その59
こと、家内のことになると、「僕と付き合ってください」というたった一言が言えない。
毎回、今日こそは・・・、との覚悟で行くのだが、八坂神社で家内の顔を見ると、もう何も言えなかった。
せいぜい、「これください」とお守りなどを指差すのが関の山だった。
初めて家内を見たのが元旦である。
そう1月1日である。
そして、今日は既に1月の14日になっている。
つまりは、2週間もの間、毎日家内の顔を見に行ったのに、とうとう昨日まで何も言えなかったのだ。
これが仕事であれば、こんなに手間取る事はない。
戦略を考えたとしても、数日だけだ。
私の仕事の仕方から考えれば、少なくとも5日には答えが出ていた筈なのだ。
例え、その結果がどう出ようがだ・・・。
もちろん、仕事の上で、最初から失敗をしようと考える馬鹿はいない。
当然に成功することだけを考えて戦略を練るものだが、それを考えること自体が楽しくもあった。
先輩からも、「成功した自分をイメージして・・・」と教えられていたから、常にプラス思考でやってきていた。
そして、そのイメージどおりに成功すると、その悦びは数倍に膨らむものだった。
こうして、もう何年もの間来ていなかった「清水の舞台」に立ってみて、私は自分の中に「失敗を恐れている私」がいることに改めて気が付く。
就職をしてからというもの、ここまで「最初の一歩」が踏み出せないことはなかった。
もちろん、小さな失敗は何度も繰り返している。
それでも、それは「次回こそ」という思いで乗り越えてきた。
そういう意味においては、結構楽天的な性格だったのかもしれない。
大きな仕事をある程度任されるようになっても、私の中にはその楽天的な思考われるようなことはなかった。
たまたまかもしれないが、周囲の上司や先輩、後輩に支えられて、その大半を成功裏に終えていた。
それが次へのエネルギーにもなった。
それなのに、こと家内のことになると、「断られたらどうしよう」という思いがまず最初に来てしまうのだ。
「確かに・・・、ここから飛び降りるのには勇気が要るだろうな。」
私は、舞台の最前列に立って、その下を覗き込む。
ただ、どこかで誰かから聞いた話だと、ここから飛び降りてもその死亡率は15%程度らしい。
逆に言えば、85%の人間は死ななかったらしい。
そう考えて下を覗くと、とても自分の意思で飛び降りる気にはなれないが、それに類した感情というか、物事に対する覚悟は何となくだが判るように気がしてくるから不思議だ。
(つづく)