その2
就職をしてからは、全国をあちこち渡り歩いた。
そう、転勤である。
ほぼ2年ごとに転勤が言い渡された。
本当は海外勤務を希望したかったのだが、「まずは会社を知れ」ということで、国内をあちこち回された。
で、30歳になったとき、両親が見合いの話を持ってくるようになる。
そろそろ結婚でもして、孫の顔を見せて欲しいとの思いがあったのだろう。
私はそのすべてを断った。
その当時、付き合っている女性もいなかったのにだ。
それでもだ。
その翌年の正月、京都の実家に帰省したとき、家族で八坂神社に初詣に行った。
そのとき、その神社にいた巫女さんに見惚れてしまった。
それが、2年後に結婚をすることになった家内である。
手前味噌だが、家内は美人だった。
今で言う「カッコ良い女」ではもちろんない。
それでも、如何にも「京美人」と言う言葉がよく似合う、おしとやかな女性だった。
毎日のように神社に通って、何とか話ができるまでに近づいた。
折角そこまで近づいたのに・・・との思いがあって、年始早々10日間の有給休暇を取った。
会社には、「親爺の具合が悪くって・・・」と完全な嘘を付いた。
その熱意が伝わったのか、家内は家の住所を教えてくれた。
さあ、それからは、毎日のように手紙を書いた。
そう、いわゆる「ラブレター」である。
現代のように携帯メールがある訳ではなかったから、毎日手紙を書くことは相当な稼働だったし出費だった。
それでも、どうしてか、毎日書いた。いや、書けたのだ。
その日あったこと、どんな仕事をしたか、どんな食事をしたか・・・。
そんな他愛の無いことばかりを書いていたような気がする。
今の子のように、「愛してます」とかは書けなかった。
もちろん、文章の終わりにハートマークなどを付けることも出来なかった。
最初は、家内からの返事は週に1度程度だった。
まだ、大学生だったこともあるのだろう。
それでも、私はそんなことは気にならなかった。
初めの頃は硬かった文章が、次第に軟らかくなってくるのを感じたからだ。
家内は日曜日に返事を書く。
そして、月曜日の朝に、それをポストへ投函する。
いつも大学近くの郵便局の消印があったことで、それを知ることとなる。
そして、私の寮に届くのが水曜日だった。
水曜日は、すべての付き合いを断ってまっすぐ寮に戻っていたのは言うまでも無い。
「いつからいつまでのお手紙を読みました。」
家内の手紙は、いつもそこから始まっていた。
そして、私の書いた内容に対する返事と、自分の生活ぶりを書いてくれるようになる。
私は、それを読むことで、家内のことを知っていくようになる。
(つづく)