四章 だから、来世はそばにいて(6)
乾いたチャイムが来客を告げる。インターフォンを確認しなくても、それが誰かはわかりきっていた。
ゆっくりとチェーンを外し、ドアロックを解錠する。緊張で息をすることすら忘れてしまいそうだ。逸る鼓動とは裏腹に、身体は思うようには動いてくれず、すべての動作に普段の三倍の時間がかかった。
「どうぞ」
「おじゃまします」
あの夜から一週間と一日。律は少し痩せた気がする。目に見えるほどの変化ではないが、やつれた顔が栄養不足を物語っていた。それくらい、わたしのことを考えて悩んだのかもしれない。
あれほど渇望していた愛情が、痛いほどに苦しい。
「これ、買ってきたんだ。一緒に食べようよ。今日は日曜日だから」
白い紙箱を丁寧に持ち上げる。駅前の菓子屋「グーテ」のものだ。
皮肉なことに、今日は日曜日。本来ならばクジを引く日だった。
とうとう引かれることはなかったグーテのクジ。同じように箱の中で眠ったままのクジたちは、一生眠りから覚めないのだろう。日の目を見ることもなく、捨てられることもなく、ただそこにあり続ける。
「ありがとう」
律は「気にしないで」と首を振った。
「ここの店、真白は覚えてる?」
「当たり前じゃん、忘れるわけないよ。居酒屋のおじちゃん御用達の菓子屋で、この日曜ボックスを作ったお店だもん。……ついにそのクジは出なかったね」
何度も引く機会はあったのに、その気配すら見せなかった。その確率もそうとうなものだ。
律は眉を下げて笑った。言葉はなかったけど、肯定を示していた。
つい最近のことのようで、ひどく遠い昔のように思う。過ぎ去るのは一瞬なのに、思い返すと一年半という長い時間を実感させられる。
わたしにとってこの一年半は、人生の中で一番短く、一番長い日々だったのかもしれない。
「まだ」と「もう」の境目は、いつだって曖昧なものだ。
「準備するね。律はなに飲む? って言っても、緑茶か紅茶かコーヒーの三択しかないんだけど。やっぱりコーヒー?」
「ううん、緑茶がいいな」
律は珍しく緑茶を所望した。これまでに二人で行ったカフェや喫茶店、ハンバーガーショップでさえもブラックコーヒーを頼む彼にしては珍しい。
「めずらしいね。アップルパイに緑茶でいいの?」
「だって、あのときがそうだったから」
律は頬を掻き、眉を下げて笑った。
その動作で、「あのとき」がボックスを作ったあの日ではなく、すべての始まりであるクリスマスイブを示していることは十分に理解できた。
あのクリスマスイブの日は、「まだ」なのか「もう」なのか。わたしには、判断できない。
「よく覚えてるね」
「真白との思い出は、なに一つ忘れられない宝物だから」
「やっぱり、律は乙女だよ」
「真白にだけだよ」
その言葉にお世辞や、愛情以外の思惑が含まれていないのは、これまでの日々でよく知っている。
変わることのない愛情はないけれど、増えていく愛情はたしかにここに存在してくれた。
「インスタントだけど、いいかな?」
「うん、全然いいよ」
ケトルに水を張り、スイッチ入れる。棚にしまってあるマグカップをキッチンに置くのにも、長い時間を要した。カトラリーが収納されている棚の端からインスタントの緑茶パックを取り出し、封を切ろうとする――そこで、ようやく違和に気が付いた。手が震えている。それをかばうように、動作が無意識でスローモーションに徹していた。
深呼吸を繰り返し、震えが止まるように努める。泣いてしまわないように、強く下唇を噛んだ。
「どうぞ、熱いから気を付けてね」
「ありがとう」
二人分のマグカップが並ぶ。わたしの家にあるものは、テーマパークで揃えたものだ。
キャラ違いのペアマグカップが寂しそうに肩を並べる。楽しかった記憶の数々が、いまのわたしの首を絞める。あざ笑うかのように、力強く、憎しみを込めて締め上げる。
「いただきます」
アップルパイを口へ運ぶ。味はわからなかった。緑茶を啜る。落ち着くために飲んだはずなのに、心は余計に乱れる一方だった。アジフライを頬張り笑うわたしたちの姿が、網膜にこびりついて離れてくれない。
