変化
(あぁぁ、助かった……)
甘い空気をぶち壊し、侵入して来た珍入者の存在にアイシャは、心の中で手を合わせる。
師匠が現れなければ、顔を真っ赤に染めたキースとアイシャを微笑ましく見守る給仕メイドの皆さまという、ある種異様な空気感が続いていたかと思うと、いたたまれない。
(感謝、感謝です、師匠)
「久しぶりだな、アイシャ。一年振りか」
アイシャへと向かい、ニカッと笑い手を挙げる師匠に、慌てて立ち上がり頭を下げる。
「ルイス様、ご無沙汰しております。その節は、大変お世話になりまして、ご挨拶にもお伺いせず、申し訳ありません」
「いやいや、気にするな。アイシャも、ここ一年、色々と大変だったな」
そう言って笑う師匠の顔が、幼い頃の記憶と重なり胸を熱くさせる。辛い剣の修行、何度も師匠の優しさに救われた。一つずつ、出来ることが増えるたびに、自分のことのように一緒に喜んでくれた。そんな師匠の存在があったからこそ、剣を握り続けることが出来たのだ。
あの日々があったからこそ、過酷な淑女教育にも耐えられたと、今ならわかる。
「いいえ、師匠のしごきのおかげで、母からの淑女教育も、へこたれず耐えることが出来ました」
「そうか、そうか。剣の修行は、肉体だけではなく、精神を鍛える修行でもあるからな。俺は、淑女教育のことはよくわからないが、あの修行の日々が無駄ではなかったのなら、よかった」
「無駄だなんて、あの師匠との日々で、だいぶ我慢強くなりましたから」
「確かにな、あれだけキースとやり合って、最後まで根をあげなかったアイシャの根性は、すごいと思うぞ」
「あぁぁ、兄さん! その話は、やめてくれ」
「なんだ、キース。過去も含め、今のお前があるのだろう。失敗を認め、後悔し、それでも前に進む決意をしたなら、何を隠す必要がある」
「いや、まぁ。確かに、そうですが。アイシャには、過去の俺は忘れてもらいたいというか……、今の俺を見てもらいたいというか……」
「ははは、だったら尚更、過去は隠すべきではないな。過去を含め、今のお前を好いてもらわなくては、結婚生活など成り立たない。夫婦になる者同士、禍根を残してはならない」
「もちろん、そのつもりです!」
先生と生徒よろしく、今にもルイス様に向かい敬礼でもしそうな勢いで、姿勢を正すキースの隣で、アイシャはと言うと、居た堪れなさ全開で俯くしかなかった。そんなアイシャの心中を察してか、助け舟が出される。
「あなた、その辺にしておいたら。アイシャさんが困っていらっしゃるわ」
「マ、マリアベルさま!!」
開け放たれた扉から入ってきた懐かしい人物を認め、アイシャは叫ぶ。萌葱色の瞳を優しく細め、おっとりとした口調で話すご婦人は、マクレーン伯爵家のマリアベル様だ。妻の登場に瞬時に反応した師匠が、マリアベル様に近づき、彼女のとび色の髪を優しく撫でる。
相変わらずのラブラブっぷりに、こちらの方が赤くなってしまう。
昔も、二人の触れ合いに何度も当てられた。この二人の様子を見て、意にそぐわない政略結婚だったと思い込んでいたキースの節穴っぷりに呆れてしまう。
(キースって……、思い込み激しそうだものね)
「それに、キースもよ。焦る気持ちもわかるけど、順序はきちんと踏まないと、女の子は逃げてしまうわよ」
「姉さんまで、俺を責めないでくださいよ」
ふふふと笑みを浮かべながら紡がれるマリアベル様の言葉に、キースが困ったように頭をかく。その様子を目にとめたアイシャは、キースの態度の変化に内心驚いていた。
アイシャを憎むと同時に、マクレーン伯爵家へも憎悪を向けていたキース。だからこそ、マリアベル様をずっと避けていたのだ。こんなにフランクに会話を交わせるほどに、二人の関係が改善するには、並大抵の努力では成し得ない。マリアベル様の歩み寄りはもちろんだが、キース自身が己の行いを反省し、伯爵家との関係改善に尽力しなければ難しい。
(夜会で言っていた言葉は真実だったのね)
再会するまでの一年間、ずっと後悔し続けたとキースは言った。そして、マリアベル様にも、彼は頭を下げ続けたのではないだろうか? だからこそ、マリアベル様もキースを許した。
「アイシャさん、二人だけでお話、しませんこと?」
「よろしいのですか? あのぉ、師匠とキース様は……」
考えごとをしていたアイシャは、いつの間にか師匠とキースがダイニングからいなくなっていることに気づいていなかった。
「大丈夫よ。もともと、今回の訪問は、わたくしがアイシャさんと二人でお話したくて、ルイスにわがままを言ったの。だから、ルイスにキースを連れ出してもらったわ」
「えっと、それは?」
「ずっと、お礼が言いたかったの」
「お礼ですか? 私は、何も……」
「ルイスから聞いたわ。アイシャさん、あなたがキースの心を解放してくれたと。ご存知よね? キースは、ずっとマクレーン伯爵家を、そして私をずっと憎んでいたことを」
そう言って、マリアベル様が寂しそうに笑う。彼女もまた、ずっと苦しんできたのだ。ルイス様とマリアベル様が愛し合い結婚したと言っても、側から見れば、ルイス様は後継の座を降ろされ、格下の伯爵家へ婿入りしたとみなされる。
