表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

第一話

 海風を受けて、異国の旗がはためいている。


「えげれす、あめりか、おらんだ、ふらんす……」


 高梨哲四郎(たかなしてつしろう)は石畳がつづく坂道をゆっくりと歩きながら、洋館に掲げられた旗を見た。横浜北方村(きたかたむら)は外国在留地が近く、さまざまな国の人々が集まっている。すれ違った異国人の言葉が聞こえてきて、高梨は本を抱える手にぎゅっと力をこめた。いつか自分にも、意味がわかる日が来るだろうか。高梨ははやる心を抑えきれず、早足で師の英語塾へと向かった。

 高梨の師は、アメリカ公使館の通詞を務める尺振八(せきしんぱち)である。今日はどんなことを教えてもらえるのだろうとわくわくしながら、高梨は扉を開けた。


「おはようございます」

「おはよう、哲さん」


 最近入塾した青年に声をかけられた。高梨よりも年上のこの青年は、名を八郎(はちろう)という。朗らかな人懐っこい性格で、すぐに高梨と打ち解けた。

 江戸城が明け渡されてからというもの、英語塾の門を叩く者も増えた。高梨は少し前から塾に通っているが、英語を学ぶ者が増えるのはうれしいことだ。学ぶのに遅いということはない。

 草履を脱いで棚に預け、高梨は八郎と並んで教室へと入った。


「哲さん、昨日教わったこの読み方はなんだっけか」

「What time is it now?」

「掘った芋いじくるな、みてぇに聞こえるなぁ」


 八郎は右手で頭をかいて、何度か小さく英語の発音をくりかえした。年上の面子(めんつ)にこだわらずに接してくる八郎に、高梨は弾む心をおさえきれずに「これの発音は?」と次々に質問をする。たどたどしくも答えてくれる八郎に、高梨はうんうんと深くうなずいた。師である尺振八も、高梨にこんな気持ちで接しているのかもしれない。



 授業が終わり、机の上で洋書をまとめると、高梨は左手をついて立ち上がった。横で八郎が懐手(ふところで)をしたまま、すっと立ち上がる。

 八郎はいつも着物の懐に手を入れている。高梨は八郎と親しくしているが、浪人のようなその懐手だけは、あまり好きになれなかった。


「八郎さん、先生に失礼だから、その懐手はやめなよ」


 高梨の言葉に、八郎は何も言わずに微笑んだ。わずかな(かげ)りのあるその微笑に吸い込まれたような気持ちになって、高梨は言葉を飲み込んだ。


「そういえば貸本屋が来てくれるらしい。哲さんの頼んでた本も届くんじゃないのかい」

「あれはなかなか手に入らない本だからなぁ。八郎さんは何か頼んだの?」

「水滸伝。あと三国志」

「英語に関係ないじゃないか」


 八郎は先ほどまでの翳のある微笑を忘れたかのように、笑い声をあげた。快活に笑うその顔には、すでに翳の気配はない。



 夏の暑さがようやく薄れ、だんだん過ごしやすくなってきた。高梨は塾の庭に生えている楓の木をながめた。紅葉は見事だけれど、そろそろ落ち葉も目立つ。掃き掃除でもしようかなとほうきを手にしたところで、他の塾生のひそひそ話が聞こえてきた。


「ずっと懐手をしてるあの新入り、もしかしたら左手がないんじゃないか?」


 高梨ははっとして、ほうきを強く握りしめた。八郎が一向に懐から手を出さないので、塾生のなかにはおもしろくない者もあるらしい。高梨も八郎に注意をしたくらいだ。その気持ちはわからないでもない。

 八郎の翳のある微笑が思い出されて、高梨はそっとその場を立ち去った。

 高梨のあずかり知らぬところで、火種がくすぶりはじめていた。


「たしかめてやろうぜ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