律も同じようにアップルパイを口へと運び、緑茶で喉を潤した。喉仏が拒むように、ゆっくりと上下する。二口目を飲み込んだところで、律は皿の端にフォークを置いた。
躊躇いがちに、それでいて真っすぐにわたしを見つめる。
「真白、聞いて欲しい」
わたしも皿の端にフォークを置いて、黙って頷いた。膝の上で、拳を握りしめる。
長い沈黙が流れた。
正確な時間はわからないけど、途方もなく長い時間、自分の手のひらに食い込んだ爪を見ていた気がする。
でも、それは律も同じだった。静かに落とされた視線は、テーブルの下の拳に注がれていて、その拳は痛いほどに強く握りしめられていた。
「真白、傷つけて本当にごめん。許してもらえるなんて甘いかもしれないけど、本当にごめん」
ようやく口を開いた律は、勢いよく頭を下げた。何度も何度も、壊れたオルゴールが同じ旋律だけを奏でるように、繰り返し謝罪の言葉を続ける。
「もういいよ」
律は顔を上げた。膜を張った涙が零れまいと懸命に震えている。
「もう、あの日のことはいいよ。別に怒ってもいない。怒ってるとしたら、悔しいとしたら、これまでの間、ずっと律がわたしに嘘を付き続けていた事実に対してだけだよ」
律は事実を噛みしめるように、静かに目を閉じた。瞼が震える。目尻から涙が溢れた。
「もしあのとき、オレが絶食じゃないって言ってたら、真白はどうしてた?」
「どうしたって、どういうこと?」
「そのままの意味だよ。あのときオレが嘘を付かなかったら、セックスができない人間じゃないって知ってたら、真白はオレを選んでくれた?」
「そんなの」
当たり前じゃない、と言いかけて言葉に詰まった。
あのとき、わたしたちの間には愛情なんてものは存在しなかった。あったとしたら、律からの一方通行の恋だけだ。あの時点で、律が嘘を付いていなければ、わたしは律を選ぶことはなかった。わたしはあの手を取らなかった。
律が嘘を付いてくれなければ、この幸せな日々は始まることすらなかった。
「ねぇ、真白。もうひとつだけ、聞いてもいいかな?」
わたしは小さく頷いた。
それを見た律の表情が優しく緩み、悲しそうに揺らいだ。再び張った涙の膜が、まるで水晶のようにキラキラと反射する。
「オレ、真白のことが好き。いまも、昔も、ずっと。愛してるなんて簡単な言葉じゃ表現したりないほど、大切に思ってる。片付けも料理も得意じゃない。それでも、一緒に映画を見たり、真白が行きたい店を回ったり、会社の愚痴を聞いてるだけでも幸せだった。どんなにくだらないことだって、真白とだったらなんだってよかった。
……隣に居られるだけで幸せだけど、そりゃあもちろんセックスもしたいと思った。でも、好きだから、大切だから我慢できるよ。それが、真白のそばにいるための絶対条件だってわかってるから、これからもずっと我慢したい」
律は一つ深呼吸をして、続けた。
「これからも、ずっと我慢して生きていく覚悟はある。お酒はもう一滴も飲まない。それなら、真白はそばにいてくれる? それとも、よこしまな気持ちを抱いた時点で、オレはもうダメ?」
縋りつくようで、まだ諦めきれない熱量を持った瞳がこちらを見つめている。
律はすべての欲を飲み込んで、それでもそばにいたいと言ってくれている。
律がわたしにくれた愛も、本当はピュアな感情だったのかもしれない。わたしが望んだ真実の愛だったのかもしれない。たとえ、そこにセックスが伴ったとしても、律がくれるものはピュアな愛だったのかもしれない。
「律はどうしてわたしだったの? 律は絶食
系じゃない。容姿だって整ってる。なのに、どうして最初からセックスもできないようなわたしを選んだの?」
律はごくりと生唾を飲んだ。喉仏が上下して、肩の力がすとんと抜ける。
「人を好きになるのに、理由なんてないよ。気がついたら、アズの隣にいる女の子をずっと目で追ってた。ただ、それだけ。好きを深めていくまでの過程にはいろんな理由があったんだろうけどね。でも、それをいま考えたところで、どれだけ当時の感情を反映してるかなんて、もうオレにもわからない。後付けの理由なんて、真白もいらないでしょ?
