三章 醜いアヒルの子(1)
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梓に指定されたカジュアルイアリアンは、川沿いの飲食店通りに店舗を構えていた。会社の最寄り駅から二駅向こうで下車し、人通りの多い駅前の通りを足早に歩く。約束の時刻に到着できるかは、信号にかかっていた。
せっかく定時で退勤することができたのに、会社の更衣室で着替えと化粧直しを済ませていると、時間は駆け足で過ぎ去った。
さらに運の悪いことに、慌てて乗り込んだエレベーターは各階に停車し、地上に辿り着くまでに相当なタイムロスをすることになってしまった。実際は数分の出来事だったのだが、一時間ほど乗っていたような気にさせられた。「今日に限ってどうして」と何度も考えては、その度に時間を再度確認し直した。
最寄り駅のホームに下車したとき、間に合うかもしれないと胸を撫でおろした。念のために『ぎりぎりになるかもしれない』とチャットで伝えると、梓は『先に店に入ってるよ。予約は宇佐美ね』と返した。どこかで待たれるよりも、先に座っていてくれるほうが、こちらとしても助かる。梓の珍しい気遣いに感謝して、わたしは点滅する信号機を大またで渡りきった。
結局、わたしが店に到着したのはちょうど十九時を迎えたときだった。
ウッド調をベースとして白と赤に統一されたレストランは、華の金曜日が影響しているのか想像よりも混雑していた。女性客が多く、数少ない男性客も隣の女性に連れられてきたのだろう。目視可能な利用客の大半が若い女性で、店内の雰囲気をより親しみやすいものに仕上げていた。
「いらっしゃいませ、ご予約のお客さまでしょうか?」
愛想の良い男性店員に声をかけられる。白を基調とした爽やかな制服が、よりいっそう親しみやすさを加速させていた。
「友人が先に入っていると思うのですが。えぇっと、宇佐美で予約しています」
「宇佐美様ですね。確認して参りますので、少々お待ちくださいませ」
男性店員は、レジ裏に置かれた小さなホワイトボードを確認して、店の一番奥にある半個室へと案内してくれた。
案内された半個室はホールよりも少し落ち着いた色彩の照明だった。梓とまつりさんは、備え付けのタブレットを眺めながら談笑している。
「あ、真白ちゃんだ。久し振りだね、元気にしてた?」
「遅れちゃってすみません。お久しぶりです。わたしは元気にやってますよ。まつりさんこそ、お元気でしたか?」
久しぶりに顔を合わせると、まつりさんとどうやって会話をしていたか思い出せなくなっていた。わたしは、どのレベルで敬語を用いていたか。どこまで砕けた会話を許容してもらえていたか。かつての距離感を思い出すことができない。
「真白ちゃんってば硬いわよ、もっとフランクでいいのに。私の方は元気にしてるよ。仕事は忙しいけど、毎日それなりに楽しくやらせてもらってる。立ち話もなんだし、とりあえず座ってよ」
まつりさんは白い歯を見せて、眩しい笑顔を浮かべた。促されるまま、梓の隣に腰を掛ける。
正面に座ると、まつりさんの姿をよりはっきりと見ることができた。
ショートカットが映える小さな顔に、濃くはっきりとした目鼻立ち。羨ましくなるほどに、すらりと長い手足。黒いノースリーブに白のスキニーパンツの空見合わせは、まるで女性誌から飛び出してきたモデルさんのようだ。それに、耳元を彩る夏らしいピアスが涼し気で、ショートカットが揺れるたびに、つい注視してしまう。
相変らず、綺麗な人だ。
「アズが大学六回になったってことは、真白ちゃんはもう社会人二年目ってことよね」
「はい、このあたりの商社に勤めてます」
「あらぁ、本当に時の流れって残酷ね」
まつりさんは綺麗な手を口元に沿えて、驚きを表現した。左手を彩るリングが、照明に反射してキラリと存在感を主張する。
