その63
正直なところ、当時の私は、いつの時点で日本に帰ろうか。
そればかりを考えていた。
確かに、一応は訪ねてみたいとプロットしていたインド仏教の寺院や遺跡などはまだ7割ぐらいしか行けてなかった。
それでも、何しろ日本が恋しくなっていた。
とりわけ、その頃に歩いていた地方は水田の多い地域で、少し高台に登ったりすると、そこから見える風景はまるで私が生まれ育った日本と同じに見えたのだ。
兎に角、日本食にありつきたかった。
「でもなぁ・・・。」
そこに、私の迷いがあった。
親にも大学にも、一応の旅行計画を知らせてあった。
本当は、大学も休学すべきだったのだが、当時の大学はそうした積極的な海外渡航を後押しする考え方があって、「単位のことは気にするな」「帰ってきて、そのレポートを出してくれたら考える」と大らかだった。
それなのに、その予定期間をまだ1ヵ月半残していた。
つまりは、5ヶ月の予定のうち、3.5ヶ月しか経過していなかった。
言わば、計画未達成の時点だった。
そんな頃に出会ったのが、この大松工業の社員であり、「DAIMATU」というロゴマークだった。
彼らは、ホテルで日本食をご馳走してくれた。
と言っても、本格的な料理人が作った日本食ではない。
彼らは、自炊を基本としていたのだ。
米や味噌、醤油などを持ってきていた。
それで、インドで手に入る食材を日本食にアレンジして食べる術を知っていた。
それを私に食べさせてくれたのだ。
それでも、私にとっては夢のような食事だった。
美味かった。
梅干の入ったおにぎりが絶品だった。
味噌汁の味が、荒れていた私の気持を和ませた。
不器用に切った刺身が私に元気を呉れた。
「郷に入れば郷に従えと言いますが・・・、やはり食文化だけはねぇ・・・。」
これが3度目のインドだという島本が言った。
「いやあ、僕達も島本先輩のお陰で助かってます。
先輩と一緒でなければ、もうとっくにギブアップしてますよ。
帰らしてくれ!ってね。」
今回が初めての海外渡航だと言う佐々岡と前田が異口同音に言った。
その出会いがあったからこそ、私の旅も計画通りに完遂できたようなものだった。
(つづく)