三章 醜いアヒルの子(3)
「もしもし、お母さん?」
「真白! 久しぶりじゃないか、元気にやってるか? 学校は楽しいか?」
スマートフォンの通話アプリから母に電話をかけると、どういうわけか父に繋がった。遠くで母がスマートフォンを返すように促している。両親のやり取りから、わたしの名前に過剰反応を示した父がスマートフォンを強奪したせいだと察した。
二人とも、娘からの自主的な電話を取りたくて仕方なかったようだ。
やっぱり、わたしは二人から愛されている。そのはずなのに、なぜか無性に苦しくなった。
主導権が母に切り替わり、父の声が遠くなる。
「真白の方から電話くれるなんて、珍しいじゃない。どうしたの?」
「あのさ、就職のことでちょっと」
「うん、もうそんな時期なのね」
「わたしそっちに帰らないで、こっちで就職しようかなって思ってるの」
「うん」
優しく穏やかな母の相槌に、鼻先がツンと痛くなった。選択したのは紛れもなくわたし自身だというのに、なにかこんなにも悲しくさせているのだろう。
「ごめん。わたし、愛媛には帰らない」
「なんで謝るのよ、真白が決めたことなんでしょう? 都会のオフィスで働くなんて、素敵じゃないの。キャリアウーマンみたいで、お母さん憧れちゃう」
母は忖度なく、本当に嬉しそうな声色でそう言った。娘を気遣うための偽りや、邪な気持ちは一切なく、純粋にわたしの決断を尊重し、自分のことのように喜んでいる。
母はそんな優しい人だった。
「ねぇ、お父さんもいいわよね?」
電話の向こうでやりとりが交わされ、主導権が父に移行する。
父は緊張を振り払うように、二度ほど咳払いをした。
「真白、父さんもいいと思うぞ。真白の人生なんだから、存分に楽しみ尽くしなさい。父さんたちは、真白が普通に幸せになってくれさえすれば、それだけで十分だから」
――普通に、幸せに。
心の中で、父の言葉を反芻させる。言葉の裏にある父の愛情を噛みしめる。
遠くで「寂しいから、たまにはこっちにも顔出せよ」と父が言う。
とうとう零れ落ちた涙の意味を、わたしは知っていた。だからこそ、余計に実家には帰ることができない。
わたしは、たぶん両親の望むような普通にはなれない。でも、そのことを正しく説明することはできるだろうか。
男性に恋愛感情は抱きます。だけど、そこに性欲が付随してきません。だから、セックスを求められると、わたしはその人のことを気持ち悪く思ってしまいます。そばにいることが難しくなります。わたしは、一般的には多数派と称される性自認です。だけど、少しだけ普通じゃありません。
わたしには、二人のような家庭を築くことができません。
そんなことが言えたなら、わたしはいまもあの町にいたかもしれない。言えなかったから、遠く離れた。わたしは異常だから、なるべく目立たない場所へと逃げたかった。
……異常なのは、本当にわたしなんだろうか
本当に普通なのは、セックスを伴うみんななんだろうか
本当に正しい答えがない問いこそ、多数決で正答が決まってしまう。だから、わたしはいつまでも普通になれない。
「真白! 真白?」
身体を揺さぶられ、強く声を掛けられている。水中のようにぼんやりとした世界から、はっきりとした世界へと浮上していく。意識がしっかりとしてくると、情けない顔で心配する律の存在が、はっきりと認知できた。
あぁ。夢、だ。
さっきの夢は律と出会う少し前、大学四回の初夏の記憶だ。地元に帰るか、ここに留まるか――それを選択すべきときがきて、わたしは帰らないことを決めた。
「大丈夫? 悪夢でも見てた? 真白、かなり長いことうなされてたよ」
律は起き上がろうとするわたしの背を、ゆっくりと何度もさする。落ち着いたことを確認すると、その手を止めた。
「どんな夢見てたんだろう。でも、もう大丈夫だよ。落ち着いた」
大好きな父と母との思い出を「悪夢」と切り捨ててしまうことを躊躇って、曖昧な返事で誤魔化した。額の脂汗を拭っているうちに、律は冷蔵庫から麦茶を取り出して、食器棚にあったわたし専用のマグカップに注ぐ。わたしが赤い花柄で、律が青い花柄の色違いで揃えたものだ。