「そんなこと言いますけどぉ、アズとまつり先輩だって二つしか変わらないですからぁ。もうこの歳になったら、一つや二つなんて誤差の範囲ですって」
アズがタブレット式のメニューを眺めながら、まつりさんにそう言うと、彼女はまんざらでもない様子を見せた。
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけど、やっぱり大学生のときみたいにパワフルには生きれないわ。バイトをいくつも掛け持ちして、就職活動も並行して、デートにサークル。大したことはしてないんだろうけど、いまそれを強制されたら、絶対に目を回してリタイアしちゃう」
「そういうもんですかぁ?」
確かに、学生時代のまつりさんはパワフルな人だった。コンビニのバイトをしつつ、週に一度の家庭教師、不定期での居酒屋バイト。サークルではバトミントンと、他にもボランティア系のサークルを掛け持ちしていた気がする。それに、当時から目をひく美人だったから、言い寄る先輩も多かったはずだ。梓のようにひっきりなしに彼氏が変わることはなかったが、彼女の隣にも常に誰かがいた。
「真白ちゃんはどう? 就職してみて、なにか変わったことはある?」
まつりさんは首を傾げて、少し上目遣いにわたしを見つめて尋ねた
「確かに、副業とかスポーツを定期的に続けるのはまだ考えたくないですね。絶対に、仕事に支障をきたす自信があります」
想像して、思わず苦笑してしまう。営業部の同僚たちと比べて、自分の仕事はデスクワークが中心であるぶん、体力的には余裕があるはずだ。それでも、彼らのように副業や勤務後にスポーツジムでトレーニングをすることは考えられない。
「えぇ……、そんなことばっかり聞いてたら、アズ就職したくなくなっちゃうじゃないですかぁ」
アズはリスのように頬を膨らませて文句を言った。彼女は次に訪れる四月から、製薬会社の営業職に就くことが決まっている。散々自慢していた薬剤師になることは辞めたらしい。
その報告を受けたとき、驚きよりも彼女らしい選択であると納得した。梓の調合による被害が未然に防止されて、なによりだ。
「そうだ、そろそろ注文しなくちゃね。女子会コースを頼みたいって話をしてたんだけど、真白ちゃんもそれで大丈夫かしら? 飲み放題で食後のデザートまでついてくるわよ」
わたしに異論なんてあるはずがなく、嬉々として女子会コースを注文する。
しばらくして、さっき案内してくれた男性店員さんがグラスの白ワインと、生ハムの盛り合わせを運んできてくれた。
まつりさんの「乾杯」の合図で、グラスを持ち上げる。その勢いのまま、わたしたちは一斉に白ワインを口にした。飲み放題のワインにしては飲みやすく、悪くない味だ。
明日が休日でよかった。きっと、今日は飲みすぎてしまうに違いない。そう思いながら、わたしは再び白ワインのグラスを傾けた。
女同士が久しぶりに集うと、話題はもっぱら陰口をベースとした噂話か、近況報告を装った恋愛話に偏る。
学生時代は噂話もそれなりに盛り上がりをみせていたが、社会人になったとたん、人間関係が重なり合わなくなった。梓にしても、まつりさんにしても、わたしの職場の人間なんて知ったことではないだろう。わたしだって、まつりさんの職場の人間のことは誰一人として知らない。大学が同じでも、梓は学部が違い、まつりさんは学年が違う。同じサークルに所属していたわけでもないので、盛り上がることができるレベルで共通の友人はいなかった。
そうなると、話題は必然的に恋愛話へと傾く。
女子会コースも終盤に差し掛かり、メインの選べるピッツァが運び込まれてきた。ピッツァマルゲリータとクワトロフォルマッジの人気メニュー二種類は、どちらも石窯でこんがりと焼きあげられており、香ばしい焦げ目がついている。とろりとかけられた蜂蜜が、なんとも官能的だ。
