その3
で、その年の盆休み。
また、京都に帰省することにした。
むろん、その目的は家内に会うためだ。
他の理由は一切なかった。
これは結婚後に家内から聞いたことだが、その「ラブレター」が半年以上も続いたからまた会う気になったらしい。
最初の頃は、適当に返事を書いていたそうだ。
そう、その当時は、遠方の人と手紙を交換する「文通」というのが流行したこともあったようだ。
今で言う「メル友」に近い感覚だったのだろう。
そのうちに来なくなるだろう。
そう思っていたらしい。
距離がある相手だからと、住所も教えてくれたようだ。
それなのに、私からの手紙は毎日のようにやってくる。
一緒に住んでいた両親が不審に思うほどだったようだ。
「こいつは一体誰なんだ?」と迫られたと言って笑っていた。
その時点では、私は家内の手も握った事もなければ、「付き合ってください」とも言ってはいなかった。
手紙を書くから、住所を教えて欲しいと言っただけである。
そして、その手紙の中にも、「好きだ」とか「愛してます」なんて言葉は一切使わなかった。
書いたこともあるが、結局はそれを破り捨てていた。
だからこそ、半年もの間、毎日書けたのかもしれない。
そして、とうとうその盆休みがやって来た。
家内は、それまでは夏休みには友達と旅行に出かけていたらしい。
それを、その年はやめていた。
私の休みがいつ取れるかがなかなかはっきりとしなかったからだ。
それで、いつでも良いようにと、その年はすべての旅行を取りやめてくれていたのだ。
私は、その話を聞かされた時、「ああ、この人と結婚したい」と思うようになっていた。
で、ある日、真夏の金閣寺に行って、そこで「結婚を前提に付き合って欲しい」と告白した。
もうあと2日で盆休みが終わるという日だった。
その日まで、ほぼ1週間、毎日のようにふたりは会っていた。
家内は、「考えさせてください」と一言だけ答えた。
そして、その日は、そこから先、家に送り届けるまで、家内は一言も話さなかった。
で、とうとう、翌日の約束を取り付けられなかった。
正直、私は、悔やんだ。
まだ言うべきではなかったのか・・・。
そんな思いが去来した。
ひょっとしたら、もう会ってもくれないかもしれない。
そこまでを考えていた。
それでもだ。
一度口にした言葉だ。今更、無かったことには出来ない。
(つづく)