第一話
海風を受けて、異国の旗がはためいている。
「えげれす、あめりか、おらんだ、ふらんす……」
高梨哲四郎は石畳がつづく坂道をゆっくりと歩きながら、洋館に掲げられた旗を見た。横浜北方村は外国在留地が近く、さまざまな国の人々が集まっている。すれ違った異国人の言葉が聞こえてきて、高梨は本を抱える手にぎゅっと力をこめた。いつか自分にも、意味がわかる日が来るだろうか。高梨ははやる心を抑えきれず、早足で師の英語塾へと向かった。
高梨の師は、アメリカ公使館の通詞を務める尺振八である。今日はどんなことを教えてもらえるのだろうとわくわくしながら、高梨は扉を開けた。
「おはようございます」
「おはよう、哲さん」
最近入塾した青年に声をかけられた。高梨よりも年上のこの青年は、名を八郎という。朗らかな人懐っこい性格で、すぐに高梨と打ち解けた。
江戸城が明け渡されてからというもの、英語塾の門を叩く者も増えた。高梨は少し前から塾に通っているが、英語を学ぶ者が増えるのはうれしいことだ。学ぶのに遅いということはない。
草履を脱いで棚に預け、高梨は八郎と並んで教室へと入った。
「哲さん、昨日教わったこの読み方はなんだっけか」
「What time is it now?」
「掘った芋いじくるな、みてぇに聞こえるなぁ」
八郎は右手で頭をかいて、何度か小さく英語の発音をくりかえした。年上の面子にこだわらずに接してくる八郎に、高梨は弾む心をおさえきれずに「これの発音は?」と次々に質問をする。たどたどしくも答えてくれる八郎に、高梨はうんうんと深くうなずいた。師である尺振八も、高梨にこんな気持ちで接しているのかもしれない。
授業が終わり、机の上で洋書をまとめると、高梨は左手をついて立ち上がった。横で八郎が懐手をしたまま、すっと立ち上がる。
八郎はいつも着物の懐に手を入れている。高梨は八郎と親しくしているが、浪人のようなその懐手だけは、あまり好きになれなかった。
「八郎さん、先生に失礼だから、その懐手はやめなよ」
高梨の言葉に、八郎は何も言わずに微笑んだ。わずかな翳りのあるその微笑に吸い込まれたような気持ちになって、高梨は言葉を飲み込んだ。
「そういえば貸本屋が来てくれるらしい。哲さんの頼んでた本も届くんじゃないのかい」
「あれはなかなか手に入らない本だからなぁ。八郎さんは何か頼んだの?」
「水滸伝。あと三国志」
「英語に関係ないじゃないか」
八郎は先ほどまでの翳のある微笑を忘れたかのように、笑い声をあげた。快活に笑うその顔には、すでに翳の気配はない。
夏の暑さがようやく薄れ、だんだん過ごしやすくなってきた。高梨は塾の庭に生えている楓の木をながめた。紅葉は見事だけれど、そろそろ落ち葉も目立つ。掃き掃除でもしようかなとほうきを手にしたところで、他の塾生のひそひそ話が聞こえてきた。
「ずっと懐手をしてるあの新入り、もしかしたら左手がないんじゃないか?」
高梨ははっとして、ほうきを強く握りしめた。八郎が一向に懐から手を出さないので、塾生のなかにはおもしろくない者もあるらしい。高梨も八郎に注意をしたくらいだ。その気持ちはわからないでもない。
八郎の翳のある微笑が思い出されて、高梨はそっとその場を立ち去った。
高梨のあずかり知らぬところで、火種がくすぶりはじめていた。
「たしかめてやろうぜ」