わたしはあつあつを頬張りながら、もう一度まつりさんの指先を確認する。やはり、一粒のダイヤモンドをあしらったシンプルなデザインのリングが、彼女の滑らかな指先をよりいっそう美しく際立たせていた。
「まつりさん。わたし、ずっと気になってたんですけどね、その指輪……」
「指輪! アズもずっと気になってました」
被せるように梓が同調し、二人して前のめりに乗り出す。
まつりさんは愛おしくて仕方がないと言うように、リングを優しく撫でた。
「ふふ、実はそうなの。今日は、そのことも報告しておかないと思ってたのよ」
赤いワインを傾けて、まつりさんはうっとりとほほ笑んだ。とろりと垂れる蜂蜜やチーズよりも、彼女のほうが魅惑的に見える。
「私、婚約したの。だからこれは婚約指輪。日常的に使えるようにって、爪なしのデザインを選んでくれたみたい」
一粒のダイヤモンドがあしらわれた爪なしのソリティアリングは、まつりさんのためだけにデザインされた特注品のようにも見えた。実際のところは既製品なのかもしれないが、それくらい彼女によく似合っている。
なにより、まつりさんの口ぶりがいつになく幸せそうで、表情の輝きはダイヤモンドにも勝っていた。きっと、婚約者との関係は円満なのだろう。
「婚約おめでとうございます! まつりさんが幸せそうで、なんだかわたしまで幸せです。知ってたらお祝いの品を用意したのに……。あの、これはただの手土産のつもりだったんですけど、どうぞ」
慌てて、手土産のとして用意していたパティスリーのブランデーケーキを差し出す。一本二千円程度の品で、普段は自分へのご褒美として購入しているものだが、婚約祝いとしては役不足が過ぎる。
「ぜひ、婚約者の方と一緒に食べてください。けっこうアルコールが強くて、ブランデーが苦手な方じゃないといいんですけど……」
「ありがとう、裕也もお酒には強いから大丈夫だと思うわ。特に嫌いなお酒を聞いたこともないしね。それに、婚約祝いなんて気にしないでよ。真白ちゃんの気持ちだけで十分だから。そんなことより、私の方こそお土産のひとつも用意してないわ」
後を追うように、すかさず梓も紙袋を手渡した。彼女の方は、今年日本に初出店したことで話題になったコンフィチュール専門店の紙袋だ。
まつりさんはほのかに香るブランデーを嗅ぎながら、幸せを噛みしめるように頷いた。
「そうだ。私ね、来週末に裕也と京都旅行に行くの。伏見に行く予定にしてるから、お土産として日本酒でも送らせて。今日渡せなかった手土産と旅行のお土産を兼ねるから、遠慮はしないでちょうだいね。でも、日本酒って好みが分かれるから、二人とも大丈夫かしら? 無理だったらちゃんと教えてね、他のものを考えるから」
「ありがとうございます、たぶん飲めると思います。わたしたちの方こそ、まつりさんに気を遣わせることになっちゃいませしたね、すみません。京都旅行すごい羨ましいです。裕也さんと楽しんできてくださいね」
日本酒を飲む機会など滅多にないので、正直なところ好きか嫌いかさえも曖昧だ。しかし、伏見の日本酒はテレビや雑誌でも絶賛されていて、憧れているのも事実だった。結果として、まつりさんに気を遣わせてしまったことは心苦しいが、なんて楽しみなんだろう。
「まつり先輩! アズは日本酒苦手なので、抹茶のバウムクーヘンがいいですぅ。駅にたくさん並んでるやつ!」
梓はかなり図々しくお土産のリクエストをしたが、まつりさんは「バウムクーヘンでいいなら、いくらでも」と言って、手帳にメモを残した。
「話は変わるんですけどぉ、今度は質問してもいいですかぁ?」
今度はなにを言うつもりなのか、とわたしは梓を睨んだが、まつりさんはにっこりとほほ笑んだまま頷いた。
「裕也さんとは、どうやって知り合ったんですかぁ? なれそめが聞きたいですぅ」
「実はね、裕也は大学時代からの知り合いなの。同じゼミに所属しててね。卒業してからゼミの仲間内で飲み会をしたときに再会して、そこから連絡を取るようになったの」
