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ピュアホワイト  作者: 仁科 すばる
3/17

一章 ウィンウィンの関係(2)

 通い慣れた居酒屋は、少し入り組んだ閑静な住宅街のさらに奥にある。駅からも、クリスマスツリーからも離れているせいか、客足は今日もまばらだった。

店の前にある植物たちが、無理やりにクリスマスツリーに仮装させられている。それに塗られていた蜜は、今日の主人公にはなれなかった人間を集める仕様だったのかもしれない。店内に集まった客は、どこか物足りない顔をしていた。

 キッチンに立つ店主は、百円ショップで売られているようなサンタ帽をかぶっている。布地の薄い安物だ。

「お、いらっしゃい。まだ空いてるから好きなところに座ってよ」

 四人掛けのテーブル席に着いて、まだ空いている店内を見渡すと、壁掛けのホワイトボードに大きく「クリスマス特別コース」と上書きされている。二千五百円の表記の周りには、紙製の花が添えられていて、これがまた陳腐な印象を抱かせた。しかも、無駄に多い。

 クリスマスイブに予約も無しで入れるような店に、キラキラとしたクリスマスらしさを求めてはいけないことは、はじめからわかっていた。しかし、中途半端にクリスマスらしさを演出されると、不自然さばかりが強調されてしまい、余計に陳腐な印象を抱かる原因になってしまっていた。

「お嬢ちゃんたち、クリスマスにウチ選ぶなんて物好きだね。今日はなに飲む?」

 安上がりなサンタが、上機嫌に伝票を持ってやってきた。

「おじちゃんイベントとかお祭り騒ぎが大好きだから、今日も気合入れちゃったよ。クリスマス特別コースも用意してるんだけど、二千円ぽっきりのお得なメニュー。良かったらどう?」

 通い詰めたせいで、もうすっかり顔なじみになってしまったおじちゃんが陽気に笑った。釣りが趣味だと言うおじちゃんの顔は、冬にもかかわらず日焼けをしていて、それがまたサンタ帽を不釣り合いに見せた。

「ほんとは二千五百円なんだけど、おじちゃんからのクリスマスプレゼント。大出血サービスで二千円! どうかな、お得に感じないかい?」

「おじちゃん。そんなにお得なら、どうしてみんな頼まないの?」

 梓が周囲を見渡しながら尋ねた。同じように見渡してみるが、みなクリスマス特別コースらしきものを頼んでいる気配はない。ビール、枝豆、冷ややっこ。焼き鳥、焼きおにぎり、つくねに……

 うん。やっぱりいつもの飲み放題に、単品メニューを少しずつ。クリスマス特別コースを頼んでいる客はどこにも見当たらない。

「実は、あんまり人気なくてね」

「やっぱり、おじちゃんが頼んで欲しいだけじゃんかぁ。アズ、今日はちょっとずつ単品メニューから選びたい気分なんだけどぉ」

 おじちゃんは残念そうに眉を下げた。もう一押ししてみるが、梓は首を縦には振らなかった。

「おじちゃんさ、なにを仕入れたの? 保存が効かないようなのがあるんでしょ」

 クリスマスイブ当日に五百円値引きしてでも、売り切らなければならないなにかが組み込まれているコースなのだろう。

「おじちゃんさ、クリスマスらしくしたいがために、ケーキ仕入れちゃって。駅前のケーキ屋さんで買ってきたやつだから、味はおいしいはずなんだけどね。なにせみんなお酒を飲むもんだから、ケーキはいらないって。単品でもケーキは頼めるんだけど、無理やりにコースに組み込まないと売り切れそうにもなくてね」

 おじちゃんは、残念そうに溜息を零した。丸まった背中が、やけに寂しそうだ。

「せっかく駅前のグーテで買ったやつなのになぁ。若い子もいらんなら、年寄りはなおさらに食べんよなぁ」

 グーテは駅前の古い菓子屋だ。「仕事が丁寧で上品な味だ」と、ゼミの教授が絶賛していた――が、はっきり言ってしまうとむさ苦しい居酒屋。客はお洒落やSNS映えとは無縁の中年男性ばかり。そりゃ、ケーキなんて売れっこない。

