四章 だから、来世はそばにいて(4)
「きゃっ」
視界が反転して、天井と律の整った顔だけが視界を占拠した。わたしの腕は律によってソファー縫い付けられ、少しも動かせない。優しい律にここまでの力があったなんて知らなかった。
心臓がどくどくと速く、強く脈打つ。しかし、これはときめきなんて可愛いものではない。わたしの中で嫌な予感と焦りが警鐘を鳴らしているのだ。
一刻もはやく逃げなくてはいけない。そうわかっていても、抑えられた腕が無理だと示し続けている。
熱を帯びて潤んだ瞳。そこにどれだけの理性が残っているかわからない。わからないけど、アルコールに冒されて平常でないことだけは確かだ。
「ねぇ、律……?」
わたしの呼びかけにも気が付いていないのか、律はそのまま唇を重ねた。わたしの様子を伺うこともなく、生ぬるい舌が侵入してくる。
きついアルコールの匂い。同じだけ飲んでいたはずなのに、律のそれはより一層濃く感じられた。
「オレ、真白のこと愛してる。だから、ずっとそばにいさせてよ。ダメだってわかってるけど、やっぱり好きだからシたい。大切にする。なぁ、ダメ?」
いつもより呂律の回っていない律の言葉が零れ落ちたとき、わたしたちの時間は急停止した。
交わった視線はそのままに、ソファーに縫い付けられた腕もそのままだ。
ただ視界に映る律の瞳だけが、絶望に打ちひしがれたように、大きく見開かれた。
「冗談、だよね……?」
時間を思い出したように、わたしは震えはじめる。嫌悪や不快感よりも先に、恐怖が身体を震わせていた。「冗談だよ」と笑って誤魔化してくれさえすれば、わたしは行き過ぎた悪戯だと咎め、元通りに戻ることができるかもしれない。
僅かな希望を込めて律を見つめると、彼は徐々に唇を震わせた。
「お、オレ……。真白、オレ」
律の動揺が、いま起きてしまった出来事の深刻さをじわりと痛感させた。罪悪と怯えをはらんだ表情のまま、吐き気を堪えるように律は口元を強く抑えた。
「ましろ、ごめん。ほんとうに、ごめん。ごめん、泣かないで」
いつの間にか解放されていた腕で、目元を拭う。指摘されるまで気が付かなかったが、涙が頬を濡らしていた。
「律、ごめん。わたし、今日は帰るね」
床に転がっていた鞄だけを攫い、慌てて部屋を飛び出した。
八月とはいえど、夜は暗い。
都会の夏は、ひどく冷たい。
知ってしまった幸せが、この暗く冷たい夜を作り上げている。
ぽつり、ぽつりと一定の間隔を空けてそびえ立つ街灯を追いかけるようにして、自分のアパートまでの道のりを逃げるように走る。
息が切れて苦しいなか、これまで過ごした一年半の楽しかった思い出が走馬灯のようにフラッシュバックしてきた。
思い出しては涙が込み上げてくる。何度もむせ返るのに、泣くことも走ることも止められない。なにかから逃げないと、それから逃げ切らないと、わたしが壊れてしまいそうだった。
こんなちっぽけな一夜の過ちで、本来ならば恋人の正常な営みで、わたしたちの関係は簡単に破綻する。
なぜ、どうして。
そう考えれば考えるほど、問題があるのはどうしてもわたしのほうで、青ざめた律の顔がちらつくたびに吐き気が襲い掛かってきた。血の気が引くという表現が、あれほどまでに相応しいことがあるなんて、わたしは知らなかった。
わたしが普通じゃないばかりに、大切にしてきてくれたのに、なにがどうしてこうなってしまったのか。わたしが日本酒なんて勧めてしまったらこうなった。わたしが至近距離に座ったからこうなった。わたしがセックスできないからこうなった。
わたしが、わたしが……
なだれ込むように飛び込んだ玄関の姿見に、家を出たときよりもずっと老けたわたしが映る。悪魔に魂でも売ってしまったのか、人間らしい生気がまるで感じられなかった。
着衣に乱れはない。かつて交わした「服を脱ぐまで」のラインは超えていない。だけど、律が禁忌を冒したことには違いない。
たったいま、律の長い嘘が露呈した。
最初から、ウィンウィンの関係なんかじゃなかった。
薄いアパートの壁のことなんて気にも留めず、わたしは大きな声で幼子のように泣きわめいた。
スマートフォンが何度も震えていたが、しばらくすると力尽きたように静かになった。
いままでにも悲しくて眠れない夜はたくさんあったけど、こんなにも長く苦しい夜は、はじめてだった。
すべての感情を無に帰すような青空で目を覚ました。
開いたままのカーテンから鋭い日差しが差し込み、泣き疲れたわたしを照らし出す。暖かな太陽の光を見ていると、自分の心を蝕む暗闇が、より一層濃くなった気がした。
這うように廊下を進み、スマートフォンを充電ケーブルに差し込む。喉が渇いていたが、水を飲むために立ち上がる気力すら残されていなかった。
大げさかもしれないが、このまま死んでもいいと思う。それくらい、ここは地獄の奥底だった。這い上がれないくらいなら、いっそ終わりにしていまいたい。
しばらくして息を吹き返したスマートフォンが、一斉にチャットアプリの通知を知らせる。三十四件が律からのもので、あとを追うようにして梓からも二件入っていた。
『今日、会おうよ』
『ねぇ。いつになくアズに会いたい気分でしょ』
深夜一時五十三分。梓からの連絡は、律からの怒涛のチャットラッシュが途切れてすぐの受信だった。予想にしかすぎないが、律が泣きついたのだろう。
二日酔いのせいか、泣き疲れたせいか。その両方のせいかもしれないが、内側から鈍器で殴られたように頭が鈍く痛んだ。追い打ちをかけるように目の奥が熱く、じんわりと滲むように痛い。
梓に会いに行くだけの気力もないが、このまま家にひとりだと、本当にすべてを終わりにしてしまいそうだった。
『夜でいいなら、梓に会いたい』
しばらくして既読がつき、不似合いなほど軽い『了解』の意を示すスタンプが画面で踊った。
『ロープラの手前にあるファミレスで、何時が良い? アズはいつでも』
『二十二時』
『オッケー』
そんなやりとりをしている間にも、二回着信が入ったが、とうとう応答することはできなかった。
もしも今日、律が死んでしまったら、それはきっとわたしのせいだ。
そう思っても、その着信に応答するだけの勇気は湧いてこなかった。この家に直接訪ねてこないということは、彼もまた、直接会うだけの勇気を備えることができなかったのだろう。
わたしたちに必要なのは話し合いなどではなく、すべてを忘れさせるだけの永遠よりも長い時間だけだ。