それでも、いまここに存在するオレは、確かに真白を選ぶよ。真白のとなりにいるためなら、パイプカットだって喜んでしてみせるよ」
律はすべてを託すように、再び目を閉じた。いま語られたことが、律が伝えたいすべてだった。
わたしは、答えを出さなければいけない。すべてを受け取ったなら、それに対する答えを返さなければならない。
わたしは律のことが、やっぱりどうしようもなく好きだ。世界で一番愛してる。ずっとそばにあり続けたい。
でもそう思うと同時に、もう一緒に居てはいけないと思う。
どちらかが一生我慢を強いられる関係は、きっと健全とは言い難い。わたしたちにあるのは些細なすれ違いなどではない。人類の……、生物の根源たる違いだ。
人間の欲求は理性で抑え込むことが可能でも、消えることは決してない。
それと同じで、きっとわたしも変わらない。ずっと変わることができない。
わたしはきっと、セックスがしたかった。負の感情を抱くことなく、普通の恋人として歩んでいきたかった。
セックスでしか愛を確かめることができないなんて、ただの動物と一緒だ。そうやって、否定し続けてきた他人の価値観。そこにピュアな愛情は存在しないと、拒絶し続けてきた。いまもその気持ちは存在するし、これから先セックスをしようと思うことはないのだろう。二十数年間生きてきて、揺らぐことがなかったこの意思が、いまさらになって手のひらを反すことはあり得ない。
でも、律と過ごしたこの日々で、わたしはようやく気が付いた。
わたしも、所詮は愚かな生き物なのだ。できないこと、したくないことに変わりはなくても、愛の終着点がセックスに至ることを、自分もそれに縋るしかない愚かな生物であることも、ちゃんとわかっていた。
だからこそ、自分には辿り着くことのできないその境地を忌避して疎んで、拒んできたのだ。
この日々を、律はいったいどんな気持ちで過ごしてくれていたのだろう。
あの長くて苦しい夜を、律はどんな気持ちでやり過ごしてくれたのだろう。
理解することはできない。理解したふりをすることは簡単だけど、わたしもそれをするほど薄情な人間にはなり切れない。
好きな人と同じ好きを共有したい気持ちと同様に、好きな人と同じ苦しみを共有したい気持ちもある。でも、苦しみを共有することはとても困難なことだ。わたしたちは、どれだけ寄り添っても、所詮は赤の他人でしかないのだから。
わたしの中に、すでに答えは出ていた。律と出会うより前から、ずっと答えは持っていた。
「やっぱり、わたしたちはもう無理だよ」
絞り出して掠れてしまった声は、無理をして震えていた。滲む世界が、この関係の終わりを告げている。堪えきれずに、何度もしゃくりあげた。
普通の幸せ。
普通に幸せになりたい。
ずっと描き続けた普通の幸せは、わたしから一番遠い場所にある。手を伸ばしても、どれだけ努力を重ねても、決して届くことはない。
「幸せになりたい。欲張りかもしれないけど、普通に幸せになりたかったの。律と一緒に過ごした日々は、幸せも普通もすべて手に入れた気がしてた。これからも、ずっとこの幸せを抱いて生きたかった。でも、わたしは自分なんかの幸せよりも、律に普通に幸せになって欲しい。律の我慢の上で成り立つ幸せなら、そんなものはない方がいい。わたしは普通の幸せなんか、一生手に入れられなくてもいい」
わたしは涙で滲んだ世界のまま、律のことだけを真っすぐに見つめる。そして、自分の欲に蓋をした。
「だからね、律は普通に幸せになって」
だれも、わたしの意思を尊重してくれなかった。
律だけが、わたしに変わることを強いなかった。
だから、わたしも律に自分を押し殺すことを、欲求を我慢することを強いたくない。