 でも、クリスマスケーキの寿命は残り僅かだ。その価値は、もうすぐ地に落ちてしまう。

「仕方がないなぁ。サンタに免じてケーキはあとで注文するよ。とりあえず、梓はなに飲むの?」

「アズはカルーアミルク! 真白が食べるんなら、アズもあとで食べるよ」

 勢いよく挙手をして答えた梓の横で、おじちゃんがわかりやすく喜びを表情にした。眉が大きく動くので、喜怒哀楽が読み取りやすい。

思わず苦笑を漏らし、新田くんにも同じことを尋ねた。

「オレも協力するよ。飲み物はとりあえずレモンチューハイで」

「なにそれ。『とりあえず』ときたら、生ビールだと思うじゃん」

 とりあえずの後に続く言葉は「生」だと構えて、なんだか肩透かしをくらった気分だ。実家の父が「とりあえず生」を定番のフレーズにしているので、その影響を受けすぎているのかもしれない。

「おっさんじゃないんだから。オレ、ビールって苦手でさ。お腹出るって言うじゃん。ビール腹」

「確かに、お父さんにお腹は妊婦さんみたいだ。あのお腹には、ビールとアジフライしか詰まってないけどね」

「あー、いい! オレ、アジフライ食べたいな。真白さんナイス」

 そういうことを提案したかったわけではないが、まぁいいか。

「カルーアミルク一杯と、レモンチューハイが一杯、それからハイボール一杯、アジフライとシーザーサラダで。あとは、また決めて呼びます」

 おじちゃんは伝票を抱えて厨房に戻り、満足げにホワイトボードから紙花を三つ取り払った。あの紙花が残りのケーキの個数を示すものだとしたら、あと二十個くらいあると思うのだが、売り切れる算段は最初から付いていたのだろうか。

「アズ、あと頼みたいものある? 新田くんも」

「アズはポテトとお月見つくね! あとは二人にお任せだよぉ」

「えーと、オレは……」

 メニューを真剣に眺める新田くんは、やはりたいそう整った顔立ちをしている。クリスマスにわざわざ女子会に乱入しなくとも、もっと有意義な今日を活用できただろうに。さっきのナンパ野郎はマイナス百ポイントだったけど、新田くんならその顔面だけでプラス二千ポイントくらいは稼げそうだ。ルックスで評価される世界は嫌いだけど、ナンパの世界において大切なのは、コミュニケーションスキルと顔面偏差値だけ。なにせ、相手を知るための要素が少なすぎる。普通の女の子ならば、新田くんレベルになら着いて行ってしまうに違いない。

「オレ、だし巻き卵は食べたいな。真白さんのおすすめは? 真白さんはこの店のなにが好き?」

「わたしのおすすめは、ニンニクの丸焼き。臭くなっちゃうけどね。あとは、豆腐ステーキも絶品だよ」

 わたしは採点をしたことを心の中で謝罪して、なるべく丁寧に質問の答えを返した。

「じゃあ、それも食べたい」

 新田くんは、また顔をくしゃくしゃにして笑った。目尻にしわが寄る、ひとの良さそうな笑顔だ。

「おまちどう!」

 右手にグラスを三つ、左手につきだし三つを乗せたトレイを、おじちゃんは器用にテーブルへ運んだ。水滴を纏ったグラスが、木製のテーブルにシミをつくる。それをなんとなく指でなぞると、梓が勢いよく声を上げた。