梓は嬉々として質問を続ける。まるで修学旅行の夜のように、身体を前のめりに傾けた。しばらくして、まつりさんも同じように前のめりに乗り出す。
「いいなぁ、学生時代からの知り合いなんて。憧れちゃいますね」
「あのときはこんな風になるなんて、ちっとも思ってなかったのにね。理想として思い描いていた百八十センチ以上の身長でもないし、年収一千万でもないし、誰もが振り返るような美男子っていうわけでもないのよ」
まつりさんは本当に幸せそうに話す。それ以上の言葉を見つけることができないくらい、本当に幸せそうだった。
「ちなみに、婚約の決め手は?」
梓が拳でマイクを作り、まつりさんに傾ける。
まつりさんは照れくさそうに躊躇ってから、自信を持って応じた。
「裕也はね、これまでに出会ったほかの誰よりも、本当に単純でわかりやすい人なのよ」
「……単純で、わかりやすい人?」
わたしと梓が目を丸くしたのを確認して、まつりさんはいたずらっ子のように口角を上げた。
「裕也はね、嘘がつけないタイプの人なんだ。嘘をつくときに、わかりやすい癖が出ちゃうの。嘘をつくときだけじゃなくて、嬉しいとき、悲しいとき、不安なとき。それぞれに独特な仕草があってね、そういうわかりやすいところが好き。もちろん、優しくて穏やかな人だし、私のことを一番好きでいてくれるところとか、いろいろあるんだろうけどね。最後の決め手になったのは、そういう単純でわかりやすいところに惹かれたからだと思うの」
「素敵だぁ。アズも、裕也さんみたいな人と出会えたらな」
感嘆の声を漏らしながら、梓はグラスに三分の一ほど残っていた赤ワインを飲み干す。そして、グラスと同じく空っぽの薬指を見て、残念そうに口を尖らした。
「アズもいつかきっと出会えるわよ。ほら、製薬会社に勤めるんでしょう? 素敵なお医者さんと出会えるかもしれないし、同僚に気が合う人がいるかもしれない。まだまだ、これから素敵な出会いに溢れてるはずよ」
「それを期待したいんですけどぉ。このままずっと拗らせて、一生おひとり様街道を歩んでいくのかも」
「そんなことないわよ。真白ちゃんのほうはどうなの? 『理想が高い』って言ってたけど、素敵な人には出会えた?」
セックスが足枷になっているなんてことは知らないまつりさんは、期待を帯びた視線をこちらに向けた。
わたしは誤魔化すようにピッツァマルゲリータを口に運び、それを赤ワインで流し込む。グラスの中で揺れる水面に、自分自身が映り込んだ。ゆらゆらと不安定に、照明とわたしを反射させる。
「まつり先輩、聞いてくださいよぉ。真白ってば、付き合って長い彼氏がいるんですよ。ちなみにその彼氏はアズの紹介なんで、アズは恋のキューピットってやつです」
梓はわたしが飲み込む前に、脚色を加えてから回答した。
別に紹介して欲しいと頼んで覚えもなければ、梓になにかを背を押すようなことをしてもらった覚えもない。ただ場の雰囲気に酔って、余計なことを言いふらしただけだ。しかし、梓が余計なことを言ったおかげで、律との関係は始まった。
「確かに、ある意味では梓のおかげかもしれないですね。思わぬところで、思わぬ人と利害が一致した結果、付き合うことになったので。でも、梓を恋のキューピットなんて言うのは癪ですね」
はっきり言ってしまうと、恋のキューピットなんて可愛らしいものではなく、面倒なスピーカー付き翻訳機だ。
「ひどぉい。そういえば、新田っちは元気にしてる?」
梓はおもむろにスマートフォンを取り出し、画面をスクロールしてなにかを探し始めた。
「律なら変わりなく元気にしてるよ」
「へぇ、律くんって言うんだ。真白ちゃんこそ、律くんと結婚の話が出たりするんじゃない? まだ少し早いかしら。いえ、早すぎることもないわよね」
わたしが、結婚……?
