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ピュアホワイト  作者: 仁科 すばる
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四章 だから、来世はそばにいて(3)

「なぁ、お前ら知ってたか? 子どもってセックスしないとできないんだぜ? 俺たちは、父さんたちがセックスしたから生まれてきたんだぜ」

 中学生に兄がいるというクラスのお調子者の男子が知識を見せびらかすように言って回ったのは、まだ小学四年生のときだった。

 そのとき、わたしはセックスという言葉の意味をはじめて正確に理解した。そりゃあ、精子と卵子が結合して……、うんぬんの知識は持っていたけれど、それ以上の意味を持つ行為だと知ったのは、そのときだった。

 満更でもないように可愛い悲鳴を上げる女子たちと、それに味を占めて過激化した男子たちの下ネタ合戦を、教室の隅で冷めた気持ちで見守っていた。同じように冷めた視線を送る子は、わたし以外にもたくさんいた。

 この時点のわたしは、まだ普通だった。


 中学生のとき、はじめて銭湯以外で「女の人」の裸体を見た。

 校舎の耐震工事で簡易なプレハブが建てられた、中学二年生の夏のことだ。

 一階にある女子トイレと男子トイレに二枚ずつ、アダルトビデオのワンシーンを撮影して、拡大コピーしたものが貼り付けられた。きっと同じ学年の誰かが出来心で行ったイタズラだ。周囲は誰が犯人なのかとざわめいていたが、わたしは犯人なんかよりも画像釘付けだった。顔も身体も綺麗な女の人が、汚らしくよだれを垂らしている姿が衝撃的で、ある種のグロテスクさに恐怖を覚えた。

 その日の終礼で、学年主任が鬼の形相で犯人捜しをしたけれど、とうとう発見にはいたらなかった。

 そのあと、同じような犯行が繰り返されるうちに、犯人はわたしのクラスの中心グループの男女だと察した。あのころ、彼らは裸体やセックスといったことが、みんなにとって話題性のある面白いものだと、本気で信じていたに違いない。

 そのころのわたしにとって、セックスはまだ遠い未来のことで、実感がわかないことだった。中心グループの彼らはいわゆる早熟な子たちで、あんなに下品な形ではなくとも、わたしもいずれは興味が湧くのだろうと信じていた。


 高校一年生のとき、はじめての恋人ができた。同じ中学出身で、バスケットボール部に所属する二学年年上の先輩を、わたしは瑞希先輩と呼んで慕っていた。

 入学してすぐに告白されて以降、穏やかな関係は半年ほど続いた。図書館で受験勉強をする姿や、赤本教室で教材とにらめっこを繰り広げる先輩が、本当に愛おしくて仕方がなかった。

 当時の友人たちの一部は、「昨日、処女卒業しちゃった」だとか、「えぇ、それキスマーク?」だとか、下品な会話で盛り上がりを見せていたけれど、わたしと瑞希先輩の関係はそんな汚いものではなかった。

 手を繋いで駅までの道のりを並んで歩き、学校の近くにあるキリン公園でおしゃべりをする。たまのデートは市民図書館か、ショッピングモールの映画館。なにがあっても二十二時には自宅に送り届けてくれた。

わたしたちの関係は、大人に褒められるようなピュアで誠実なものだった。

 十一月に入ると、瑞希先輩は「公募受験が近くなるから」と言って、会える頻度は目に見えて激減してしまった。久し振りにキリン公園で逢瀬をすると、愛を確かめるように軽い抱擁を交わした。自販機で買う温かいミルクセーキがすっかり冷めて空になるまでが、わたしたちの逢瀬のタイムリミットと決まっていた。

 そんな瑞希先輩とのピュアな交際は、翌年の四月にあっけなく終わった。香川の大学に進学した先輩とは、引っ越したあと一度も会っていない。先輩からの連絡頻度が減ったと感じ始めてすぐ、「別れて欲しい」の一行で強制的に幕を下ろされてしまった。