「とりあえず、メリークリスマスイブ!」

 からん、と風鈴のような爽やかな音を立てて、グラスがぶつかり合う。梓は一杯目のカルーアミルクを一気に飲み干して、意味もなく声を出して笑い始めた。

「あはは、おじちゃん、もう一杯同じの! あと、ついでに注文も!」

「なに、梓。もう酔っぱらったの?」

 陽気な笑い声で、ゆらゆら左右に揺れる梓を横目で睨むと、手を左右に振って否定を示した。

「なに言ってんのさ。アズがアルコールにめっぽう強いの知ってるくせにぃ。今日なんて新田っちしかいないのに、そんなことしないよぉ」

 梓はおじちゃんから二杯目のカルーアミルクを受け取って、再び口に含んだ。

「アズ、酒強いんだ」

「うん、まーったく酔わない。びっくりするほど強いんだぁ。酔ってる風に見えるのは、場の雰囲気に酔ってるだけ! あ、周りの子たちには言っちゃダメだからね」

 梓は素面が酔っ払いレベルでハイテンションなことに加え、場の雰囲気さえ酔える人間なのだ。ちなみに、アルコールそのものにはかなりの耐性があり、本当に酔いつぶれた姿は見たことがない。二人で宅飲みをしたときには、安物のミニボトルワインを一人で数本空けてしまう。それでも、けろりとへっちゃらなのだ。

 しかしこの女、そうとう質が悪い。

 強いからこそ、男がいる飲み会では酔っている風を装う。梓曰く、「酔わないけど、酔っているフリをするのは自由」とのことだ。酔っているフリがあまりにも上手すぎて、はじめてその姿を目撃したときには、本当に心配したものだ。いま思えば、泥酔ではなく可愛らしく酔っていたような気がする。

 同性のわたしを欺けるのなら、異性を騙すことなんて朝飯前だ。

 こんな風に、宇佐美梓という女はどこまでも強かで計算高い女なのだが、本人にその自覚はまるでない。彼女が一定数の女に嫌われるのは、そのせいだ。

「アズがアルコールで酔うのは、とっておきの良い男がいるときだけだよぉ。だから、目当ての男がいつ現れてもいいように、なるべく普段から弱いフリを装うの。ながぁい前振りだね」

 梓は珍しく自分の手の内を明らかにした。

つまり、梓にとって新田くんは、本当にただの知り合いということになる。頭一つ飛び抜けたイケメンなのに、珍しいこともあるもんだ。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、わたしの一杯目のハイボールと、突き出しのナッツを口に放り入れた。

 あぁ、美味しいな。梓ほど強くはないが、お酒はけっこう好きな部類だ。


 すぐにアジフライとシーザーサラダがやってきて、追加の注文も済ませた。おじちゃんが「これはクリスマスプレゼントね」と言って、頼んでいない煮卵をサービスしてくれる。

 まずは、揚げたてのアジフライを皿に取り分けた。油のはじける音が鳴るアジフライに、特性のソースをかけて頬張る。さくっと衣がテーブルに舞い散り、口の中では身が歯切れよく崩れた。次はタルタルソースを乗せる。濃厚な卵と、揚げたてのフライの組み合わせは、背徳感たっぷりだ。罪悪感と絡み合って、これこそが飲み会の醍醐味だと言える。

 余韻が消えないうちに、ハイボールを流し込むと、思わず感嘆の声が漏れた。

「あぁ、美味しい」

「真白、おっさんみたい」

「別に、女子会なんだから気にしないでいいじゃん」

「あはは、アズと言ってること変わんないじゃん。仲間だぁ」

 場の雰囲気に酔える女は、さっき入ったばかりのサラリーマンたちの雰囲気に当てられて、すでに絡みモードに突入している。

「おじちゃん、ハイボールとタコの唐揚げも追加で」

「はいよー!」

 空になったグラスの中で音を立てながらぶつかる氷たちは、純度が高く透き通っていた。

所帯じみていて、洒落っ気のない居酒屋だけれど、こういう細やかな部分がお気に入りの店になった所以だ。

 おじちゃんは気さくで優しい。メニューは豊富で、なおかつ味も良い。お酒も安い大衆チェーンのように薄くない。これだけで、もう十分すぎるくらいだ。

「はいよ、おまち!」

 追加で注文したハイボールを受け取ると、正面に座る新田くんと目が合った。長い睫毛が瞬いて、つい爪楊枝を何本乗せることができるか想像してしまう。

「新田くんはさ、どこに就職するの? それとも進学?」

「オレ? 文系だし、そのまま就職するよ。安心安定のお役所勤め」

 ゼミのメンバーのひとりが公務員試験で苦しんでいたことを知っているので、新田くんも同じ苦しみを味わっていたのが、なんだか意外だった。もっとアパレル業界だとか、編集さんだとか、わたしの想像上におけるキラキラとした職業に就くイメージがあった。