自分には絶対に届かないところにある幸せだと思っていた結婚が、実は手の届く位置にあると言われても、全く想像がつかない。
想像しようとも思わなかった幸せを、目の前に差し出されても、どう取り扱っていいかわからなかった。律との将来を考えるとき、無意識のうちに結婚は除外されていた。
「考えたことすらなかったです。だって、まだ一年半くらいしか一緒に過ごしていませんし。わたしなんかが結婚だなんて、きっとまだまだ先のことですよ。もしかしたら、一生無縁かもしれませんし」
継ぎ足してもらった赤ワインが揺れる。ゆらゆらとわたし自身の心を映し出すように、
不安定に揺れ動いた。
もしも、律がセックスを嫌いではなくなる日が訪れてしまったら、そのときはわたしなんてお役御免だろう。
「あ、いた。まつり先輩、これが新田っちです」
梓がスマートフォンをスクロールする手を止めて、まつりさんに画面を傾ける。探していた写真は、クリスマスイブに撮影したものだった。アジフライを頬張り、笑い合うわたしたちがいる。
「あら、爽やかな美少年じゃない!」
まつりさんは写真を見て、感心したように手を叩いた。
律を褒められると、自分のことのように気分が良い。わたしが釣り合っていないことは、ちゃんと理解している。わたしたちを天秤にかけたら、律の方に大きく傾いてしまうだろう。
「そうなんです。優しいうえに、容姿まで整ってるんです。自分の恋人のことを、ここまで褒めるのもどうかと思うんですけどね。もしも、律の容姿が好きじゃなかったら、付き合ってなかったかもしれません。そう考えると、やっぱり不純ですよね」
実際は、それに加えてセックスを伴わないという、さらに自分勝手な動機が付け足される。まったくもって、ピュアじゃない。
「いいじゃないの。人間って、美味しさの八割くらいは視覚で感じてるらしいわよ。じゃあ、恋愛感情のはじまりも視覚が八割でもおかしくないってことよ」
わたしの隣で梓が何度も頷く。首が取れてしまうのではないかと、心配になるほどの勢いだ。
「私もね、はじめて裕也と二人で出かけたときに、お父さんに似てるなって思ったの。それから何回かデートを重ねていくうちに、やっぱり似てるって確信して。別にファザコン気質ってわけじゃないはずなんだけど、お父さんに似ている人なら、きっと私に優しくしてくれるに違いないっていう根拠のない理由で、お付き合いを受けることにしたの」
まつりさんは恥ずかしさを誤魔化すように、タブレットを操作する。食後のデザートを選択する画面だ。彼女はイタリアンジェラートを選択し、わたしにタブレットを手渡す。わたしも、同じイタリアンジェラートを選択した。
「私ね、小さい頃から実家みたいな家庭が築きたかったんだよね。だから、気が付いていないだけでお父さん見たいな人をずっと探してたのかもしれない。でも、真白ちゃんがこれを聞いても『まつりさんも不純だ』なんて思わないでしょう? 恋愛なんてそんなものなのよ。なにから始まっても、どこに重きを置いても、わたしたち当事者が幸せだったら、なんだっていいのよ。だれにも口出しする権利なんてないわ。真白ちゃんと律くんが思い描く将来の家庭像に互いが当てはまれば、それでいいのよ」
思い描く理想の家庭は、テンプレートのようにありふれたものだ。そのありがちな理想こそが欲張りであるのかもしれないけど、決して不可能だと言われてしまうような高望みではない。
夫がいて、子どもがいる。持ち家じゃなくてもいいから、みんなで暮らせる家がある。
それだけ。ただ、それだけ。
でも、「その理想は、お前が本当に願う家庭なのか」と問われると、素直に頷くことができない。
考えれば考えるほど、愚かな理想だと思う。こんなわたしを選んでくれる人がいると思っていることにも、セックスができないわたしが、子どもを夢に見るなんてことにも。呆れて嘲笑が込み上げてくる。それに加えて、わたしは本当にそれを望んでいるのか。本当に子どもが欲しいと思っているのかさえ、不確かなものだった。
きっと、わたしは誰もが一度は想像したことのあるテンプレートのような家庭を望みつつ、それ自体には興味がないのだ。誰か一人に愛して貰うことさえできれば、それだけでいいと思っている。家庭は、それに対する付属品のようなものだ。誰かに平凡な人間だと称されるための、装飾品に過ぎない。
