、本気で怪奇現象が起きているとは思っていないだろう。
僕は呆れ半分にその様子を眺めていたが、実のところもう半分には少しの期待があった。僕という超科学的な存在がいる以上、「こっくりさん」も本当に実在しているのではと思ったからだ。孤独に浸かりすぎた僕は、いつしかそういうものを親しく、いわば友人みたいなものとして思うようになった。
「なあ何聞く。」
「そうだなあ、まずは試しに昨日の晩御飯とかでいんじゃね。」
「おっけい。それでいいな。」
「こっくりさん。こっくりさん。俺の昨日の晩御飯はなんですか」
人の晩飯を聞かれるこっくりさんも大変だな。
「さ、ば、の、み、そ、に」
「おお、すっげえ、まじだまじ。うち昨日鯖の味噌煮だったんだよ」
げらげらと彼らは楽しんでいる。クラスもみんなも読書したり、友達としゃべっていたりと、つかの間の自由を楽しいんでいた。僕のいない日常はいつもと変わらない。
「次お前だ。何聞く。もっと面白いのにしろよ。」
「もっと心霊ぽいの聞けよ。もっと雰囲気だしてこうぜ。」
「ええいいじゃんかよ。」
「だめだめ。」
「分かったよ。それじゃあ、ここに幽霊はいますか。」
どきっとした。答えは紛れもなく「はい」だ。だって僕は幽霊で、ここにいる。背筋に汗が流れるのを感じた。
「うわ、お前それ聞くの。」
「心霊ぽいのって言ったのお前だろ。」
「で、答えはどうなんだ。」
10円玉が動きだした。ゆっくりと「はい」と「いいえ」に向かっている。三人の表情もそれにつれて次第に険しくなる。教室は生徒の話声でにぎやかであるのに、この空間だけが切り取られたみたいに静かだった。じりじりと硬貨が紙を滑る音が聞こえる。答えに近づくにつれ、10円玉もゆっくりになる。
「動かすなよお前ら。」
「動かしてねえよ。お前だろ。」
三人のボルテージが上がってくる。
がらがら
「わあっ。」
隣の教室の先生が入ってきた。
「お前らー。ちょっとうるさいぞー。自習なんだから静かにしとけー。」
「おいっお前指……」
「あ」
一人が10円玉から指を離していた。
「お前やべえって。」
「いや、とりあえず紙隠せって。」
三人は急いで片付けた。その途中、指から離れた10円玉が「はい」の位置にあるのを僕だけは見逃さなかった。
その後はさすがに三人とも静かにしていた。僕も手持ち無沙汰に天井を眺めた。本をめくる音、シャーペンの芯を出す音、息を殺しながらしゃべる音、そんな些細な音がかえって大きく聞こええた。だから、チャイムが鳴った時、僕はその音の大きさに驚いた。
その後はなにということもなく放課後になった。みんながぞろぞろと帰る中、さつきは教室に残っていた。
なんでだろう。いつもは友達と帰るのに、今日に限ってはその誘いも断っていた。残された一人だけのシルエットを、窓から差す夕日が紛らわせるように映している。
彼女はじっと僕の机に置かれた花瓶を見ていた。
「遠野くん」
かろうじて聞き取れた声には、彼女の中を渦巻く色々な感情が込められているような気がした。放課後の教室はひどく静かで、小さな声ですら反射を繰り返して僕の心をえぐる。
「もうこんなに汚れちゃったね」
さつきは花瓶の汚れを確認すると、カバンから出したハンカチでそれを拭き始めた。もう壊れてしまったものをこれ以上壊さないように彼女はゆっくり、そしてやさしく拭いた。
「水も交換しないと」
掃除道具の入ったロッカーからバケツを取り出して、さつきは廊下に出ていった。
残された僕は、どうしようか迷った。そしてなんとなく外の景色を眺めることにした。
