責任の自覚
「お、おはようございます!」
芭蕉は現場入りする。
昨夜はぐっすり眠れた。
だからといって芭蕉は緊張しにくい体質というわけではない。
仕事に対する責任意識がないのだ。
何かあればバックれればいい────
ぐらいの意識で事務所の契約書にサインをしたくらいだ。
「⋯え」
しかし現場入りした瞬間、先輩声優たちの鬼気迫る雰囲気に圧倒された。
『専門と雰囲気違う!』
芭蕉は声優という職業をなめていたのだ。
「芭蕉くん。新人はもっと早く来るっていうルールだからね。次からは言わないよ」
現場にいたサングラスをかけた中年の声優がぶっきらぼうにそう言う。
やはり声優というだけあってよく通る声だ。
「はっ!はいすいません!」
芭蕉はぺこぺこと頭を下げる。
一応台本には目を通していたため、つっかかることはなかったが、収録中は生きた心地がしなかった。
なにせ後ろで先輩声優が眉間にシワを寄せて座っているのだから。
「はいOKでーす」
「おつかれさまでした」
監督のOKが出たため、その日の収録はひとまず終わる。
1年ものの作品であるため、主要キャラクターの役者とは今後も顔を合わすことになる。
「はあ。怖かったあ」
芭蕉はスタジオの外にある自動販売機でコカコーラを飲んでいた。
「よう」
いきなり後ろから肩を掴まれる。
「ぶわっ」
芭蕉はびっくりして、肩を大きく上下させる。この際ちょっとコーラをこぼしてしまった。
「うわあごめんごめん。こんなにビックリすると思わなかったんだ!」
芭蕉はコーラのついた口を拭いながら振り向くと、そこには茶髪の女性がいた。芭蕉と同じくらいの若い娘だ。
「君は⋯さっき現場にいたよね」
「そう!⋯だけど、名前覚えてなかったんだ」
聞くとその女性の名前は《濱口ひゆ》というらしい。年齢は芭蕉のひとつ下だそうだ。
ひゆはかなりの美形だった。やはり今の声優は、声だけではなくルックスも優れていないといけないようだ。
「芭蕉くんの演技、とっても良かったよ!」
「はあ」
とにかく喉が渇いていた芭蕉はひゆの目を見ながら、コーラをぐびぐび飲み始める。
「今まで凄いと思った声優さんはいっぱいいたけど、鳥肌が立った声優は初めてだったんだよね!」
ひゆは目を輝かせながら芭蕉に顔を近づけてきた。
彼女からは香水の香りがした。ラベンダーだろうか。
そしてこの態度からして、どうやらお世辞ではないようだ。
「まだデビューして1年目なんでしょ!?天才だよ」
大志は芭蕉になってから、こんなに褒められた事はなかった。呼ばれる名前が変わったので、別人になったような気分だ。
「芭蕉くんはなんで声優になろうと思ったの?」
ひゆはさらに顔を近づけてくる。
「んん?」
大志もとい芭蕉は、コーラを飲み干した。
真上を向き、缶にカチカチ歯をぶつけて一滴残らず全て飲み干そうとする。