災い転じて福となす?
『――――王都の喧騒を離れ、ナイトレイ侯爵領の自然あふれる地で、一緒に過ごしませんか?』
リンベル伯爵家へと迎えに来たナイトレイ侯爵家の馬車に揺られ、アイシャは先日受け取ったキースからの手紙を読み返していた。
(この手紙、私に拒否権ないじゃない)
『一緒に過ごしませんか?』って言っているくせに、迎えの日にちまで指定してあるのだから、こちらの意見は聞いていないのと同じ。結局のところ強制連行すると言っているようなものだ。
(当日迎えに来た人に『行きません』って言ったら、どうするつもりだったのかしらね? まぁ、侯爵家相手にそんなこと出来ないけど)
迎えの馬車が到着した時、アイシャが逃亡しないように、黒い笑みを浮かべた母が、しっかりと監視していた事を思い出し身震いする。
(あぁぁぁ、私に逃げ道はないのね。なら、楽しまなきゃ損よ! ナイトレイ侯爵領ってどんな所かしら~♪)
根が楽観的なアイシャは、久々のバカンスに思いを馳せる。
車窓を流れる景色は、街を抜け、田園風景を抜け、いつしか鬱蒼と茂る森の中を進む。王都から数時間離れるだけで、こんな森林地帯があるなんて不思議に思う。
よくよく考えれば、アイシャとしてこの世に生を受けてから、一人での遠出は初めてだった。自由の効かない貴族令嬢の窮屈さは、前世の記憶があるだけに、ある種の不満をアイシャの心に植えつけていたらしい。
(いい気持ち……)
窓を少し開ければ、森の爽やかな香りが風にのり、車内を満たす。そして、その心地いい香りを肺いっぱいに吸い込めば、アイシャの気分も晴れ渡った。
爽やかな風を浴びながら、流れゆく森の風景を眺めながら、アイシャの頭に、ある疑問が浮かぶ。
馬車から見える森の景色は、迷ったら最後、抜け出せないと思わせる程の鬱蒼とした草木が生い茂っているのに、車道はきちんと整備され、森の中を走っているとは思えないほど揺れない。森の中でさえ、手入れが行き届いている様子は、ナイトレイ侯爵家の領地経営の素晴らしいさを物語っていた。
領地を持たない伯爵家と、持つことを許された侯爵家の格の違いをひしひしと感じる。
(本当、不思議よね。キースは、次期ナイトレイ侯爵なんだから、もっと格上の相応しいご令嬢が沢山いるでしょうに)
ノア王太子にしても、リアムにしても、アイシャよりも身分も教養も美貌も兼ね備えた令嬢を選び放題の立場なのだ。それなのに、なぜアプローチを仕掛けるのかさっぱり分からない。これは、アイシャ本人ではなく、リンベル伯爵家と縁戚になるメリットがあるから、と見て間違いない。
(じゃあ、ひとり娘の私には拒否権なんて無いじゃない!)
政略結婚の末路を思い悶々とする。
『結婚後は妻に見向きもしない夫は、いつしか愛人を家に囲い出す。妻は嫁ぎ先でも蔑ろにされ、愛人が大きな顔をし、妻は別邸に追いやられ、夫からも忘れ去られ、寂しい人生を送りましたとさ』
(――――あら? この人生最高じゃないかしら?)
別邸に追いやられてしまえば、アイシャの存在は居ないものと同じ。誰の目も気にせず、やりたい放題が出来る。
(これって……、好きな趣味に没頭出来るってこと!?)
田舎に引っ込んだら、前世の記憶を頼りに妄想人生を謳歌するも良し、たまに変装して街に出て、カフェでお茶をしながらイケメン観察するのも良し。薔薇色の人生が待っている。
後は、別邸に引っ込む前に、衣食住の心配がないよう交渉すればバッチリだ。
(ふふふ、政略結婚どんと来いだわ!! 相手を選ぶ権利はこちらにあるようだし、軽い気持ちで行きましょ♪)
単純なアイシャは、懸案事項が概ね解決し、ご機嫌な様子で馬車に揺られ、ナイトレイ侯爵家領地へと向かった。
♢
快適な速度で進んでいた馬車の中、流れる森の景色を堪能していたアイシャは、鬱蒼とした森の景色が開け、突如現れた立派な門扉に目を見張る。
(この先に、ナイトレイ侯爵家の邸宅があるのかしら?)
