二章 ピュアホワイト(3)
電波時計の針は随分と前に動きを止め、とうとうスマートフォンが震えることも無くなった。それでも、唯一の連絡手段であるスマートフォンを手放す勇気は、セリナにはまだ湧いてこなかった。
現状は誰も教えてくれない。真実は、誰も知らないのかもしれない。ただ、ついに電波塔さえも制御不能に陥ってしまったということは、明らかな事実だった。
セリナは確かめるように、恋人のユースケの手を握った。暖かく人間らしい柔らかさは、現状におけるたった一つの救いだ。
この国では、二週間前に人間の石化現象が確認された。
文字通り、人が石になる。対処法はおろか、原因さえも依然不明のままだ。わかっていることは、ほんの僅か。つま先から始まった石化が、脛部・腿部・腹部・胸部と進行し、最後には頭の先まで石へと変えてしまう。心臓に達した時点で、生命活動を停止しそうなものだが、ご丁寧に頭部が石化しきるまで意識は保つようだ。
残される者たちは幾度となく、石化に蝕まれていく家族や友人たちを見送ることを強いられてきた。
セリナとユースケは、隣接する西国を目指して逃げる。最後にスマートフォンから得た情報によると、石化はこの国だけでの現象だとされていたからだ。少しずつ減少していく他の生存者たちも、二人と同様に西国へと逃げているはずだ。もしくは、逃げることすら諦め、その場に留まり祈っている。
ただ、石化現象の発現は時間や場所に囚われない。
西国へ向かって逃げる二人だって、祈る者たちと等しく平等に石化の可能性にさらされているのだ
「ねぇ、ユースケ。セリナたち、きっと助かるよね。大丈夫だよね?」
「大丈夫だよ。きっと、ボクたち二人でなら逃げ切れる。父さんも、母さんも、マリアも、ジュンも石化したけど、必ず科学が解明してくれる。だから、ボクたちは国の外に逃げるんだ。この奇怪な現象から逃げ切った生存者として、この国を救ってくれるところを探すんだ」
ユースケはセリナの手を引き、西国へ向かって再び駆け出した。
石化が人間の死であるとは限らない。石化を解くカギさえ発見することができれば、元に戻すこともできるかもしれない。
二人はそれだけを信じて走った。西へ、西へと足を運ぶ。疲労が足を重たくした。その度に、自分も石化が始まったのではないかという不安に襲われた。
それでも、たった一筋の希望の光だけを頼りに、二人は西国を目指した。
絶望はいつだって、希望の直前でやって来るものだ。
太陽光で充電可能な持ち運び式充電器を使用していたセリナのスマートフォンが、数日ぶりに震えた。西国に近づいたことで、西国の電波を受信したのだ。
受信したメールは、国家から発令される緊急災害情報だった。サイトをクリックし、簡潔に現状が羅列された特設ページへと飛ぶ。
操作をするセリナの指は緊張から小刻みに震えていた。
『石化を発症した生物は数日の時を経て、生命活動を停止することが判明』
二人の脳裏に浮かんだのは、すでに石化した両親や友人たちだった。
「もし、セリナたちが逃げ切れたとしても、ママもパパも、マリアもジュンも、先生たちもみんな助からないってこと……?」
ユースケは返答することなく、下唇を強く噛みしめた。血がにじむ、悔しさで震えていた。
「とにかく西国に逃げよう。やっぱり、向こうでは石化が発症してないんだろう? とにかく、ボクたちだけでも逃げるんだ」
二人の家族、考えうる限りの友人たちはみな石化した。発症から数日で死に至るのならば、初期段階で石化を発症した彼らが生きている可能性は、限りなくゼロに近いということだ。
それならば、セリナだけでも守り抜きたい。セリナだけは失ってなるものか。
ユースケは絶望に染まったセリナの柔らかな手のひらを握りしめて、力強く西国への一歩を踏みしめた。
西は、遠い。