「意外っしょ。新田っちが汗水垂らしながら公務員試験って、想像しにくいじゃんね」

「アズっていつも失礼だよな。オレだって、普通に勉強くらいするし。そういう真白さんのほうはどこに就職するの? それとも院?」

 新田くんは、アジフライにタルタルソースを乗せて大口で頬張った。すぐにレモンチューハイを口に含み、口角がたまらず緩む。幸せそうに食べる姿が、これまた好印象を抱かせた。

「わたしは地域採用で、事務系の職につくよ」

「へぇ、ここらへん?」

「うん。地元は四国の方なんだけど、帰るのはなんか違うなって」

 わたしの実家は、四国の中でもそこそこの田舎にある。テレビのチャンネルが四つしかないようなところだ。大学進学を機に実家を出てからは、積極的に帰省することはしていない。

 新田くんは、まだ半分以上残ったレモンチューハイをわずかに口に含んでから尋ねる。

「真白さんは地元嫌いなの?」

「嫌いじゃないよ。そりゃ、なにもないところだけど、みんなが考えるより悪くない。でも、あそこは狭い世界だから窮屈なんだよ」

 夜の妖しいライトも、人の喧騒も、幸せをおびき寄せるクリスマスツリーでさえも好きじゃない。だけど、それがなければわたしの「普通」の仮面はすぐに剥がれ落ちてしまうだろう。だから、田舎には戻れない。狭い世界の狭いコミュニティ。そのなかで生きていくには、わたしは少しばかり異質すぎた。

「ねぇ、アズにも聞いてよぉ! アズはね、薬剤師さんになるんだよ。かっこいいでしょ、意外でしょ?」

「何回も聞いてるよ。それに、梓はあと二年通わないと、試験すら受けれないじゃない」

「アズ、薬剤師には国家試験があるって、ちゃんとわかってる?」

 たとえ梓が薬剤師の国家試験を通ったとしても、わたしは絶対に調合を任せたくはない。可能ならば、チェンジを申し出たいところだ。雑で適当。入学して四年目に突入したいまでも、彼女が薬学部の講義を全うしていることが信じられない。

 新田くんとわたしの解答が気に食わなかったのか、梓はいくつか文句を垂れてから、カルーアミルクを飲み干した。

「もうその話はおしまい! それより、昨日は大変だったんだよぉ。ね、新田っち?」

 急な話題を振られた新田くんは、苦虫を噛みつぶしたかのように苦悶の表情を浮かべて頷いた。せっかくの男前が、急激に老け込んだようだ。

「なにかあったの? レジ詰まった?」

「違うよ、もっと最悪。ロープラにさぁ、久しぶりにおにぎりおじさんが来てさぁ、マジで迷惑だよ」

「あぁ、なるほどね」

 ロープラは、わたしが入学と同時に勤め始めたコンビニエンスストアで、梓とはそこで出会った。

「おにぎりおじさん二カ月ぶりくらいじゃない?」

「アズはもっと長いこと会ってなかったのになぁ」とぼやきながら指折り数えたが、ついに思い出せなくなって考えるのを辞めた。

「おにぎりおじさんって、アズだけの呼び名じゃなかったんだね」

 わたしたちの言うおにぎりおじさんというのは、店のおにぎりを全種類買い占める客のことだ。数か月に一度の頻度で来店して(普段は昼間や早朝に来ているのかもしれない)、一種類でも欠けている商品があると、怒鳴り声をあげて店員を罵倒する。端的に言えば、迷惑で悪質極まりないクレーマーだ。おにぎりが常時、全種類そろっていることなんてありえないと理解して欲しい。