人の粗を探し、蹴落とすことが当たり前の貴族社会では、恰好の噂の種になっただろう。様々な場面で、マリアベル様は貶され、揶揄されてきたのかもしれない。その上、ルイス様の実の弟、キースにまで、憎まれ、避けられている状況だ。想像する以上に、辛い日々を送られてきたのだろう。
「はい。存じています。今、考えても、歩み寄る努力をしなかったキースが全面的に悪いとは思いますが」
「そうね。当時は、私もそう思っていたわ。一年前、マクレーン伯爵家へ突然やって来て、父と私の前で土下座をしたキースを見るまではね」
「えっ!? 土下座をしたのですか?」
「ふふふ、えぇ。本当、驚いたわ。侯爵家の跡取り息子が、格下の伯爵家当主に土下座をしたのよ。普通じゃ、考えられないわ」
確かに、本来であれば有り得ない話だ。エイデン王国の侯爵家以上と伯爵家以下の間には、大きな差がある。領地を持つことを許された侯爵家と持たない伯爵家という差だけではなく、権力的にも、金銭的な裕福さにしても大きな隔たりがあるのだ。
上位貴族は、たとえ己が間違いを犯したとしても、格下貴族に謝ることはまずしない。己の威信に関わることだからだ。それは、貴族社会の常識だった。だからこそ、侯爵家の跡取り息子が土下座をしたという事実は大きな衝撃なのだ。
「それにね、何度も、何度もマクレーン伯爵家に通ってくれたの。体調を崩すようになった父の代わりに、伯爵家内を切り盛りするようになったばかりの私を、何度も助けてくれた」
「そうだったのですね。でも、不思議です。なぜ、ルイス様ではなく、キース様が?」
「もしかしたら、ルイスから頼まれていたのかもしれないわね。ほら、ルイスは騎士団の副長の仕事が忙しいでしょ。私も、伯爵家のことまで、ルイスに心配をかけたくなかったから」
確かに、騎士団の副長ともなれば、仕事は多岐に渡る。しかも、あの豪快な見た目の団長が、細々とした雑務を日々こなしているとは思えない。副長の仕事以外にも、団長の仕事のサポートまでしているとなると、忙しさは目が回るほどだろう。伯爵家のことまで気にしていられる状況ではない。
そこで、信頼のおけるキースに師匠は、自分の代わりにマクレーン伯爵家を助けるようにキースに頼んだのだろう。
(もしかしたら、奥さまとの関係改善も期待してのことだったのかもしれないけど)
「私も、キースと何度も接しているうちに絆されちゃったのね。始めは反感しかなかったけど、今さら謝りに来たって許すものかって。どうせ、格下貴族だと思って、見下してきたんでしょってね。でもね、その考えは、接している内に変わっていったの。あの子、不器用っていうか、根は真面目なのよね」
「そうですね。確かに根は真面目な方だと思います。ただ、少々思い込みが激しいというか、なんというか」
「そうね。だから、関係が拗れちゃったのかもしれないわ。まぁ、歩み寄る努力をして来なかった私にも責任はあるけど」
そう言って悲しそうに笑うマリアベル様の後悔の気持ちが伝わり、胸を切なく痛ませる。
「人って弱い生き物よね。自分の罪を認め、真摯に向き合うことが出来る人なんて、そうそういない。そういう意味でも、キースは強い心を持つ人なんだと思う。そして、アイシャさん、あなたもね」
「え? 私ですか?」
「えぇ。あなたは、ずっとキースと向き合ってきたでしょ、私とは違って。憎まれても、痛めつけられても、逃げることはしなかった。だから、キースの心に、あなたの言葉が響いた」
「いいえ、そんな大それたことはしていません。ただ、思っていたことをぶちまけただけですから」
「だけど、あなたのおかげで、あの子との関係が大きく変わったのは事実よ。だから、お礼を言いたかったの。本当にありがとう、アイシャさん」
瞳に涙を浮かべ微笑むマリアベル様に、深々と頭を下げられ、アイシャは慌てる。
「マリアベル様、頭を上げてください。本当に、お礼を言われるようなことは何もしていませんから。キースとの関係が改善されたのは、マリアベル様の寛容な心があったからです。私だったら、そう簡単に許せないですし」
「アイシャさんは、今でもキースを嫌っているの?」
キースのことを嫌っているのか?
そう言われると、よくわからない。確かに、ナイトレイ侯爵領に来るまでは、キースに対する気持ちは、負の感情の方が強かったのかもしれない。ただ、キースの言動に絆されつつある自分が確かにいる。
「嫌ってはいないと思います。ただ、よくわかりません。苦手意識はありますが……」
「そうよね。アイシャさんは、キースと再会して、まだ数週間ですもの。そう簡単に、気持ちが変わるわけないものね。でも、昔のことは一旦忘れて、今のキースを見てあげて欲しいの。きっと、彼の素敵な一面が、たくさん見られると思うから」
ふふふと笑いながら紡がれる言葉に、アイシャの頭の中では、ここへ来てからのキースとのアレコレが回り、頬が熱くなる。
「あらっ? ふふふ、これは良い兆候かしら……」
「えっ?」
「なんでもないわ。もう、こんな時間。そろそろ、痺れを切らしたキースが暴動を起こしそうだわ。二人を呼んでくるわね」
席を立ったマリアベル様が、ダイニングを出ていく。その後ろ姿を見つめながら、彼女の最後の言葉を考える。
「昔を忘れて、今のキースを見てか……」
アイシャの心に巣食っていた、キースに対する苦手意識が薄れつつあるのを感じていた。