二人の住む町は、国の中でも最東部に位置していた。もっとも、本来ならば北に位置する国が自分たちの逃亡に協力すべきだった。北ならば、すでに辿り着いていたに違いない。
ただ、原因不明の石化現象を抱える他国の民を受け入れてくれるような寛大な国は、西にしかなかった。自力で辿り着くことが前提だとしても、それに縋るしか道は残されていなかった。
石化現象が始まってすぐのころ、ダメもとで北を目指した仲間たちは、とうとう帰還することはなかった。石になった彼らを見たわけではないので、北へ逃げ切った可能性もあるだろう。もしかすると、電波が途絶えるまでに辿り着けなかったのかもしれない。それならば、連絡がないことにも頷ける。
しかし、不確実な希望だけを胸にして、北を目指すほど愚かにもなり切れなかった。
(あぁ、疲れた。足が重たいな)
ユースケはふと、足の疲労を強く感じていることに気が付いた。「きっと、長距離移動のせいだ」と言い聞かせるが、セリナの歩く速度について行くことが苦しくなっていた。
そうなると、いよいよ自分の足の違和感が疲労によるものでないと悟ってしまう。明らかに重たいのだ。疲労などではなく、物理的に。
覚悟を決めて、足元に視線を向ける。
石化は足先を侵食していた。徐々に広がるそれは、もう自分がたったの一歩でさえも動くことができないことを知らしめる。
「ユースケ? どうしたの?」
振り返ったセリナが青ざめた。
「ごめん、セリナ。ボクはここまでだ。ボクを置いて、西国へ逃げて欲しい」
石化はついに足首までをも蝕んだ。痛みはない。それだけが救いだった。置いてきた仲間たちが痛みに苦しんだという事実がなくてよかった。
「嫌だよ。ユースケを置いて逃げるなんて、セリナにはできない」
「お願い。ボクは少し先にみんなのところに行くだけだから。そこで、ちゃんとセリナのことを待ってる。何十年でも、何百年でも、ずっと待ってる。だから、セリナは少しだけ遠回りをしてから、そこにおいで」
ユースケだって石になるのは怖かった。だけど、ここで弱いところを見せてしまえば、セリナはこれ以上西へと進まないだろう。それだけは避けなければならなかった。涙さえも堪えて、優しい言葉を探す。
その言葉を受けて、セリナは大粒の涙を流した。零れ落ちた涙は、石像となり果てたユースケの足元を雨のように濡らす。
「嫌だよ。どうしてユースケまで石になっちゃうの? セリナを置いて行かないで。ユースケが一緒じゃないなら、セリナも石になりたい」
「セリナ、お願いだから。ボクを恨んでもいいから、西へ逃げて」
生きたいと願い、西へ逃げた。
死にたいと願っても、自らの意思では石化することができなかったから。
セリナも石になってしまいたかった。家族も友人も失った。ついに、恋人までもが石化を発症した。セリナはとうとうひとりぼっちになる。
「どうして、セリナは石になれないんだろう。どうして、セリナは生きないといけないんだろう」
嘆くセリナの頭に、ユースケが手を伸ばすことはもう叶わない。
言葉でさえも、すでに残り僅かだ。
「ボクは他のなによりも、他の誰よりも、セリナのことを愛してる。これからも、ずっとそれは変わらないよ。だから、セリナは今世を目一杯生きてよ。そして、またいつかボクに教えて。セリナがどんなものを見て、どんなものを食べて、どんな風に生きたのか。そしたら、また次の世界こそ一緒に生きよう」
泣きじゃくるセリナは、何度も小さく頷いた。
ユースケは最後の言葉を振り絞るために、動かし辛くなった口を懸命に開閉させる。それが音になったかは、二人にしか知りえない。
「約束だよ」
ついに、ユースケの景色は途切れた。
音も無くなり、白い世界が広がる。
来世も、その先も、どんな世界になったとしても、必ずセリナを見つけてみせるよ。