「でも、これでしばらくは来ないかな。わたしとしてはラッキーかも」

「他人事だと思ってぇ。あいつ鎮静化するのに苦労したんだからぁ。ま、『新田っちが』だけどね」

 残念、どちらにしても他人事には変わりない。

 二人とも気の毒だとは思うが、わたしのシフトのときにさえ来店してこなければそれでいい。できることならば、卒業までこないでくれ。

「しかもね、そのあとに三十二番の人も来てさぁ。新田っち、これまためちゃくちゃに怒られたんだよぉ」

「タバコ出せなかったんだ、ドンマイ」

 三十二番の人、というのも悪質なクレーマーのことだ。来店するなりレジに来て、「あれ」とだけ言う。もちろん、どこかを指差ししてくれたりもしない。「あれ」というのは、三十二番に陳列されているマルボロのソフトのことなのだが、それを出せないと怒鳴るのだ。商品を間違えてもダメ、聞き返してもダメ。店員は、お前と長年連れ添った妻じゃない。

「マジで最悪。二十二歳にもなって、人前でガチ泣きするかと思ったよ」

「レジでは泣かないでね。泣いたら、それこそ三十二番の思うつぼだから。あいつ、新人見ると、ここぞとばかりに並ぶからね。間違いなく確信犯なんだよ」

 そうは言っても、泣きたい気持ちもよくわかる。わたしも入店してすぐのころに、大声で罵倒された。あのときの恐怖を思い出すだけで、気が滅入ってしまう。よくいままで勤務し続けることができたな、と自分を褒め称えたいくらいだ。当時に在籍していたまつりさんがフォローしてくれなければ、いまごろ辞めていたに違いない。

「それでですよ。可哀想な新田っちにクリスマスの予定を尋ねたら、『クリスマスはぼっちだ』なんて言うもんだから、誘ってしまいました! アズってば、優しい」

 クレーマーからクリスマス。随分と飛躍したな。

「まぁ、もうなんでもいいや。梓の行動で細かいこと気にしてたらキリがないしね。それより、新田くん『あれ』」

 新田くんは一瞬だけ鳩が豆鉄砲を食らったようにキョトンとした顔をして、そのあと嬉しそうに笑った。待ってましたとでも言いたげだ。

「はい! マルボロのソフト、お待たせいたしました」

「よし、合格。飲んで良し」

「あははー! 真白ってば、けっこう酔っぱらってなぁい?」

 梓の声がいつもよりも少しだけ高く聞こえ始め、新田くんにはキラキラとしたエフェクトが掛かって見えた。

 少し酔ってるかもな――そう思っても、この幸せな空間に身を置きながら、ハイボールを止めることは不可能だった。



 あぁ、明らかに酔っているぞ。

 そう自覚したのは、飲み始めてから二時間ほどが経過したころだった。クリスマスみたいな書き入れ時に、こんなにも長居を許してくれる店はあまり多くないだろう。大した注文もしていないというのに、なんていい店なんだ。遠慮がちに店内を見渡してみると、周りの客もあまり入れ替わっていなかった。

「そろそろケーキ頼もうかぁ」

 ダメだ。自分の声が甘ったるく間延びしている。自分で声色さえも制御できなくなってきたようだ。そろそろ酔っぱらい特有の平常時ではありえない失態を冒しかねない。それを危惧して、冷水で酔いを覚まそうとした。

 冷たい水は、規則正しく食道を通過していく。少し脳がクリアになった気はするが、きっとまだ平常ではないのだろう。

「おじちゃーん! 真白が酔っ払いになり始めたからぁ、そろそろケーキの注文にするね。アズ、チョコレート系が好きなんだけどぉ、種類なにがあるの?」

「おっ、チョコのやつはあるぞ。他には、アップルパイとフルーツタルトがあるけど、そっちのお嬢ちゃんと兄ちゃんはどれにする?」

 おじちゃんは、箱一杯に詰められたチョコレートケーキを見せながら尋ねた。

 アジフライとハイボール。その他もろもろの食べ物たちが胃の中で消化待ちの大行列を作っている。これはもう、胃もたれ必須だった。

 なるべく軽く食べることができそうで、なおかつ一番小ぶりなアップルパイを選択させて貰おう。このラインナップにおいて、最も日持ちしそうなケーキだということには、こっそり目を瞑った。

