その33
「君は、もともと海外勤務が希望だったろう?」
部長は昔の事を持ち出してくる。
「昔の事」と言うのは、私が入社したときに「希望調書」に書いたことだったからだ。
田村部長は、そのことを言っているらしかった。
「あ、はい・・・。」
私は、「今は、その気持も薄くなりました」とは言えなかった。
「君も、そろそろ係長になっても良い年齢だ。
同期入社でも、早い奴は、もう任用されとる。
ただな、君の場合、独身というのがネックだったんだ。
それが今回の事で解消されるんだから、そうした覚悟もあって当然だと言っているだけだ。」
部長はあらぬ方向を見やってそう言ってくる。
つまりは、まともに私の顔を見てはいない。
それが、この人のやり方のようだった。
「あ、はい・・・。」
私は、それしか言えなかった。
確かに、この時代、独身か妻帯者かで人事が変るという話は、言わば公然の秘密として存在した。
終身雇用と年功序列という制度が歴然とあった時代である。
会社も、それなりに従業員を家族と捉える思想があった。
その一方で、会社への裏切り行為は絶対に許さないという君主的考え方も強くあった。
言わば、会社への忠誠心が出世の第一条件のような時代だったと言える。
だからこそ、妻や子供という守らなければならないものを背負った社員が信用されたものだった。
やがて15階に着く。
支店長室があるフロアーである。
エレベーターを降りると、そこにはフロアー受付があった。
ビルの玄関にも受付はあるが、ここはそれとはまったく意味が違う。
「支店長がお待ちでございます。」
受付に居た女性社員が田村部長に言う。
もちろん、顔を知っているのだろう。
「こちらにどうぞ。」
そう言って案内されたのは、「第2応接室」と書かれた部屋だった。
「少々お待ちくださいませ。」
案内してくれた受付嬢が部屋を出た。
「落ち着いて話せよ。」
部長が私にそうアドバイスを呉れる。
そう言う部長も、やや緊張した顔をしていた。
(つづく)