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第二話

 季節は十一月にさしかかっていた。雨の降る日は肌寒さを覚えるほどで、高梨は肩に乗った雨粒を払いながら一息ついた。

 塾の縁側にあぐらをかく八郎の姿があった。よく見ると、足の間にしめた鶏がある。


「八郎さん、おはよう。それ、どうしたの?」

「鍋にするらしい。羽をむしっておいてほしいって頼まれたんだ」


 八郎は懐手をしたまま、右手で鶏の羽をむしると、くずかごの中に放り込んだ。八郎の指の間から、はらはらと鶏の羽が落ちていく様子は、芝居の紙吹雪のようだ。


 ──もしかしたら左手がないんじゃないか?


 先日聞いた、剣呑な目をした塾生たちの言葉が、高梨の脳裏をよぎった。鳥羽伏見の(いくさ)から、あちこちで戦闘があると聞いている。幸い、横浜で戦が起きた話はまだ聞かないが、世情の不安定さは高梨もうっすらと感じ取っている。会津藩では相当激しい戦闘がつづいていたという。ついには落城したという噂を耳にして、高梨は胸を痛めた。

 もしかしたら八郎も、そういった戦いで左手を失ってしまったのかもしれない。高梨は顔を上げると、雨音に負けないよう、ことさら明るく八郎に声をかけた。


「手伝うよ」



 鶏の羽をすっかりむしり終えた頃、ほくそ笑みながら塾生たちが帰ってきた。


「どうだ? 終わったか?」


 和傘を閉じて縁側にやってきた彼らの底意地の悪い笑みは、すぐさま引っ込んだ。できるはずがないと思っていたのに、八郎は鶏の羽をすっかりむしり終えていたのである。


「できてるぜ。……哲さんも手伝ってくれてありがとうよ」


 激しくなった雨が、屋根瓦に当たる音が聞こえてくる。塾生たちは高梨を睨むと、ふいと顔を背けた。高梨は一触即発の雰囲気にいたたまれなくなって、びくりと首をすくめた。


「今夜は軍鶏鍋(しゃもなべ)かい? 尺先生に食べていただくんなら、じっくり煮込んで味の染みたのをおあがりいただきたいなぁ。鉄鍋はやめときな。金物の味が移っちまう。やっぱり土鍋だな」


 泰然とした八郎の言葉に、塾生たちはたちまち気色ばんだ。あふれんばかりの怒気で顔を真っ赤にしている者や、池の鯉のように口をぱくぱくしている者を見て、高梨はすっかり青ざめた。


「表に出ろぃ!」


 塾生たちの誰かが声を荒げたのに、八郎はすっと目を細める。たちまち四、五人の塾生が雨の中へと躍り出た。


「八郎さん」


 高梨は駆け寄って袖を引っ張るが、八郎は涼しい顔で高梨の頭を撫でた。心配するなと言わんばかりだ。

 八郎が懐手をしたまま、するりと庭に下りる。それを待ち構えていたかのように、塾生たちが襲いかかった。

 危ない、と息を呑んだ高梨の目の前で一人の塾生が倒れ込み、水たまりがしぶきを上げた。何が起きたのかわからないと、高梨は目を丸くする。

 八郎は相変わらず懐に左手を入れたままだ。頭に血の上った塾生たちが次々と八郎につかみかかろうとするが、ときに身体を半身ずらし、ときに向かってくる拳を右腕でいなしている。足払いで塾生を転ばせ、腕をつかんでひねりあげ、しまいにはぶん投げる……無駄のない動きだった。

 泥まみれになった塾生たちが、一人、また一人とほうほうの体で逃げ去って行く。


「鶏……どうしたもんかねぇ」


 ついに最後の一人が背を向けて駆け出したとき、八郎がぽつりと困り果てた様子でつぶやいた言葉に、高梨は吹き出した。


「手間賃だと思って、食べりゃあいいよ」

「そうかい。そんなら土鍋を用意して、尺先生と奥方も呼んで食べるかね。哲さん、頼めるかい?」


 四、五人に囲まれたのに結局一度も懐から左手を出さず、涼しい顔一つ崩さなかった八郎が、鶏のことで表情を曇らせたりほころばせたりしている様子がおかしくて、高梨は「任せといて」と笑った。

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