息を吐く、ゆっくりと吸い込む。ひきつった喉は、か細い息を漏らしていた。
「律、わたしにセックスを求めるのは契約違反だよ。契約の不履行。だから、これできれいさっぱりおしまいにしよう。そういう約束だったよね。浮気をしても、セックスを迫っても、そのときは綺麗さっぱり終わりにしようって」
律はなにも返さなかった。返せなかった。気持ちが追い付かず、言葉はどこにも見つからなかった。
皿に残った最後の一切れのアップルパイ。涙を押し込めるように、口の中に詰め込んだ。
ゆっくり、時間をかけて咀嚼を繰り返す。
無くならないで欲しい。終わりなんて来なければいい。
そう願うほどに、口の中のアップルパイはすぐに消えていなくなってしまう。
欲しいものはいつも手に入らない。わたしが願うものは、指の隙間から逃げていく水と同じだ。すくっても、すくっても、大切にしたいと思うほどに、逃げ出してしまう。
嗚咽が響く、喉が震えてひどく苦しい。律が何度もしきりに涙を拭う様子が、涙で滲んで見えなくなっていた。
「ごちそうさま。クジはでなかったけど、こうやってまた食べられたね。最後がこのアップルパイで、よかったよ。きっと、わたしは忘れない」
その言葉を聞いた律は、ポケットの中から一枚の紙切れを取り出して、それをテーブルの上に置いた。
「もう一つ、謝るよ。あのクジは、いつかプロポーズするときに引きたかったんだ。だから、出てこないように、最初から抜いてあった。出てくるはずがなかったんだよ」
ぐしゃぐしゃになった紙切れを指で広げる。下手くそなわたしの文字で『グーテのアップルパイを、また二人で食べに行く』と書き記されていた。
「約束、守れなくてごめん。このクジを引けなくて、ごめん」
困ったように泣き笑いする律と視線が交わると、流れ続けていた涙が決壊したように勢いを増した。
「謝らないでよ。律はなんにも悪くないよ。だって、わたし幸せだったんだもん。律が我慢してくれてたおかげで。ずっと幸せだったんだもん」
涙が止まらないわたしの頭を二回撫で、律はゆっくりと腰を上げた。大切にクジを二つ折りに直し、そのままポケットにしまう。そして、もう一度わたしの方を向き直り、いつになく穏やかに笑った。その表情とは裏腹に、身体は無理をして震えている。
「じゃあ、行くね。うちにある真白の荷物はアズにでも任せておくよ」
律の背が遠くなる。もう二度と掬えない場所に行ってしまう。
「待って」
律は振り返り、「どうした?」と言葉を待ってくれる。続く言葉を探し続けるわたしを急かすことなく、ずっとそこで見守ってくれた。
わたしは、律になにかをあげることができただろうか。ここに確かに存在した愛情を、正しく伝えることができていただろうか。
いま伝えないと、二度と伝えることはできない。今世のわたしは、今世のために生きてあげないといけない。そうでないと、今世に生まれた意味がない。
「わたし、今世でちゃんと徳を積むから。律の分まで徳を積むから。だから……」
律は驚いたように、目を見開いた。
「わたし、世界で一番律のことが好きだから。ずっと、これからもずっと愛してたこと忘れないから。だから……、
だから、来世はずっとそばにいて」
言葉足らずの愛情を受け取って、律はゆっくりと顔を寄せた。
震えていたのは、いったいどちらの唇だったのだろう。
わたしたちはどんなことを思って、震えていたのだろう。
最後のキスは、甘く煮詰めたりんごの味がした。
――成瀬真白、二十四歳。わたしは、セックスができない。
お付き合いいただきありがとうございました。
いつかデビューするその日まで、努力を続けます。
ここまで読んでくださったみなさま、評価をつけてくれるとわたしが喜びます。