武の名門の名に相応しい、堅牢な造りの門扉が、ゆっくりと開かれる。
「わぁぁ、なんて素敵なお庭なの」
色とりどりの花々が咲く生垣が、邸宅まで続く道の両脇を彩り、目にも楽しい。石造りの門扉からは想像もしていなかった華やかな出迎えを受け、アイシャの気持ちも弾む。
車窓に手をかけ、外の景色を堪能していたアイシャに、御者の声がかかり、ゆっくりと馬車が停車した。
(お屋敷に着いたようね。いけない、いけない、はしゃいでいたら、みっともないわね)
客人とはいえ、ここはナイトレイ侯爵家の邸宅。高位貴族のお屋敷にお邪魔するのだ。礼儀もなっていない令嬢だと思われたら、リンベル伯爵家の面目も丸潰れになってしまう。
(気を引き締めていかないと)
アイシャは、座席から立つと、軽く身だしなみを整え、外側から扉が開くのを待つ。
(ここで待っていれば、御者が扉を開けて、誘導してくれるはず)
予想通り、馬車の扉が外から開かれ、降りるために差し出された手に手を重ねた時だった。
「えっ! きゃっ!!」
馬車を降りるため足元を見ていたアイシャは、てっきり御者が手を貸してくれたのだと思っていた。しかし、重ねた手がギュッと握られ、強くひかれる。そのままバランスを崩したアイシャは、彼女の手を引いた誰かの胸へと落ちていた。
「アイシャ! 夜会ぶりだね。まだ数週間しか経っていないのに、君に会いたくて、会いたくて仕方がなかった」
(あぁぁぁ、この素晴らしい胸板と、耳に心地いい低音はキース様。離せぇぇぇ、息出来んわぁぁぁぁ)
「……キ、キース様、離して……、しぬ、し……」
苦しいと背中を叩き訴えると、やっとアイシャを抱く腕の力を少し緩めたキースだったが、彼女を離す気はないようだ。
「あの、キース様。そろそろ、わたくしを離してくれてもよろしいかと思うのです。まだ挨拶もしておりませんわ」
「挨拶など、どうでもいい。俺はアイシャと、ずっとこうしていたい」
(なんだこの甘々なセリフは! キースは何か悪い物でも食べたの?)
前世も含め恋愛経験の全くないアイシャは不思議でならなかった。
デビュタントの夜会でいきなりプロポーズされたが、一年前までは犬猿の仲だったのだ。それが一年でガラッと態度が変わるとキースに似た別人が、目の前に居るのではないかとさえ思えてくる。しかも夜会の時より強引な気もする。
やはり、リンベル伯爵家と縁戚になるメリットはかなり大きいのだろう。
(キース様も可哀想に。家の為とはいえ、好きでもない女を口説かねばならないなんて)
目の前の男が段々と、前世、飼っていた犬に見えてくる。ご主人の気をひこうと頑張る大きな犬に。
あの頃、飼っていたゴールデンレトリバーの『ポチ』の事を思い出し、アイシャの胸がキュっと痛む。
(大好きだったポチ。戯れあって押し倒される事もあったわね。背中を撫でてあげると嬉しそうに顔中を舐められたっけ)
「――――っ!! アイシャ、君って人は」
アイシャは脳裏によみがえった懐かしい記憶のままに、ポンポンとあやすようにキースの背中を叩いていた。
「俺をあおったのは、アイシャだからな!」
「へっ?? ふぅっ…うぅ………」
気づいた時には遅かった。唇を塞がれ、驚きでわずかに開いた唇から、舌を差し入れられ、口腔を蹂躙されていた。
(えぇぇぇぇ、待って待って待って。ディープキスされてる?)
必死でキースの背中を叩くアイシャだったが、彼女を抱きしめる腕の力は緩まない。
(誰か助けてぇぇぇ……)
「キース様。そろそろ、おやめください! アイシャ様が窒息します」
真横から聞こえた冷静な声と同時に唇の熱が離れ、解放された唇から肺へといっきに酸素が入ってくる。『助かったぁぁ』と、我に返った時には、目の前のキースは屈強な男達に両脇を抱えられ、邸内に消えるところだった。
「アイシャ様、失礼致しました。我が家の主人の振る舞い、代わりましてお詫び申し上げます」
シワの刻まれた温和な顔にメガネをかけ、お仕着せ姿の男性が、アイシャへと向かい深々と頭を下げる。どうやら、彼が窒息しそうだったアイシャをキースから救ってくれたらしい。
「わたくし、ナイトレイ侯爵家領地の管理を任されております執事のライアンと申します。滞在中のお世話を侍女と共にさせて頂きますので、何卒よろしくお願い致します」
「こ、こちらこそ、よろしくお願い致しますわ。リンベル伯爵家のアイシャと申します」
目の前の執事ライアンは、優しい笑みを浮かべた初老の紳士だった。しかし、キースの暴挙にも動じず対処する姿は妙な迫力がある。さすが、侯爵家の執事といったところか。
(さっきのキスシーン、ばっちり見られていたわよね)
ライアンの後ろに控える使用人の方々の姿が見えるが、眉ひとつ動かさず整列する様は、かえってアイシャの羞恥心を容赦なく煽ってくる。
(恥ずかしさで憤死するわ)
こうしてナイトレイ侯爵領地で過ごす一週間は、キースとのディープキスという想像すらしていなかった暴挙から始まったのだった。