起き上がろうと手をついて、薄手の夏蒲団が手に触れた。普段わたしが使用している白のマットレスとは異なる青いそれを見て、昨晩は律の自宅に帰ったことを思い出す。
小さなシングルベッドの中央にはわたし一人ぶんの痕跡が残っていて、本来ならベッドの上にあるはずのタオルケットが、フローリングの床に無造作に敷かれていた。
家主である律が固いフローリングにタオルケットだけを敷いて、そこで一夜を過ごしたことは明白だった。
「ごめんね。わたしを床に転がしてくれてもよかったのに」
「それはさすがに恋人の扱いじゃないでしょ。オレがベッドで寝て、真白が床で寝るのはさすがにダメでしょ」
律はタオルケットを拾い上げ、四つ折りに畳む。四つ折りにされてもなお薄っぺらなそれが、クッション性に欠けていることは容易に想像できた。
「せめて隣に寝てくれたらよかったのに。わたし、家主を床に寝かしたひどい女じゃん。これはもう、世紀の大悪女」
「それは言い過ぎだって。それに、真白は嫌がるかなって思ったから」
律は寂しそうに微笑み、誤魔化すように麦茶を一気に飲み干した。パックを煮だしすぎて濃くなりすぎた麦茶は、彼の表情を渋くさせる。
「なんでよ、嫌がるわけないじゃん。だって、律だもん。律だったら、隣に寝ても嫌に思わないよ」
いままでの恋人たちにはありえない最大級の信頼を寄せるが、それでも率は寂しそうなままだ。
わたしが気付いていないだけで、セックスという大きな欠落以外にも、小さな欠落が無数にあるのかもしれない。律を悲しませるような、重大な欠落が。
「じゃあ今度からはそうするよ。それより、昨日は楽しかった?」
律が適当な相槌で話を逸らしたことに気が付いたが、わたしは特に言及しなかった。
「うん、楽しかったよ。まつりさんと会うの久しぶりだったの。まつりさんがいなかったら、ロープラなんかに最後まで勤めてなかったと思うもん」
「確かに、頼りになりそうな人だったね。アズとも上手くやっていけてたってことは、寛大な人でもあるんだろうし」
律はまつりさんのことを称えながら、梓の過去の愚行を振り返り、乾いた笑いを浮かべた。梓の恋愛事情がひどいことは、わたしたちの間では共通認識となっている。
「梓は凝りもせず大胆なことしてるみたいだけど、まつりさんなんてもう婚約したらしいの」
「婚約かぁ。そういえば、職場の二つ上の人も育休って言ってたなぁ」
「最近多いよね。地元の友だちも結婚したってさ。まったく、まいっちゃうよ」
「サークルのやつらも、そういうの多くなった気がする。SNSで指輪見た回数カウントするの辞めたもん」
産休、育休、寿退社。まだまだ遠い未来のことだと思い続けていたが、そろそろ同年代の友人や先輩たちが足を踏み入れ始めた。
普通な彼女たちとの溝は、さらに深まっていく。わたしには、その溝を飛び超えることができない。
「晩婚化とか少子化とか言うけどさ、身の回りの人たちは結婚もするし、子どもも生んでるんだよね。クリスマスケーキ理論は、まだ滅亡してないのかもって思わされちゃうよ」
「クリスマスケーキ理論ってなに?」
「知らないの?」
律は空になったわたしのマグカップに麦茶を注ぎ足しながら、答えを促した。当たり前だけど、継ぎ足してくれた麦茶もかなり渋かった。
「二十五日を過ぎたクリスマスケーキの価値が一気に無くなるみたいに、女の価値も二十五歳をすぎたら、一気に落ちちゃうっていう理論だよ。バカバカしいけど、あながち真理なのかも。わたしもあと少しかぁ」
「別に二十五過ぎても、真白の価値は下がらないと思うけど」
嘆くようにため息を零すと、律は場違いなほど真剣にわたしを見つめた。その表情に、思わず笑いが込み上げてしまう。
笑ったわたしを見て、律は不服そうに「真剣なんだけど」と文句を言った。
「その言葉は、二十五歳を過ぎてから聞かせてよ」
「許されるなら、十年後でも二十年後でも、来世でだって言ってあげるよ」
「そりゃあ楽しみだ。律がそばにいてくれる間は、安心して歳とれる」
渋い麦茶を少し口に含み、その渋さを再確認する。
このとき、わたしは「来世なんて信じない」などという野暮なことは言わなかったし、律も「信じてないくせに」なんて水を差すようなことは言わなかった。