 落ち込みはしたが、学生にとって物理距離な距離は心の距離と直結するものだ。どこかで仕方がないと割り切っていた。

 しかし、当時の友人たちはわたし以上に憤った。チャットでの別れは、不誠実らしい。そして男を責めるとき、女は謎の結託を見せる。

 彼女たちはネットストーカー並みの執拗さで瑞希先輩のSNSアカウントを監視した。その結果、どうやら先輩には新しい彼女ができたようだ。テニスサークルの二回生で、そのサークルはヤりサーとして有名らしい。ヤりサーの意味も、そのときに教えてもらった。

 わたしは悲しかったけど、同時に安心もしていた。むしろ、安心の方が強かったようにも思う。あのまま関係を継続していたら、いずれはわたしが彼女の立場になってしまっていたのかもしれない。

 瑞希先輩のことは、確かに好きだった。だけど、みんなのようにセックスをしたいという感情には至らない。むしろ、あのプレハブ校舎に張り付けられた女の人のように、動物みたいによだれを垂らす自分の姿を想像すると、得体のしれない気持ち悪さに襲われた。

 そんな思いをするくらいなら、別れてよかったのだ、きっと。


 高校二年生の冬、わたしにとって二人目の恋人ができた。

 クラスメイトだった高山くんはあまり目立つタイプではなく、部活動にも所属していなかった。 友人からは意外なタイプだと言われたけれど、清潔感のある高山くんの印象は悪いものではなかった。

 わたしとしては、クラスで目立つタイプの男子と付き合っている友人たちの方が意外に思えて仕方がなかった。昼休みに集まっては、「彼女とどこまでヤった?」だとか、「四組の西田さんは地味だけど胸がでかい」だとか。そういう露骨で下品なやつらに惹かれるとは思えなかった。顔しか知らない彼の彼女や、四組の西田さんのことを思うと、背後から鈍器で殴ってやりたいくらい胸が痛んだ。

 それに比べて、高山くんは生粋の文学少年だった。彼の読書欲は休み時間だけには留まらず、グループワークの暇な時間や自習時間など、ちょっとした隙間時間を見つけるたびに本を開いた。表紙はいつもブックカバーで隠されていたが、彼が純文学を嗜んでいることをわたしひとりだけが知っているというのは、独占欲と優越感が同時に満たされて気分がよかった。本屋さんに行くと時間を忘れて夢中になるのに、時折わたしに気を遣うのが、大切にされていると実感できて、そんなところも好きだった。

 そんな高山くんとの関係が終わったのは、きっとわたしが彼のことをそれほど愛していなかったせいなんだと思う。

 気まぐれに「おすすめの本を貸して欲しい」と頼んだ翌日、高山くんは四冊の本を持ってきてくれた。系統の違う四種類を選んだと言った彼は、いつになく活き活きと輝いていた。

 文学を嗜む趣味のないわたしは、長い時間をかけて根気よく読み進めた。思い返せば、はじめて読む作品として純文学というのはなかなかレベルが高すぎたんじゃないかと思うけど、本を読みたいと言ったときに高山くんが見せてくれた嬉しそうな表情が、なんとか読むように働きかけてくれた。

 だけど、あのときにわたしは「本を貸して欲しい」なんて言うべきではなかったんだと思う。

 高山くんが貸してくれたうちの一冊は、官能小説と思い違うほどに過激な描写が多かった。もちろん、高山くんはわたしにも読みやすいものを選んでくれただけで、そういう下心があったわけじゃないことは、重々承知している。彼がわたしのためを思って選んでくれた小説であることは、なんだかんだと読み切れたことが証明してくれているはずだ。

 それでも、わたしは不安になった。当たり前の事実から目を逸らし続けていたことに気が付いてしまった。

 いくら高山くんが文学少年だったとしても、クラスの中心にいる彼らと同じように男なんだ。そう気がついたら、高山くんのすべてが急に受け入れられない気持ちの悪いものになってしまった。

 一方的にそれらしい理由で別れを告げられた高山くんが、わたしを恨んだとしても、なにも文句は言えない。彼がくれた愛情を無下にして、わたしが彼にあげていたつもりの愛情はニセモノだったのだから。

 そして、ここでようやく、わたしは自分自身の異常性に気が付いた。

 周りの女の子たちと比べ、わたしは性に対する拒否反応が強い。それも、下ネタが苦手という次元をはるかに越している。セックスという行為に対する嫌悪感が、その人に対する愛情を大きく上回ってしまう。愛情の全てが、セックスに至るための手段だったと思い込んでしまう。違うと理解していても、心は理解してくれなかった。

