思わぬ提案
「母が済まなかった。アイシャを勝手に出迎えていたとは知らず。なにか失礼なことを言われなかったか?」
「いいえ。マーサ様は、とても歓待して下さいましたわ。まさか、こんなに歓迎してくださるとは思わず驚きました。社交界での私の噂を考えれば、会ってくださっただけでも、喜ばしいことです」
引き篭もっていた一ヶ月間、社交界に姿を見せなくなったアイシャの噂は、尾ひれがつき、ひどい言われようだ。今では男を誑かすアバズレと言われているらしい。三人の高貴な男性から求婚されたにも関わらず、他の男達を手玉に取り、隠れて遊んでいたと。それが、バレて、婚約破棄されたことになっている。
アイシャを良く知る友人達は、彼女がそんな事をする女性ではないと分かっていたが、誰が流したのか社交界でのアイシャは、アバズレ女としてレッテルが貼られてしまった。社交界の寵児三人から同時に求婚されたアイシャに対する嫉妬が絡んでいるのは明白ではあったが、人の不幸は蜜の味と、アイシャの婚約破棄騒動は、噂好きの貴族の格好のネタになっている。
「あの噂は、全くの嘘ではないか! ナイトレイ侯爵家の者達も、俺も、アイシャが素敵な女性である事は分かっている。しかし、あの噂をそのままにしておくのも口惜しい。アイシャはあの噂のせいで体調を崩し、伏せっていたのだろう?」
実際には、リアムに裏切られたショックで引き篭もっていたわけだが、そのことは言わず、曖昧に頷いておく。
「キース様、あんな噂など放って置けばいつかは忘れ去られます。社交界に出ず、ジッとして居れば良いだけのことですわ。不幸中の幸いと言いますか、わたくしあまり夜会やお茶会など社交の場に興味がありませんの。このまま、家で好きなことをして過ごすのは、苦ではありません。この機会にもう一度、剣の鍛錬を始めるのも良いかもしれません」
「しかし…………」
「キース様、評判が地に落ちたリンベル伯爵家は、捨て置いても良いのです。ですが、ナイトレイ侯爵家まで巻き込むわけには参りません。キース様、わたくしとの婚約話の取り下げをお願い致します。今なら傷口も直ぐに塞がるでしょう。膿みは、切り捨てるべきですわ」
「アイシャは俺に貴方を切り捨てろというのか? ノア王太子殿下やリアムと同じように」
キースの真剣な眼差しがアイシャを捉える。その眼差しがあまりに強く、アイシャの心がズキリと痛む。
「――――そうです。ナイトレイ侯爵家のためにも」
テーブルの上に置いていたアイシャの手にキースの手が優しく重ねられ、それに気づいたアイシャが、咄嗟に手を引こうとして、キュッと掴まれた。
「その願いは聞けない。アイシャがナイトレイ侯爵家のことを考え言ってくれたのはわかる。しかし、俺も両親もアイシャとの婚約話を取り下げる気はない。貴方が社交界でどう思われていようとも、俺には関係ない」
「でも……」
「アイシャ、聞いてくれ。母も言っていたと思うが、ナイトレイ侯爵家はアイシャに救われたんだ。貴方と剣を交えていた当時、俺と父との仲は最悪だった。次期当主を勝手に俺に決めた父を憎み、ほとんど家にも寄り付かなかった。騎士団の宿舎で寝泊りをし、アイシャと父を憎み生きて来た」
アイシャの脳裏を幼い頃の記憶が蘇る。七歳の披露目の誕生日会。息子は来ないと寂しそうに言ったナイトレイ侯爵。当時、侯爵とキースとの仲は冷え切っていたのだろう。
家にも帰ってこない息子と、そのことに肩を落とす夫。
泣きながらアイシャに感謝を述べたマーサ。可憐な微笑みを浮かべていたマーサもまた、当時辛い日々を送っていたのだろう。
「いつか父を裏切り、ナイトレイ侯爵家から出て行くためだけに強くなろうと剣を握っていた。そんな父ともアイシャのおかげで、腹を割って話すことができた。父の本心を知り、自分が思う以上に力を認めてくれていたことを知って、本当に嬉しかったんだ。今のナイトレイ侯爵家があるのは、アイシャが真剣に俺を叱責してくれたおかげなんだよ」
「キース様、買い被り過ぎです。私は怒りのまま思ったことをぶちまけただけですから。ナイトレイ侯爵家の皆様が恩を感じる必要は全くありません。それよりも名門ナイトレイ侯爵家の名を傷つけてはなりません」
「それは違うよ、アイシャ。母も言っていたけど、家名に傷がつこうが関係ない。そもそも、そんなことで揺らぐナイトレイ侯爵家ではないから」
キュッと握られた手が引かれ、両手で包まれる。
「――――だから、なにも心配いらない」
話の雲行きがあやしくなってきた状況に、アイシャの頭は混乱する。
(このままじゃ、婚約話を解消出来ないわ)
キースの目を見て真剣に言い募るアイシャの目に、優しく笑う彼の顔が写る。目を細め、まるで愛しい人を見るかのように微笑む、キースの陽だまりのような笑顔に言葉が出ない。
(なんて顔して笑うのよ……)
アイシャの顔がみるみる熱を持ち、赤く染まる。
「本当、アイシャは優し過ぎるよ。だから放っておけない。貴方も引く気は無いようだから、一つ提案なんだけど」
「提案?」
「あぁ。アイシャは、婚約者を俺に選ぶ必要はない。でも夜会やお茶会でのアイシャのエスコートは俺にやらせて欲しい。今後、全ての夜会や茶会に出ないと言うわけにはいかないだろう。特に王族主催の夜会は、伯爵家の令嬢であれば参加は義務だ。近いところだとノア王太子殿下とアナベル嬢の婚約を祝した夜会が開かれる事になっている」
リンベル伯爵家へ届いていた招待状と、アナベルと交わした約束を思い出す。個人的な手紙のやり取りをしていたアナベルから届いた手紙。『私の願いを叶えた立役者が、婚約披露パーティーに来なかったら、許さないんだから』と、挑発的に書かれた手紙は、家に引きこもっているアイシャへ向けた叱咤激励だった。
悪い噂が飛び交う社交の場へ行くのは正直怖い。でも、親友とも呼べる関係になったアナベルのために出席しようとは思っていた。
「アイシャも一人で行くよりも、俺と一緒の方が気が楽ではないかな? アイシャを噂の的にさせたくない俺としても、貴方の防波堤になれたら、嬉しい限りなんだが。まぁ、好きな女を守れるなら、騎士としても僥倖だしな。もちろん、アイシャの気持ちが俺に向くように全力で守るつもりだけどね」
「――――でも、わたくしをエスコートしたら、それこそナイトレイ侯爵家の名に傷を付けてしまいますわ」
「そんな事、気にしなくていいの。さっきも言ったけど、アイシャをエスコートしただけで傷つくようなナイトレイ侯爵家ではないよ。もし、アイシャを一人にしたら、俺が両親に半殺しにされる。アイシャは諦めて俺にエスコートされなさい」
いつの間にか立ち上がっていたキースに頭を撫でられる。
「もう一人で闘わなくて大丈夫だから……」
いつの間にか、泣いていた。
キースの言葉が、リアムによって傷つけられた心を癒してくれていた。