だから、わたしが理想の家庭について考えるとき、そういう自分勝手なところが露見するからこそ、罪悪感に溺れて苦しくなる。律との将来に「結婚」を意識しようとしなかったのは、それがどれだけ愚かなことか自覚していたからだ。
口にする理想と、真に願う理想はいつも合致していない。
「わたしも、実家みたいな家庭が築けたら幸せですね」
嘘を吐く。喉が引きつって声が震えた。慌てて赤ワインで潤す。空っぽになったグラス越しに、苦しそうに顔を歪める梓が見えた。
長く連れ添ってきた彼女は、この愚かな嘘を見抜いているのだろう。
しかし、そう思ったのも一瞬で、ぱっといつも通りの笑顔に戻る。梓もわたしたちと同じイタリアンジェラートを選択した。
「真白のパパとママ、めっちゃ優しいもんね。真白が実家みたいな家庭に憧れるのも頷けるよぉ。アズも二人とも大好き」
「一回しか会ったことないでしょ。それも、卒業式」
梓がわたしの両親と顔を合わせたのは、大学の卒業式の一回きりだ。卒業を祝うためにわざわざ登校してくれた梓と、はるばる愛媛から出てきてくれた両親。なぜか意気投合して、梓を交えた謎の食事会が開かれた。
「アズ、人を見る目だけには自信があるの。新田っちだって、真白だって、まつり先輩も。アズの周りは、みんな優しい人ばっかりだよ。アズのことを嫌いな人間はいっぱいいたけど、アズの側に居てくれる人は、みんなアズのことを好きでいてくれるもーん」
梓は胸を張って宣言するが、彼女にあるのは人を見る目ではなく、自分自身を嫌う人間を上手く切り捨てていく力だ。
光の速さで距離を縮め、ダメだと知れば同じ速度で切り捨てる。彼女は生物として、純粋生きるのが上手いのだと感じる。誰からも好かれることができるなんて幻想を抱かなくなったぶん、本当に自分を大切にしてくれる人だけをそばに置くように、無意識のうちに選別している。
「だから、新田っちは大丈夫だよぉ。なんてたって、アズが見繕った男だもん」
「アズがそこまで言うのなら、きっと律くんはいい男なんでしょうね」
まつりさんは微笑みを浮かべてわたしを見た。わたしも同じようにほほ笑んで、頷き返す。謙遜しようにも、律は確かにいい男だ。
「失礼します、デザートお持ちいたしました」
イアリアンジェラートを三人分乗せたトレイを持って、店員さんが静かに入室する。ミルキーなイエローグリーンはピスタチオ、黄みがかったホワイトはタヒチバニラ、目が覚めるように鮮烈なレッドはラズベリーといったところだろう。それらは運ばれてくる道中の暑さで、少し溶け始めていた。
デザートスプーンですくいあげ、口へと運ぶ。予想通りの三種類で、口の中に清涼感をもたらしてくれた。濃厚なタヒチバニラ、香ばしいピスタチオ、甘酸っぱいラズベリー。それぞれに独特の個性があり、どれも捨てがたい魅力がある。溶けていく速度に追いつかれないように、次々に口へと運ぶ。
しかし、溶ける速度は想像よりも速く、デザートグラスの底には混ざり合った液体が残ってしまった。
「あー、美味しかったぁ。まつり先輩、今度は結婚のお祝いしましょうよ! アズ、結婚式の動画が見たいです」
「いいわよ。そこまで盛大な式にはしないつもりだから、アズの期待に沿えるかはわからないけどね」
「先輩のウエディングドレス姿が見れたら、式の規模なんて気にしませんよぉ」
「アズに見せるためにも、明日からまたボディメイク再開しなくちゃ。まだ婚姻届けも出してないし、気が早いかもしれないけど、着たいドレスのデザインがあるのよ。ブライダルフェアで試着したときにね、背肉が目立って……」
まつりさんは背中をさすりながら深いため息をついたが、それすらも幸せを帯びている気がした。
「背肉……。まつりさんのナイスバディでそうなら、アズのたるたる二の腕はいったいどうしたら……」
「アズは鎖骨周りが特に綺麗だし、オフショルのデザインなんかよく似合いそうよ」
「そうですかぁ? まぁ、まずは相手を見つけるのが先ですね」
梓は二の腕をつまみながら、まつりさんのナイスバディを恨めしそうに眺めた。
