その62
彼らは、島本、佐々岡、前田と名乗った。
日本語とヒンディー語で書かれた名刺も呉れた。
それによると、彼らは東京本社の海外市場開発部という部門に属していた。
島本だけが30代で、他のふたりは20代だと言った。
インドにはまだ駐在支店という名の事務所が設置されているだけで、本当の意味でそこに常駐しているのは、ヒンディー語と英語が堪能な40代の春田という担当部長がひとりだけだということだった。
で、その春田部長の指示でこうした若手の販売要員が数ヶ月単位で日本から派遣されてくるのだという。
一応はヒンディー語を習っては来るが、なかなか現地ではそれが通用しないと嘆いていた。
それでも、チーフ格の島本だけは今回で3回目のインド出張で、何とか現地の人と会話が出来るらしい。
基本的には春田部長も同行してくれるのだそうだが、その日は所用でその地方の役人を接待しているとのことだった。
だからなのだろう。
彼らは、私がひとりでインドを旅していると聞いて、「言葉が分かるのか?」と興味を持ったようだった。
「片言ですが・・・。」
私は本当のことを言った。
インドを旅してこようと思うとゼミの教授に言ったところ、「役に立つ本がある」と言って3冊の本を呉れたのだった。
そのひとつに、ヒンディー語の日常会話について書かれた本があって、それを片手に歩いていた。
最初は、片言の英語とその本にあったヒンディー語で話しかけていたが、彼らが言うとおり、なかなか現地の人にはそのいずれもが通じなかった。
首都であるニューデリーのホテルなどではそれである程度理解してくれたものの、一歩地方部というか都市部を離れると、もう殆ど駄目だった。
第一、「私は日本人です」と英語やヒンディー語で言っても、その「日本」という国を知らないのだから困ったものである。
だから、食事ひとつ摂るにも、トイレに行くにも、はたまた移動するにも苦労したものだった。
で、私も考えた。
カードにいろんな場合のヒンディー語を書き連ねた物を手作りする。
例えば、「この近くの安いホテルを教えてください」とか「食事をしたいのですが、どこに行けば食べられますか?」とかである。
彼らと出会った時には、もう、50枚近く作っていた。
その頃には、そのカードで、殆ど何とか会話が出来ていた。
現地の人は、自分が話す言葉が通じないと理解すると、身振り手振りで盛んに教えてくれるようになる。
やはり、白色人種ではないことが親近感を抱いてくれたのかもしれない。
「ほう、それは凄い! でも、そんな状況で、よくひとりで旅が続けられるなあ・・・。」
大松工業の営業マンたちはそう言って無謀な私を褒めてくれた。
(つづく)