「わたし、アップルパイ」

「オレも……」

「はいよ! サービスで暖かい飲みもんも入れとくな」

 しばらくしておじちゃんは、温かい緑茶とケーキを乗せたトレイをこちらに持ってきてくれた。

ボードの花はいくつか減ったものの、まだ半分くらい残っている。それを眺めていると、大学の講義で話を聞いた「クリスマスケーキ理論」のことを思い出した。詳しくは知らない。二十五日を過ぎてしまうとクリスマスケーキの価値が急激に下がるように、女の価値も二十五歳を過ぎると、急激に下がってしまうという古い考え方らしい。現代でそんなことを大声で言おうものなら、袋叩きに遭っても文句は言えまい。

 でも、そんな馬鹿げた理論に対して一理あると思うわたしも確かに存在した。

 歳を重ねても美しく輝き続けることができるのは、自らを愛することのできる人間の特権だ。自分自身のことをひどく嫌い、これからの人生に期待をしていないわたしは、クリスマスケーキのように朽ちていく運命を辿るのみだ。いや、そもそもクリスマスケーキのように一時の価値すら持ち合わせていないのかもしれない。

 悲しい理論を頭の中で並べながら、フォークとナイフでアップルパイをつついていると、スマートフォンのバイブレーションがテーブルを振動させた。

 梓のスマートフォンだ。

「アズ、出なくていいの?」

「いいのいいの。今日は出れないよって、最初から宣言してるしぃ」

 新田くんは、苦笑を浮かべて続ける。

「噂の年下彼氏くんだろ? クリスマスなのにまるきり放置してたら、さすがに可哀想だろ。ほんとはアズと一緒に過ごしたかったんじゃない?」

 新田くんはアズを見て、それからわたしのことを短時間だけ見た。わたしに対する多少の遠慮が、そうさせたのかもしれない。

 梓には二カ月前に交際を始めた彼氏がいる。名前は遠藤悟くん。二対二の合コンとも呼べない合コンで知り合った、一つ年下の医学部生だ。梓が勤務中に大きな声で遠藤くんの話をするので、バイト仲間は全員知っている。

「いいのいいの。別に、いつかは絶対別れるんだし。逆に、それまでの間はどーせいつでも一緒に居られんだから。大切なイベント事は真白と過ごすって、アズは最初から決めてんのぉ」

 梓は新田くんと同じように、わたしと新田くんとを交互に見た。

 一度しか顔を合わせたことのない遠藤くんに対する多少の罪悪感が、わたしの心をゆっくりと蝕む。彼にとって、わたしは面倒で邪魔な小姑的な存在なのだろう。

「真白さんは? 真白さんこそ、アズと一緒でよかったの?」

「わたしは少し前に別れちゃったから、いまはおひとりさま満喫中なの」

 二カ月前、梓との合コンの席で知り合ったもう一人の医学部生の子とは、つい先日に別れた。およそ一か月。わたしにしては、割と長続きしたほうだ。歳を重ねるごとに、恋人でいられる期間は短くなってしまう。でもそれは、わたしにはどうしようもないことだ。

「真白はクリスマス前には別れるかなって、アズは最初から予知してたよぉ」

「失礼ね、どういうことよ」

「そのまんまぁ」

 新田くんは話題についてこられなくなったのか、居心地悪そうに視線を彷徨わす。わたしと梓を行ったり来たり。見ているこちらが目を回しそうだ。

「どうせ、今回も同じ理由じゃん」

「仕方がないでしょ。できないものは、できないままだし。気持ち悪いものは、やっぱり誰が相手でも気持ちが悪いんだから」

「じゃあ付き合わなければいいのにぃ。まぁさ、そんなに単純な問題じゃないことも、わかってるんだけどさぁ」

「わたしね、今回も付き合う前にちゃんと伝えたんだよ。前回も前々回も。それでもいいよってみんなが言うから、毎回飽きもせず、そのほんの少しの可能性にかけちゃうんじゃん」

