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ピュアホワイト  作者: 仁科 すばる
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四章 だから、来世はそばにいて(2)

 律が住む単身者向けアパートの二階、二〇三号室の呼び鈴を肘で押す。両手は悩み抜いて選抜された日本酒のアテと酒器、今日の主役である桐箱に梱包された日本酒によって占拠されていた。重たい桐箱は置いてきてもよかったのだが、せっかくなら律にも見せてあげたかった。

 せわしなく駆け寄って玄関のロックを解錠した律はわたしを見るなり、「こんな大荷物なら迎えに行けばよかった」と、膝から崩れ落ちて嘆いた。ちょっとしたホームコメディのような展開で、今日の宅飲みは幕を開ける。

 悩みに悩んで選抜されたアテは、デパートで奮発した白身魚のお刺身や鶏肉と野菜のグリルだ。それから、まつりさんが教えてくれたレシピで作った味玉。白みそをベースにした特性ダレで漬けた半熟卵は、昨日の時点でしっかりと味が染みていた。白米にこれだけを乗せて出しても、律は味玉丼と言って喜ぶに違いない。

 いろいろ紹介したいものはあったが、まずは今日の主役を取り出して見せる。律は「おおぉ」と驚きの声を漏らした。

「すごいでしょ。これ、絶対にいいお酒だよね。桐箱に入った日本酒なんて、はじめて飲むよ。お父さんが奮発して買う日本酒だって、絶対にここまで良いものじゃないもん」

「オレも詳しくないけど、伏見ってことは良いお酒なんだろうね。想像してたより、桐箱がしっかりしてて驚いたよ」

 日本酒を前にした律は、高級感のある桐箱の感触を確かめるようにそっと撫でた。わたしが選んだものではないのに、つい得意になる。

「なんてったって、酒どころ伏見の日本酒だからね。まつりさんが試飲したなかで、一番飲みやすかったらしいよ。お猪口まで買っちゃったから、味わって飲まないと」

 持参した紙袋からお猪口のセットを取り出してキッチンへと向かう。買ったばかりのお猪口のセットは、律の家に置いて帰ってしまおう。どうせ、これからも二人で飲むことになる。

 我が家のように使い慣れたキッチンで、日本酒を最大限楽しむための準備を開始する。お皿も醤油皿も、食器棚で眠っていたものを掘りだしてきた。実家を出るときに、持たせてくれた母に感謝だ。なんてったって、美味しさの八割は視覚から感じるらしい。

 鼻歌交じりに盛り付けを進めていると、流し台でお猪口を洗い始めた律が不安そうに呟いた。

「オレあんまりお酒強くないんだけど、日本酒なんて大丈夫かな」

「いまさらじゃない? いつも普通に飲んでるじゃん。『とりあえずレモンチューハイ』って」

「だからだよ」

 わたしは意味がわからず首を傾げた。

 確かに、律は基本的にはレモンチューハイしか飲まない。家にいるときは、わたしに合わせて他のものを飲むときもあるが、それはブルームーンくらい稀なことだ。

「レモンチューハイ、アルコール度数低いからね。オレ、基本的には五パー以上のお酒は飲まないようにしてるからなぁ」

「そうだったの? あんまり意識したことなかったかも。それなら、日本酒は少しアルコールが強いかもね」

 日本酒のアルコール度数はどれくらいだっただろうか。十五度か、もう少し高いか。二十度は超えていなかったように思う。いつも飲んでいるお酒が三パーセントから七パーセントだと考えると、飲む量を差し引いたとしてもかなり高い。かといって、薄めすぎるにはもったいない。

「飲めるとは思うけど、酔っぱらわないか不安」

「ちょっとなら大丈夫じゃない? 律の家だから帰れなくなることはないし。最悪なんか起きたときは、わたしが責任を持って救急車呼んであげるよ」

 わたしも少量なら酔いつぶれることはないだろうし、律だって全く飲めないわけではないのだ。それに弱いと言うが、彼が明らかに酔っている様子は見たことがない。宇佐美梓という規格外のアルコールキャパを持った人間がいるせいで、感覚がマヒしているだけだろう。

 良い日本酒を前に、わたしはいつになく楽観的だった。

「そこまで大惨事になる予定はないけどさ。救急車って、それ急性アルコール中毒起こしてるじゃん」

「冗談だよ、冗談。まぁ、明日の介護くらいはしてあげるよ」

 盛り付けを終えて、SNSに投稿するための写真を撮影する。お猪口と日本酒、それから料理がバランスよく映るように調整する。

忘れないうちに、まつりさんへ再度お礼の連絡を入れて、テーブルへと運んだ。

 狭い部屋に設置された窮屈なソファーに二人で腰を掛けて、正面にあるテレビの電源をオンにする。売り出し中のタレントが、大型ショッピングモールで買い物をしていた。ありがちなゴールデンタイムのバラエティー番組だ。

 律の部屋は一人暮らし用ということもあって、わたしの部屋同様に狭い。その狭い七畳程度の部屋に、ベッドとソファーの両方を置くのは無理があると思う。来るたびにそう呆れるのに、ひとたびソファーに腰を掛けてしまうと、やっぱりソファーも必要だと考えを改めてしまう。今回もそうだった。

 狭いソファー、隣に座る律の腕が触れる。その優しい温もりは、フル稼働する冷房のなかで心地がよかった。


 

 だけど、わたしたちが幸せだったのはここまでだ。


 

 まつりさんから頂いた日本酒はとても美味しかったのだと思う。日本酒の感想が曖昧なのは、遠い過去のようにぼんやりとしているからだ。

 思い出す限りの日本酒は、飲みやすくて、奮発して用意した料理たちともよくあっていた。よくある表現を用いるのなら、絶妙なマリアージュ。

律は終始不安そうにしていたけれど、「美味しい」と言っていたし、なにより唯一わたしの手作りだった白みその味玉を、嬉しそうに何度もおかわりした。たくさんあった味玉は空になって、コレステロール値の心配をした。

 しばらくして、二人とも伏見に足を運んだことがないという事実が発覚し、「伏見稲荷に参拝して、そのあとは酒蔵巡りでもしようよ」というやりとりをした。せっかくなら着物を着てみたいけど、慣れない服装はお手洗いに行きづらいかもしれない。お酒をたくさん飲むのなら、下駄を履いておぼつかないのも不安だ。

 まだ火種でしかない京都旅行の空想に華を咲かせ、わたしたちはそれすらも日本酒のアテとした。

 だけど、いまのわたしにとっては、そんな未来のことはどうだっていいことに変わってしまった。

 そうなるに至ったすべての原因は、きっとわたしひとりにある。律のことは恨んでいない。恨んでいいだけの資格がわたしにはなかった。


 こんなわたしを生み出した諸悪の根源は、わたしの人生のどこにあるのだろう。

 それがわかればいいのに。

 それがわかれば、まだ少しは救われたはずなのに。


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