赤色、黄色、橙色、ちらりと覗く青、すこしの白、そして黒。たくさんの色が、この空という広いキャンバスに塗られている。粗を残さないように何層にも重ねて、丁寧に、それでいて、やっぱりあるほんの少しの粗も逆に素敵に思えるように。
綺麗だ。さつきもここにいたら同じように思うのかな。
僕は想像する。
さつきが隣にいて、一緒に夕日を眺める。それはまるで、あの頃の僕らだ。公園で遅くまで遊んで、走りつかれて、地面に座る。そして見上げるとあるきれいな夕日。僕はひどく懐かしくなった。
「よいしょっと」
僕の想像はさつきの一声でかき消される。ふらふらとした歩きで彼女は帰ってきた。バケツに並々と入った水はゆらゆらと揺れている。
「ちょっと入れすぎちゃったかな」
彼女は丁寧に、水の交換を進める。濁った水が空のバケツに入り、冷たい新しい水が瓶へと注がれていく。ふと墓に水をやる光景が浮かんだ。手段は違えど、本質は同じだと思う。水の冷たさをかき消すような温かさを感じた。
「恥ずかしがらずに、もっと話しておけばよかったなあ」
「入学式で遠野くんを見て、私話さなきゃって思ったの。でも喉が詰まって声がでなくて。泣きたくなるくらい、それが悲しかった。私忘れらちゃったのかなって。私も忘れられたらよかった」
手の震えでバケツの水面が揺れる。
「ごめんね、なんでもない」
「私ね、もう漢字苦手じゃないんだよ。遠野くんが書けないような漢字だっていっぱい知ってる。中学校でね、たくさん勉強したんだ。遠野くんが聞いたらきっとびっくりするよね。あの頃はいつも居残りで漢字テストやってたし、100点なんてとったことなかったもんね。だからね、私頑張ったんだ。また遠野くんに会えたら、驚いてもらえるかなと思って。ほんとにいっぱいいっぱい頑張ったんだよ。それに段々と勉強も嫌いじゃなくなった。これなら、遠野くんとテストの点数で勝負できるかも、なんて思ったりもしたんだ。君と学校で一緒に過ごして、あの頃みたいに走って、いたずらなんかしたりして。そんな風にできるといいなって私ずっと思ってたんだよ。だからね、だから」
彼女は言葉を詰まらせる。綺麗に手入れをされた花瓶に一つ、二つ、雫が落ちる。瓶は今にも割れそうだった。
胸が痛む。その痛みは僕の心の扉をこんこんと叩く。分かっているんだろ、と声がする。錆びついた扉は何重にも鎖がかけられ、その部屋の内部を明かさないように閉じ込めている。
しかし、彼女の声はその封印を優しく解きほぐす。鎖を溶かし、まるでパズルのピースをはめるように鍵を鍵穴に入れる。
「ねえ、ここにいるんでしょ、遠野くん」
「こっくりさんの時ね、私見たの、幽霊はいるって。だからね、もし幽霊がこの教室にいるなら、きっと遠野くんなんじゃないかなって思ったんだ」
教室は静かなままだ。
「遠野くん。もし私の方が先に死んじゃっていたら、私はきっと遠野くんをずっと眺めると思う。朝は一緒に登校して、授業もちゃんと受けて、たぶんそんな風にすると思う。そんな風に見守って、何かできるというわけでもないけど、君の隣にいるんだ」
彼女は笑っていた。僕には笑って見えた。
「そうやって、隣で夕日を眺めて、昔を思い出したりして。手をつないだりするのは、今はちょっと恥ずかしいかな」
「昔はもっと素直だったのに」
僕もさつきに言わなければならない気がした。
でもなんて言えばいいのか。胸の字引で言葉を探す。索引には僕の人生が書き連ねられている。今はそんなのどうだっていい。ページをめくる手は止まらない。そして長い長い旅の後、僕はようやくその言葉を見つける。
それはなんてことのない言葉だった。ただ見つけるのに時間と懐かしさがいるだけで。大人になった僕なら、きっとこれを彼女に伝えることができる。僕は息を吸って
「 」
それを口にした。
終