そのあとも、背肉や二の腕、腰回りに首。互いの身体を評価しあいながら、撲滅したい脂肪の話題で盛り上がりを見せる。
わたしは、そんな二人にお手洗いに行くことを告げ、個室を抜けだした。
お手洗いは女性向けのお店らしく、かなりゆったりとしたつくりになっていた。化粧直し専用のスペースも設けられており、ファミリー向けのショッピングモールのお手洗い同等の快適さだ。お手洗いついでに、身だしなみを整える。いくら会社で化粧直しをしたとは言っても、数時間も経てば崩れてしまっていた。
手櫛で乱れた髪を整え、ポケットに忍ばせていたコーラルピンクの紅を引く。唇に色が添えられ、顔色が一気に華やかになった。
鏡に向かって表情をつくる。髪型と唇のおかげで、大分まともになったわたしのすましが映り込む。
どれだけ取り繕っても、わたしは周りに溶け込むことができない醜いアヒルだ。
わたしの父、成瀬真一は家庭を大切にしてくれない人間だった。
大手家電メーカーに勤めており、お金に苦労したことは一度もなかった。わたしは高校から私立に通っているが、授業料の高さについて言及されたことはない。それに、彼の性格は営業マンらしく、快活で爽やか。男としてはかなりハイスペックに分類されたのだろう。
しかし、他所の女に入れ込み、帰宅することは極めて稀。帰ってきたと思えば、母に罵詈雑言を吐き捨て、わたしの存在はないも同然だった。決して暴力を振るうことがなかったのは、人間としては最低になり切れなかったためだろう。不自由なく学業に励めたのも、間違いなく彼のおかげだ。ただ、父親としての成瀬真一をわたしは認めない。
わたしの母、成瀬白雪は年齢を感じさせない麗しさを持ち合せた人間だった。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花――この言葉が彼女以上に似合う人間を、わたしは未だに知らない。そんな彼女も女性としては、素晴らしいスペックだったのかもしれないが、母親としてはひどいものだった。彼女も彼女で他所に男を作り、家で過ごす時間は徐々に減っていった。
若く、美しく、才に溢れた両親にとって、子どもは邪魔なお荷物だったのだろう。
わたしたち家族の間には、どうしようもなく愛が足りなかった。
――と、いったような家庭環境の複雑さがあれば、まだ救いがあったのだろうか。仕方がないと割り切ることができる日がやってきたのだろうか。
残念ながら……、幸いなことに、成瀬家は順風満帆。それこそ、絵に書いたように幸せな家庭だ。これこそが、理想とされる平凡な家庭だと胸を張って言える。
父、成瀬真一は公務員。決して高給取りとは言えないが、安定した収入で家庭を支えてくれる。性格はマメで真面目。些細な記念日を大切にしてくれる理想の夫で、結婚から二十数年が経ったいまでも母にぞっこんだ。
もちろん、娘であるわたしのことも溺愛している。大学入学を機に一人暮らしをしたいと伝えたときには、一人酒で男泣きをしていた。立ち直るまでに長い時間を要したことは言うまでもない。
母、成瀬白雪は決して絶世の美女ではない。容姿に関して述べれば、愛嬌があり、誰にでも朗らかな笑顔を向けるので、「可愛らしい」と称されることの方が多いはずだ。彼女も平日は地元の農協で働き、休日はなるべく家族団らんの時間を確保しようと努力した。わたしと父に手作りの弁当を用意し、忙しい合間を縫ってお菓子を焼くこともあった。父の鉱物は母が作ったチーズケーキ。まさに、絵に書いたような理想の妻で、わたしにとっては理想の母だった。
わたし家族には……、わたしの両親には、とめどなく溢れる愛があった。
そんな温かい家庭でぬくぬくと育ち、たいした不自由や理不尽に立ち向かうこともなく生きてきた。トラウマになるような経験や、思想の偏りが激しい人間もそばにはいない。
目の前の鏡に映るわたしは、父と母のそれぞれによく似ている。母譲りの丸い瞳に、笑ったときに八重歯が見える口元の雰囲気。瞳と髪における色素の薄さは父譲りだ。
ここまで容姿が似ているのに、わたしは彼らには似ても似つけない。彼らのように、愛情深くは生きられない。一身に愛を受けつつ、それを誰にも還元しない。
鏡に映る自分のすまし顔が、殺したいほど憎かった。