その4
翌朝9時に実家の電話が鳴った。
私は居間で新聞を拡げていた。
もちろん、その中身など読めてはいなかった。
悶々として寝られなかったから、頭も動いてはいなかった。
「えっ! 中林留美さん?」
電話を取った母親が素っ頓狂な声をあげた。
家内の当時の名前である。
「ああ・・・、俺だ・・・。」
私はすっ飛んで行って、母親の手から受話器を奪うようにした。
まさか、電話が掛かってくるとは思っていなかった。
「おはようございます。こんなに早くにすみません。」
家内がそう言った。
「い、いえ・・・。」
私は、それぐらいしか答えられなかった。
「昨日のお話なんですが・・・。」
「あ、はい・・・。」
私の喉が鳴った。
「嬉しく思っています。本当に私なんかで良いのでしょうか?」
「ええっっっ! ・・・・・・。」
私は、その後の会話を覚えてはいない。
要は、家内が私の申し出を受諾してくれたと知っただけで、舞い上がってしまったのだ。
それから、ふたりの交際が始まった。
いわゆる“お付き合い”が始まったのだ。
今の若い人達からすれば、何とも歯がゆいことかもしれない。
手を握ったこともなく、もちろんキスなどはとんでもない。
それまでに重ねたデートも、ただふたりで並んで何処かへ行く。
映画を観たこともあった。
少し高尚に美術館や博物館にも行った。
互いに京都で生まれ育ったものだから、金閣寺や清水寺などもごく自然に行った。
そして、ただただいろんな話をする。
食事も、昼食だけに留める。
やはり、独身の女性は、夕方までに家へ送り届けるのが礼儀だとされた時代である。
ましてや、家内は実家で両親達と暮らしていた。
家内も、そうしたことは常に意識していたようだった。
陽が傾いてくると、やはり時間を気にしていた。
そして、最後は、家内が家に入るところを遠目に確認して1日が終わっていた。
(つづく)