三章 醜いアヒルの子(2)
「ただいま。お手洗い綺麗だったよ。髪の毛いじってたら、つい長居しちゃった」
個室へ戻ると、梓はデザートを食べたあとにもかかわらず、再び白ワインを注文していた。
わたしと同じタイミングで注文した白ワインと赤ワインを四杯ずつに加え、何回多くタブレットを叩いたのだろう。彼女が酔わない人間だと知っていても、やはり心配はしてしまう。限界を見たことがないからこそ、キャパオーバーしたときの反動が恐ろしい。
「梓。そろそろ辞めとかないと、帰れなくなっても知らないよ」
梓は無造作に投げ出されていたスマートフォンの液晶を二回、トントンと指先で叩き、「いいのいいの。松野が迎えに来てくれるから」と言った。同時に、グラスに残る白ワインが空になる。
見ているこちらが不安になる飲みっぷりだ。彼氏が迎えにくるなら、好きなだけ飲ませておこう。
「……あれ? 梓の彼氏の名前って、佐々木じゃなかったっけ」
「あぁ、孝則のこと? 孝則とは、もう別れたよぉ。えーっと、二週間くらい前じゃなかったかな」
「でも、一昨日くらいに『孝則と映画見にいくのぉ』って、言ってなかった?」
「うん、映画には行くよ。彼氏ではなくなったから、男友だちとして」
梓はあっけらかんと言いきる。その内容は、常識的に考えて支離滅裂だ。
「じゃあ。松野さんとやらが、いまの彼氏ってこと?」
「違うよぉ。いまの彼氏は大貴で、松野はただの男友だち」
やはり、梓に常識を求めるべきではないと再確認する。わたしには可笑しなことを言っているように聞こえるが、彼女にとってはこれが普通なのだ。
話をまとめると、孝則とは別れたけど、映画を見に行く関係で、いまの彼氏は大貴とやらで、松野はただの男友だちだけど、今日の迎え役としてやって来る。
前回の飲み会から三週間程度で、ここまで複雑な関係が広がると誰が予想しただろうか。昼ドラ待ったなしの、もはやトラブルの温床でしかない。昼ドラは緊迫感が癖になるが、リアルだと恐怖を感じるだけだ。
わたしは心労からやってきた深いため息を堪えきることができずに零す。
「ただの男友だちは、こんな遅くに迎えに来てくれないと思うけどね、普通は」
「そうかなぁ。まぁでも、松野はまだ男友だちだから」
再度ため息を零すと、まつりさんも「相変らずね」と言いたげに苦笑をもらした。これでも最近はマシになってたんですよ、と言うか迷ったが、寸前で留まった。いまが荒れていれば、なにを言っても信憑性に欠けるだろう。
「でも、アズにとってはただの友だちかもしれないけど、松野くんはそう思ってないかもしれないわね」
「そうですかねぇ」
本当にその通りで、前にもそんなトラブルがあった。
自分こそが梓の恋人だと信じて疑わない男二人がコンビニに押しかけ、わたしに「どっちが彼氏だと聞いていますか?」と詰め寄ってきた。ちなみに、当時の梓の彼氏はどちらでもなく、新人バイトの正宗くんだということは、口が裂けても言えなかった。わたしのなかで、墓場まで持って行かなければならない秘密の一つとなっている。
思い出しただけで、胃が痛くなるような記憶だ。梓もそれのときに懲りたおかげか、ここ二年の間で男友だちの数は激減したはずなのに。
「わたし、面倒ごとにはもう巻き込まれたくないからね」
「大丈夫だよぉ。ちゃんと適度な距離は保ってるって。そうそう、新田っちも呼んでるから、真白ももっと飲んじゃいなよ」
梓はけろりと爆弾を落とす。被害は律にまで及ぼうとしていた。
「わたし、別に一人で帰れるんだけど」
「真白はけっこうフラフラしてるじゃん。顔も赤いし、なんかあったときに新田っちに怒られるのアズだもん」
「律だって、仕事で疲れてるだろうから断っておくよ。ここ遠いし」
足元の鞄からスマートフォンを取り出そうとするが、急に下を向いたせいで目が回った。
梓の言った通り、酔いが回っているのかもしれない。
吐くほどではないが、スマートフォンは見つけられない。ぎゅっと目を閉じて、時空が制止するまで耐え忍ぶ。酔っていることを素直に認めたくなかった。
「大丈夫? やっぱり、甘えておいたほうがいいんじゃない? そしてあわよくば、私も律くんのこと見てみたいわ」
まつりさんが背をさすってくれたおかげで、視界はすぐに静止した。
やっとの思いで見つけたスマートフォンの通知に『最寄り駅には着いてるから、いつでも呼んで』と入っていた。
「もう着いたとか言ってるんだけど、どういうこと?」
「アズが呼んだのはついさっきだよ。ね、まつり先輩?」
梓はおどけたように手を上げて否定する。そして、ロープラのテーマソングをご機嫌に口ずさんだ。
断るつもりだったが、すでにそこまで来てくれている人間に対して「帰れ」と言うわけにもいかず、わたしはまんまと梓の口車に乗せられてしまった。