 それから幾度となく行われる女同士の恋バナを隠れ蓑として恋人との性事情報告会で、わたしは心を閉ざすしか術を持たなかった。その度に、自らの異常性を強く痛感した。

 お堅いんじゃない。ピュアなんじゃない。わたしは、異常なまでにセックスを忌避しすぎている。


 高校時代はまだよかった。純粋で潔白な交際をしている子のほうが、大人たちからの評判がいいからだ。彼氏の家に入り浸る子には、少なからず好奇の視線が向けられてきた。田舎の情報網は、こういう下世話な方面にも効力を発揮する。この時点では、わたしと彼女たち。どちらが異常なのか、周囲の大人には判別できなかったはずだ。

「えぇ。真白って、ハジメテもまだなんだぁ。なんか意外かも」

 そのパワーバランスに明らかな優劣が生まれたのは、いったいどれくらいのことだったんだろう。

「セックスしないカップルってなに? 男友だちとなにも変わらないでしょ、それ」

 そう言われるようになってしまったのは、いったいいつのこと?

「おまえ、いつになったらヤらせてくれるん。もう付き合ってだいぶ経つけど、俺のことほんまに好きなん?」

 愛情をセックスでしか受け取って貰えなくなったのは、いったいどうして?

(ああ、この人は真面目で欲も薄そうだな。きっと、女の子にも慣れてないだろうし、純粋にわたし個人を好きになってくれるはず)

 そんな気持ちで近づいたあの人たちのことを、本当に好きだったのだろうか。わたしの気持ちは、ホンモノだったのだろうか。


 深夜のコンビニで、しゃがみ込んでゴムを手に取る若い男の子。

 郊外の道路にそびえたつ、妖しいライトに照らし出されたお城のような建物。

 深夜ドラマから意図せず流れ始めるラブシーン。

 ハンバーガーチェーンで盛り上がる、女子高生たちの生々しい会話。

 友人たちのSNSで見かける恋人との温泉旅行。それから、結婚報告より先に投稿される妊娠報告。

 セックスは、想像よりもはるかに身近なところで溢れている。その多くは町中に溶け込んで、気が付かないようにできている。そこにあることが当たり前になりすぎて、気が付かないように人間の方が順応している。

 恋人との最大級の愛情表現がセックスであることは、特別に可笑しなことでも、間違ったことでもない。むしろ、セックスを介したコミュニケーションがある恋人こそが普通なのだろう。

 それに順応できないわたしは、閉経して、周囲の人間から性欲が消えて無くなるまで、きっと普通には戻れない。

 諸悪の根源は、きっとどこにも存在しない。どこにもないものを探して、見つからないと嘆いている。失くしものなどないのに、探し物をしているようなものだ。暖簾に腕押し、豆腐にかすがい、ぬかに釘、泥に灸。意味のないことを、ずっと繰り返している。

 わたしのとっての恋は、いつだって孤独なものだった。すぐそばにある普通の幸せに触れられないことは、ある種の拷問に近かった。

 いま律がそばにいてくれて、わたしはやっとひとりぼっちではなくなった。二人の世界では、わたしは普通として認めてもらえる。わたしと似たような異常性を持つ律だったからこそ、わたしは同じベクトルで愛を差し出すことができた。

 そのはずなのに、律が愛をくれるたびに不安になった。手のひらにすくった水が零れ落ちてしまうように、綺麗な花も必ず散り行くように、そばにいてくれる律はいつか必ずいなくなるような気がする。それが、たまらなく怖かった。

 手に入れた幸せを失うくらいなら、最初から幸せを知らない方がまだ救いがあるのだろう。

 こんな愛情、知らない方が幸せだったのかもしれない。いつか律がそばにいてくれなくなるくらいなら、最初からひとりぼっちでよかった。ずっと誰かの愛を、普通の幸せを渇望していたほうが幸せだった。

 

 そんな馬鹿なことを言ったら、きっと律は笑ってくれたんだろう。

 きっと、笑ってくれたんだろうな。




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