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第2章 その3 女王様のメイドさん

第二章の3

 競馬場から少し歩いた一帯に、競走馬たちの過ごす厩舎がある。太陽と雲が朱に染まり、世話人たちの仕事が終わったころを見計らい、建物の影から身を出す。


「馬房の中とはよく知っとるなあ。カネに困った旅人が使う手やで。まあ競馬場のを使うやつはそうおらんやろうけど」

「子供のころ、城の馬房に隠れて遊んでいたものです。わらの中が心地よくてそのまま眠ってしまい、大騒ぎになったことがありました」

「あー……なんだか目に浮かぶようや」


 どの馬房にも、明日のレースに出走する馬がいた。彼らを刺激しないよう気を配りながら空いている馬房を探す。

 競走馬が中にいるなら気配ですぐわかるが……厩舎の屋根からもかすかに気配を感じる。


「……あら?」


 右側から人間の子供のすすり泣く声がかすかに聞こえてくる。のぞいてみると、パドックで出会った女の子がうずくまっていた。

 あの子はトキをよく知っていた。競争中止になってとても悲しんだだろう。放っておくことはできない……確か『アニー』と呼ばれていたはずだ。


「アニーちゃん?」

「ぐすっ……だれ?」

「覚えてるかな? パドックでトキを見てたお姉ちゃんよ」

「あっ、おねえちゃん?」


 アニーは涙をぬぐってこちらに寄ってきた。


「おねえちゃん、トキをなおせる?」

「ここにトキがいるの?」

「うん。こっち!」


 アニーに手を引かれた先、ある馬房の中にトキはいた。

 最初に見た雄姿はどこへいったか、ゆがんだ目つきでただぼんやりと立っていた。ほとんど動かない口からは、粘性の高そうなよだれが垂れている。


「お医者様には見てもらった?」

「うん。おとうさんとむずかしいこといってた」

「なんて言ってたか覚えてる?」

「えっとね、おいしゃさんは『ショブンしなさい』って」


 頭の中を衝撃が跳ねまわる。後ろにいるヒノカを向くと、目と目が合った。

 処分。つまり『死なせる』ということだ。この言葉の意味を、アニーが理解できなかったのは不幸中の幸いというべきか。

 深呼吸をしてアニーの顔を見る。


「……それでアニーのお父様は、お返事をしたの?」

「ううん。こわいかおして『ゆっくりはなしをしよう』って、おいしゃさんといっしょにかえっちゃった。わたしはトキがしんぱいだから、ついていかなかったの」


 おそらくアニーの父親は判断を渋っている。だが猶予はない。

 頭上に目を向けて声をかけた。




「『ルネ』、出てきていいですよ」




「はいはいー」


 屋根の上から影が降ってくる。音もなく着地したメイド服の女性は、裾を持ち上げ礼をしてみせた。


「お呼びですか、『お嬢さま』?」

「わぁっ、びっくりしちゃった! ねえねえ、どこからきたの?」

「うーん……空からかな? にししっ」


「今の話を聞いていましたね? 一刻を争います。どうかトキを診てあげてください」

「はーい、ただちに」


 ルネはトキの体を調べ始めた。


「……おおう、いきなりでなかなか言葉が出てこんかったわ。お嬢、あの姉ちゃんはいったい?」

「城のメイドで、ルネという者です。城下町からここまで追いかけてきたようですね」

「ひょっとしてお嬢を連れ戻しに?」

「大丈夫。彼女は私の味方ですから、そんなことはしませんよ」


 何かわかったのか、飼い葉が入った箱をまさぐると、真っ黒な団子のようなものをつまんで取りだした。そのままかじって口に含む。


「……こりゃ『一服盛られ』てる。効き目が遅くなるよう細工までして……ずいぶんと手のこんだことをしますねえ」


 そう言うと布切れを取りだし、粒を吐きだしてしまいこんだ。


「治療できますか?」

「んー、ちょうどピッタリな薬草が手持ちにあるし、ちゃちゃっといけますよ」


 アニーは今のやりとりを不思議そうに聞いている。『毒』とわかりやすい言葉を使わないのはルネなりの気づかいだ。


「では頼みます。私たちはアニーのお父様とお医者様に話を」

「トキ、げんきになるの?」

「もう安心ですよ。一緒にお父様のところに行って教えてあげましょう」

「うん! こっちだよ!」


 涙で濡れていたアニーの顔がぱあっと明るくなり、一生懸命に走りだす。あの笑顔がいつまでも続いてほしいと願った。




 関係者の居住地区は馬房の脇に点在している。アニーの家族は牧場の経営者だそうで、レースの時期はいつも借りて寝泊まりしているらしい。

 案内された建物に入ろうとしたその瞬間、一人の男が乱暴に扉を開けてきた。


「きゃっ」


「なんだ危ないなあ、ホラどきなさい」

「おいしゃさん! トキがげんきになるんだって!」

「は? そんなこと誰が言ったんだね?」

「おねえちゃんたち!」


 医者らしき男は目を丸くして驚いた様子だったが、こちらを見ると深いため息をついた。


「そうかそうか、そりゃよかったねぇ。じゃ、先生はもう帰るから」


 すれ違いざま、こちらにだけ聞こえるようにボソッとささやく。


「期待させるのはやめたまえ。この素人が」

「なんやと、オマエ――」


 ヒノカが何かを言いかけたところを制止する。ここであれこれ言いあうのは良くない。アニーを怖がらせないためにも黙って見送った。

 ひと呼吸おき、あらためて扉を開ける。


「ただいま!」

「アニー、帰ってきたのか。そちらの方々は?」


 アニーの両親だ。いよいよヒノカとの練習の成果を出すときが来た。これから何度も繰り返すであろう大事な儀式。勇気を出して頭を軽く下げた。


「私は、旅芸人一座の座長でエルミーナと申します。こちらは共の者です」

「ヒノカといいます、よろしゅう」


 しっかりとあいさつできた!

 相手にとっては何気ないやり取り。しかし女王にとっては『エルミーナ』という人間が初めて自分の足で立ったような心持ちだ。


 あいさつの勢いを生かしてパドックでアニーと会ったこと、トキの故障を見ていたこと、馬房にアニーがいたことを説明した。


「……それで、本当にトキの容態はよくなるんですか?」

「病や薬に詳しい者がおりまして、手元にある薬で対処できると。既に治療を始めています」

「あ、ありがとうございます!」


 アニーの両親は深々と頭を下げ、絞り出すように言う。


「エルミーナさん、その……お薬代はいくらほどで?」

「いいえ、私もトキのすばらしさに感動した身です。私が治したいのですから、お代はけっこうです」


 ちらりとヒノカのほうを見た。満足気な笑みを浮かべている。彼女も賛成のようだ。


「代わりにと言ってはなんですが、一度トキの様子を見に来てくれませんか? 万全を期すため、あの子をよく知る方に見ていただきたいのです」

「わかりました。行きましょう」




 一家を連れ、もういちどトキの馬房へと向かった。

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