第三話
軍鶏鍋を食べてしばらくして、八郎は突然姿を消した。高梨は塾生たちに行方を聞いたが、誰も知らないようだった。師は何か知っているようだが、言葉を濁されてしまった。
──喧嘩騒ぎを気に病んだのだろうか。
一声かけてくれてもいいじゃないかと気落ちする高梨をよそに、季節はあっという間に冬を迎えた。師は相変わらず、アメリカ公使館の通詞の仕事で忙しくしている。
学業に勤しむうち、高梨の記憶からもだんだんと八郎のことが薄れていく。最近では横浜北方村を歩く外国人の話している内容も、少しずつわかるようになってきた。
それでも、高梨は軍鶏鍋を見かけるたびに八郎を思い出す。左手を着物の懐に入れたまま、幸せそうに軍鶏鍋に舌鼓を打つ姿が忘れられなかった。
江戸が東京に改められ、都が京から東京へと移った。世の中が目まぐるしく変わりはじめた明治二年、高梨は師である尺振八に呼び出された。
「先生、どうかされましたか」
「高梨君、君は八郎さんと仲がよかったね」
久しぶりに八郎の名前を聞いて驚く高梨に、尺振八は苦々しい顔をしてみせた。障子の向こうではしとしとと雨が降っていた。紫陽花から雨の雫がぽたりと落ち、葉の上にいたカタツムリに当たる。カタツムリは驚いて角をひっこめた。
「八郎さんが亡くなったそうだ」
「えっ」
「江戸……今は東京か。伊庭道場って知ってるかい」
「心形刀流の道場ですよね」
「八郎さんは、そこのご嫡男だったんだよ」
江戸の四大道場の一つである伊庭道場の嫡男、伊庭八郎──。
あまりのことに言葉が出てこず、高梨は呆然とした。伊庭の麒麟児、伊庭の小天狗……そんな噂なら、高梨も耳にしたことがある。
「箱館で、幕府派と新政府派の戦いがあっただろう。……そこで亡くなられたそうだ」
軒先にぶら下がった雨の雫が大きくなり、水たまりにぽたりと落ちた。雨を受けて、波紋は次々と水たまりの上に広がりつづける。
高梨の頭の中で、八郎と共に過ごした日々が思い起こされた。たしかに腕っぷしの強い人だったけれど、あの気さくで穏やかな人が、箱館での戦に望んで身を投じるとは、高梨には思えなかった。
「八郎さんはね、徳川御三家や譜代のお大名なんかが、長く恩顧を受けたくせに、早々に薩長に尻尾を振ったのが許せなかったのさ。箱根での戦で左手を失ったそうだよ」
八郎の懐手の理由を知って、高梨は眉尻を下げた。懐手を咎めたときの、八郎の翳のある微笑が思い起こされた。知らぬとはいえ、八郎に悪いことをしてしまった。
障子を隔てた外で、雨音が激しくなったような気がした。
西洋風の石畳をとぼとぼと帰宅した高梨は、帰るや否や、仏壇に向かって手を合わせた。線香の煙がふっと立ち上り、香の匂いが漂う。
もしも八郎が左手を失くしていなかったら、伊庭道場に戻って跡取りとして生きる道もあったのではないか──。
それでも八郎さんは箱館に行っただろうなと、高梨は眉を下げたまま、寂しそうに笑った。
──後年、浮世絵師・月岡芳年が『魁題百撰相』で描いた人々の中に、伊庭八郎は登場している。新政府のお咎めをおそれて伊場七郎とされたその浮世絵を、高梨は大切に文箱の中に収めた。
【おわり】