その71
「で、気が付いたら、正社員にしてくれてた。」
島本は、ようやくにっこりと笑ったように言った。
「ん?」
「10ヶ月ぐらいたったときだったかなぁ・・・。
それまでは“賃金明細”となってたのが、突然に“給与明細”って紙に変わっていた。」
「・・・・・・。」
「俺はそうした面に疎いから、“ああ、様式が変わったんだな”とだけ思ったんだが、同時に渡された袋には、俺が予想していた以上の金が入っていた。
で、慌てて表を見直したもんだ。
他人の袋と間違ったんだじゃないかってな・・・。」
「・・・・・・。」
「それでも、確かに封筒の表には俺の名前が書かれていたんだ。
で、改めて明細を見たら、どうにもそれまでとは違う項目と金額が書かれていた。」
「・・・・・・。」
「で、主任と呼ばれていた人に訊きに行ったんだ。
これ、何かの間違いじゃないのかって・・・。」
「そ、それで?」
「そうしたら、お前、聞いてなかったのか?って・・・、笑われた。」
「ん?」
「今月から正社員に採用するって人事異動の紙が張り出されてたろ?
そう、言われたんだ。」
「えっ! それを、本人が知らなかったってこと?」
「ああ・・・、嘘のような、落語のような話だろ?
そういう意味ではおおらかな時代だった・・・。」
「そ、それで・・・。」
「あ、それが今日の始まりだ。」
「・・・・・・。」
私は、いささか呆れた。
如何に戦後の混乱期だったとしても、そうした事が本当にあったとは・・・。
「人生にはいろんな出会いがある。
いろんなきっかけがある。
その時に、どうその最初の一歩を踏み出すかだ。」
「・・・・・・。」
「俺も、そこでの作業が好きだったし、懸命に先輩の技術を見て盗もうとした。
黙ってたら、誰も教えちゃあくれないからなぁ。
で、会社も、そうした俺の資質を見抜いたんだろうな。
何の相談もなく、いきなり正社員として雇ってくれた。」
「・・・・・・。」
「人生、ふたつの道を同時には歩けない。
だから、あの時採用されてなかったどうなっているんだろうなんて考えたりはしない。
人が、そして会社が求めてくれたんだから、それに素直に従っただけだ。
後悔するかどうかは、それからの自分次第だろ?」
島本は、一段と激しくなる車の揺れを楽しむかのように言ってくる。
(つづく)