 セックスができない。わたしは、そのことをきちんと伝えている。苦手ではなく、できないからしたくない、と。元恋人たちは揃いも揃って了承してくれるが、なぜかいつも上手くいかない。貞操観念が強く、すぐには身体を許さないだけだ。そう解釈されてしまう。そしてみな、時間の経過とともに痺れをきたして去って行く。

 おまえは、いつまでそんなに固いことを言うのか、と。

「まぁさぁ、アズはそっちサイドの人間だから、そいつらの気持ちもわかるよ。だってさ、アズはやっぱりしたいもん」

 梓は意地悪に含み笑いをして、ここぞとばかりに新田くんに視線を向けた。

「ね、新田っち?」

「ちょっと待って、オレ全然ついて行けてない。なんの話してるの?」

 ようやく話の流れをせき止めるチャンスを得た新田くんは、もう一度「なにがしたいの?」と繰り返し尋ねた。その問いを受けた梓は、待ってましたと言わんばかりの不敵な笑みを浮かべる。

「そんなの決まってるじゃーん」

 梓は新田くんを覗き込み、ゆっくりと言葉を溜めてから、「セックス」と言った。

 おい、公共の場では口にしないでくれ。

 梓を咎めても、無駄な抵抗にしかならないことは明らかなので、頭に軽く打撃を与える。それほど力を込めたつもりはなかったが、梓は「うぎゃ」と動物の鳴き声を彷彿させる悲鳴をあげた。

「ごめん、新田くん。気にしないで、むしろ忘れて。梓、やっぱり酔っぱらってるのかもしれない」

 雰囲気にね、と心の中で付け足す。この女、質の悪いことに、全くの素面だ。酔っているのは、確実にわたしのほう。

 お願いだから、この場では「忘れました」と言って欲しい。実際は忘れてなんかいなくても、それだけで心が軽くなる気がする。

 願いを込めて新田くんを見つめると、彼はなにかを考えて込むようにうつむいた。

 長い睫毛が瞬く、その風の音さえ聞こえてしまいそうだ。

「真白さんはなんでシたくないの? あ、いや。答えたくないよね、ごめん」

 言い終わったあと、我に返ったように焦りを露わにした新田くんが、あまりにも可哀想で居たたまれない。女子会での下ネタは彼にとっては魔窟だ。

「そんなに気にしないで。特別に隠してるわけじゃないし。ほら、気持ち悪くない? 人間って理性的に振る舞ってるくせに、やっぱり根本は動物的なんだと思うと、どうしても受け入れられなくて。すべての愛情は、性衝動から生じた、ただの気の迷いなんじゃないかって。そしたら、急に全部が気持ち悪くなったの」

 トラウマや、それに準ずる暗い過去があるわけでもない。性自認も、いたってノーマル。男の人を好きになる。だけど、そこに性欲だけが付随してこない。

 やけになり、アップルパイを頬張る。アルコールと油が待ち受ける胃の中で、糖分が拒絶されている気がした。

 緑茶を流し込んでも、それを中和してくれることはなく、ただ気持ちが悪い。アップルパイの味は間違いなく美味しいのだが、食べるタイミングが悪すぎた。

 梓と新田くんは、甘いものは別腹というように幸せそうに口へ運ぶ。わたしの胃袋はすでに年寄りなのかもしれない。

「じゃあさ、真白さんはオレと付き合ったらいいよ」

「なんで? ちゃんといまの話聞いてくれてた?」

「だからさ、そこも良いんだよ。オレもセックスはいらない。嫌いだから」

 衝撃で返す言葉が見つからない。

 それなりの爆弾発言を、「明日は雨だよ」と同じ温度で言ってのけた新田くんは、アップルパイの最後の一欠片をフォークで突き刺した。

 咀嚼を繰り返し、ゴクリと喉仏が上下する。

「それ、なにかの冗談?」

「あはは! それほんとだよぉ。新田っち、草食系通り越した絶食系男子だから。ウケるっしょ」

 新田くんはなにも答えず、代わりに返答をしたのは梓だった。ケラケラと嬉しそうに肩を揺らす。

 他人が酒の肴にするには、かなりセンシティブすぎる内容だ。そもそも、どうして梓はそんなことを知っているのだろう。いや、知っているからこそ、新田くんはただの知り合い止まりなのかもしれない。

