プロローグ
こちらは小説現代長編新人賞に落選した作品となります。
よろしければ、閲覧ください。
「ごめん、真白。別れて欲しい」
テーブルの向こう側に腰を掛けた恋人は、あたかも自分が被害者であるかのように視線を逸らした。突きつけられた三下半に、わたしが驚くことはない。彼との別れは、それくらいはっきりと予定されていた出来事だった。
答えを返そうと、伏せていた顔をあげる。ファミレスの窓に映り込むもうひとりのわたしは、苦し気に口角を歪ませて、そこでようやく悲しみが追い付いてきた。
やっぱり、あなたもニセモノだった――感傷的な言葉たちを飲み込んで、一杯だけ注文したアイスコーヒーを啜った。
「わかった。それなら別れよう。やっぱり、原因はあのことだよね」
「いや、それだけってわけでもないんだけどさ……」
煮え切らない元恋人の言葉は、開かずの踏切と同じくらいわたしのことを苛立たせる。そのせいで、つい余計な言葉が零れ落ちた。
「わたしのこと、そんなにも好きじゃなかった? ついこの間までくれてた愛の言葉たちは、全部ニセモノだった?」
「いや、ちゃんとホンモノだったんだよ? だけどさ……」
「じゃあ。どうして別れたいと思ったのか、ちゃんと教えて欲しい」
わたしが言葉を重ねるたびに、元恋人がくれた優しい言葉たちが腐り落ちていくようだった。何度も経験してきたはずなのに、全く馴れる気配はない。
「だって、真白が……」
色素の薄い茶色の髪が綺麗だと、
同じ色をした丸い瞳が愛らしいと、
白い肌が柔らかく滑らかだと、
見た目が女の子らしいのに気が強い、そのギャップが良いと。
元恋人がくれた言葉たちは、全て嘘に帰結してしまう。すべてはアレにたどりつくためだけの都合の良い嘘に変わってしまう。
「わたしのせいにしないでよ。わたしはちゃんと伝えてた。嘘を付いたのは、あなたのほうじゃない。あなたが好きだったのは、いまここにいる成瀬真白じゃない。勝手に思い描いた都合のいい女でしょう?」
「だって! 俺だって、ちゃんと真白のこと好きだった。だけど、真白がいつまで経っても……」
「言わないで。ここ、公共の場だから弁えて」
元恋人は返す言葉を失い、脱力したように姿勢を崩した。彼が注文したホットコーヒーは少しも減っておらず、冷水のグラスだけが空になっていた。
わたしは財布から一枚お札を取り出し、伝票に挟んでテーブルに戻す。わたしが動くたびに、元恋人は居心地が悪そうに小さく身を寄せた。
振られて傷つきたいのはわたしのほうだというのに、これではどちらが被害者かわからない。
それでも、ここで大声をあげて泣くような女にはなりきれなかった。こうなるたびに泣きわめいていたら、わたしの人生は泣いてばかりで終わってしまう。
「お釣りはいらないから、じゃあね」
入店と同様の来客チャイムが鳴り響き、わたしは薄暗闇の世界に飛び出した。入店したときも寒さが厳しかったが、いまはもっと凍えるような冷たさだった。
都会の夜は、ひどく冷たい。
数えきれない幸せと、数えきれない孤独が共存して、その溝の深さを知らしめる。それでも諦めきれない人間の愚かさが、この冷たい夜を作り上げている。
飛び出したファミレスの看板が、辛うじて見える位置で立ち止まり、覚悟を決めて振り返った。
視界に広がるのは、ただの人の波。誰ひとりとして知らない、ただの風景だ。
「あのくそやろう」
追いかけてきてくれるかもしれない。
そんな甘い期待は、最初から無意味だった。たとえ追いかけてきたとしても、関係が破綻することが決定事項であることには変わりない。それでも、甘くて淡い期待を抱いてしまうのは、わたしが何度苦しんでも恋をしようとする無謀さとよく似ている。
ピンクのライトに妖しく照らし出される看板。一見して、ビジネスホテルと見間違えてしまうようなスタイリッシュな外装。それでも、そこは恋人たちにとって特別な意味を持つ城。
わたしも、彼らと同じ道を辿ることができたなら、もう少し生きやすかったのだろうか。
確かに存在したはずの愛を伝えることができたのだろうか。
わたしがこの深い溝の向こう側に辿り着く日は、決して訪れない。
――成瀬真白、二十二歳。わたしは、セックスができない。