律を長時間待たせるわけにもいかないので、二十三時をまわる手前でお開きすることになった。
店の周りは飲食店が乱立していて車を停車させるスペースがなく、駅のロータリーにいるという律のもとに、女三人で肩を並べて歩く。
二十三時といっても駅までの道のりは人通りが多く、じゅうぶん安心できるg明るさが保たれていた。マッサージ店やラブホテルが乱立するような駅でもないので、妖しげな雰囲気も感じられない。それに、女子向けのイタリアンレストランやお洒落なバルが多いこともあって、自分たち以外にも若い女の子が歩いているというのも安心材料の一つになっていた。
川沿いを十分ほど歩くと、一昨年に改装されたばかりの駅が見える。手前のロータリーに、アイボリーの軽自動車は停車していた。
「あ、新田っちのラパンだ!」
わたしの代わりに梓が大きく手を振る。アイボリーのラパンは、ウインカーを点滅させて、ゆっくりと走行した。全開にされた窓から、律が手を振り返す。
「新田っち久しぶりだね。元気なのは知ってる。今日は真白のこと、ちゃんとよろしく頼んだよぉ」
「久しぶり、任せておいてよ。そうだ、内定おめでとう。薬剤師より良いと思うよ。あとはちゃんと卒業しろよ」
律は梓と何往復か会話を続けたあと、すぐ後ろに立つまつりさんの存在に気が付いたようで、余所行きの笑顔で会釈をした。
まつりさんも同じくして、余所に向ける品の良い笑顔で応じる。自然体の彼らを知っているため、貼り付けた笑顔が、余計によそよそしく感じられた。
「ほら、律くんも待ってるんだし、もう乗っちゃいなよ。また、近いうちに女子会しましょうね。結婚式の話も聞いて貰えたら嬉しいわ」
「わたしも楽しみに待ってます。じゃあ、お先に失礼します」
冷房の効いたラパンに乗り込むと、律は遠慮がちにアクセルを踏んだ。
全開にされた窓からしばらく手を振っていたが、二人の姿はすぐに指人形のように小さく遠ざかってしまう。名残惜しく窓を閉めると、律は眠気覚ましのミントガムを二つまとめて口に入れた。
「こんな夜遅くに来させちゃってごめんね。終電もまだあったのに、ありがとう」
「これくらい全然いいよ。オレも明日は休みだしね」
「金曜日だし、疲れも溜まってたでしょ。それにしても、到着早かったね。梓からいつ連絡あったの?」
「アズから連絡来たのは、ついさっきだよ。二十分くらい前かな」
「じゃあ、やっぱり着くの早かったんだね。ここらへんでなにか用事でもあったの?」
「うん、そんな感じ。真白の迎えに行きたかたから、ここらへんで同僚たちと飲んでた。……あぁ、でも心配しないで。オレはソフトドリンクしか飲んでないから、飲酒運転ではないよ」
風力最大に設定されていた冷房を、少し弱める。激しい風の音が聞こえなくなり、代わりに律がハンドルを指で叩く音が聞こえやすくなった。メトロノームのように一定のリズムを指で刻むのが、運転中に出る彼の癖だ。
「なおさらごめんじゃん。せっかく同僚と飲みに行ったなら、やっぱり律も飲みたかったよね」
「飲みたくなかった、は嘘になるけど、そこまで気にしないでよ。むさくるしい野郎どもと飲んだって、ろくでもない話にしかならないし。それに、忘れがちだけど居酒屋メニューって白米との相性抜群だから」
律は左手でグッドサインを作り、「だからオールオッケー」とわけのわからないことを言う。
わたしもこれ以上の謙遜は雰囲気を悪くするだけだとわかっているので、素直に優しさを受け取るに留めた。いつかわたしも同じような優しさで返してあげればいい。
「じゃあ、今度は一緒に飲もうね」
「そんな可愛いこと言うなんて、真白ちょっと酔ってる?」
「別に普通だよ。ちょっと飲みすぎたくらいだもん」
律はハンドルを叩いていた爪で、頬を掻く。これは照れているときに出る癖のひとつだった。
こうやって考えると、律にも癖はたくさんある気がする。もう少し真剣に観察を続ければ、実は裕也さんのようにわかりやすいタイプなのかもしれない。
「まつりさん、来週末に裕也さんと伏見に行くんだって。そこから日本酒送ってくれるって言ってくれてね。だから、それ一緒に飲もうよ。一人で飲むのはなんか味気ないし、梓は日本酒嫌いなんだよね」
「へぇ、日本酒か。オレ、普段はレモンチューハイしか飲まないから新鮮」
「わたしも、新鮮」
「真白はハイボールが多いもんね」
「うん」
車は舗装された道路を滑らかに走行する。夜の街の明かりは風をきるように過ぎ去り、車内はゆりかごのように穏やかに揺れた。わたしはメトロノームさながらに一定のリズムを刻む指先に集中する。刻むリズムの数を数える。一、二、三、四……
かなり酔っていたわたしは睡魔を感じるより先に、深い眠りに落ちた。