 新田くんに縋るように視線を送るが、彼は顔色一つ変えずに緑茶を啜った。また、喉仏が上下する。

「そうそう。オレ、草食系通り越した絶食系なの。だから、心配ないよ」

「マジで笑うんだけどぉ、新田っちのそういうところマジで最高!」

 二人して実は酔っているのだろうか。

「ほら、他になにか聞いておきたいことはない? オレ、いまならなんでも答えるよ」

「ほら、でもさ。不全ってことではないんでしょう? それなら、やっぱりさ。男の子なんだし……」

 わたしは直接的になりすぎないように、なるべく遠回しに尋ねる。それでも、下品な会話には違いなかった。夜の居酒屋でなければ、完全にアウトな会話だ。夜の居酒屋でも、限りなくアウトに近いかもしれない。

「つまり新田っちは、EDじゃないんだから、勃つときもあるっしょ?」

 わたしがせっかく曖昧にぼかした質問を、デリカシーをどこかに忘れてきた梓が直接表現に変換してしまう。なんて迷惑な翻訳機だ。

 新田くんは眉を八の字に下げ、照れ臭そうに頬を数回掻いた。

「ないって言ったら、嘘になるね。でも、自己処理で十分なんだよね」

「はぁ」

「だから、真白さんがよければオレと付き合ってよ。したくないオレと、できない真白さん。ウィンウィンじゃない? 余計なこと気にしないで生きてけるよ」

 再びゴクリと上下したのは、わたしの喉だ。

 外野で梓が茶化す声が、やけに遠くに響く。甲子園の打席に立つバッターは、こんな気持ちなのかもしれない。そんな、現状に全く関係のないことばかりが脳裏に浮かんでは消えた。

 そんなことよりも、考えるべきことは目の前の甘い誘いだ。

 まさにウィンウィンの関係――わたしの恋愛を阻害してきたセックスが、はじめから存在しない関係は、どれほど魅力的か。それに、新田くん自身も魅力的な人間であり、わたしには釣り合わないと恐れ入るほどだ。

 かといって、わたしは新田律という人間をあまり把握していない。同じコンビニに勤務するイケメンという程度の認識だ。

些細な倫理観が、そんな曖昧な感情で付き合って良いわけがないと、意義を申し立てている。

 悩むふりをして、アップルパイを口に押し込む。

 ゆっくりと咀嚼を繰り返し、少しでも時間稼ぎを試みる。

 ダメだ、断らないと。理性は、些細な倫理観を尊重しようとしている。

 だけど、もう二度とこんな人間は現れないかもしれない。そりゃあ、広い世界にわたしと同じような思考を持ち合せた人間はごまんといるのだろう。だけど、その人と出会えるかどうかは、わたしの運次第だ。

 わたしは、普通になりたい。普通に幸せになりたい。セックスさえ伴わなければ、わたしは愛を手に入れることができるはずだ。本能は、自らの欲望を優先したいと渇望していた。

 咀嚼を繰り返す。口の中に残っているのは、すでに原型を留めていないアップルパイだったものだけだ。

「真白さん、どうかな? オレはいいと思うんだけど」

 新田くんは骨ばった大きな手を、こちらに向けて差し出した。揺れる熱を帯びた瞳に映り込むわたしは、いつになく女の顔をしていた。

「わたしなんかでよければ」

「オレは、真白さんがよかったよ」

 掴んだ手は思っていたよりも冷たく、新田くんが冷静であることを知らされた。

 恋の始まりは、いつだって唐突で予想がつかないことばかりなんだよ――以前、梓が言い訳のように説いた言葉が、クリスマスの魔法にかけられて、急に信ぴょう性を帯びた。

 もういなくなったはずのアップルパイが、再びその存在を甘く主張した。



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