その21
「お電話、頂いたようで・・・。」
家内は、私からの電話があったことを知っていた。
私は名乗らなかったが、恐らくは「男の人から電話がありましたよ」とでも聞いて、気を利かしてくれたのだろう。
「う、うん・・・。三浦先生からお電話を頂いたので・・・。
そのことだけでも・・・と思って・・・。」
私は、それだけを言う。
やはり、仕事場から電話を掛けているという負い目があった。
詳しいことは言い出せない。
「分かりました。それで?」
「それでって?」
「先生、何て仰ったの?」
「来週の日曜日に、ええっと・・・、四条寺町上がったところの“杏”っていう喫茶店に来いと・・・。」
私は、とっさにメモしたものを見ながらそう言った。
「それで、行かれるんですね?」
「う、うん・・・。そのつもりだけれど・・・。」
「じゃあ、今夜、いつもの時間、いつもの場所でお会いできます?
詳しいことは、その時にでも・・・。」
「わ、分かった・・・。じゃあ・・・。」
それで、電話を切る。
周囲の奴等が聞き耳を立てているように思えてならなかったからだ。
家内が大学の研究室の助手になり、私が大阪支店に転勤になってからというもの、ふたりはデートの場所と時間をほぼ固定していた。
何しろ、互いに移動時間が必要だったからだ。
時には、約束の時間に遅れることもあったから、待つことに苦労しない場所として京阪三条駅近くのギャラリーにしてあった。
週単位で展示物が変るのと、中に喫茶コーナーも併設されていたからだ。
しかも、夜の9時まで開いていた。
「いつもの場所」とはそこを指し、「いつもの時間」は、午後の6時半だった。
勤務時間は、ふたりとも午後5時までだった。
市内の大学に勤める家内は6時でも良かったのだろうが、大阪淀屋橋に勤める私はどうしてももう少し時間がかかった。
それで、6時半と決めていた。
私が残業をする場合は、その日のデートは中止となった。
家内には、午後の10時という門限があったからだ。
今の若い人達には信じられないようなことかもしれないが、当時はそれが当然であり、そうして親が娘を守っていたのだ。
その電話を終えてからというもの、仕事に身が入ったのは言うまでもなかった。
頭も手も、自分でも驚くほどによく動いた。
(つづく)