03 休日の過ごし方
エルローザの世界は、神々が人々に姿を見せていた神代の神秘が、ごく僅かに残っているところだ。
その神秘は誰もが持ち得た。人以外の生きる物も、そうでない物も。
人間は、目が見えるのと同じようにロウソクに火を灯す事が出来たし、馬に乗るのと同じようにコップ一杯の水を用意できた。それは身分に関係のない事だった。
その神秘、あるいは力を、この世界の人々は『ルース』と呼んだ。古い言葉で『光』を意味した。
『ルース』はひとりひとり異なる質を持っていた。研究者たちはその違いを用いて、身分証明書を作ることに成功した。特別な石に、『ルース』を記憶させる事が出来たのだ。その石は今では『ルース石』と呼ばれ、各国共通の技術となった。誰もがおよそ5歳になる頃までには、役所等でルース石の身分証明書を発行した。石に記憶させた『ルース』とその持主の持つ『ルース』を照合する。一致すれば石に刻まれた名前が本名と認識され、不一致の場合はその証明書は誰かから盗んだものと判断されるのだった。
『ルース石』に一度宿った『ルース』は消えない。持ち主が死んでも、『ルース石』が覚えた『ルース』は残るのだった。
* * * * *
翌朝、エルローザはいつもと同じ時間に起床した。陽が昇り始めた時間である。朝一番にするのは、引き出しを開けて、ルース石をふたつ取り出して首にかけることだ。
「おはよう。」
誰に言うでもなく、呟く。もちろん返事はない。ここにはエルローザしかいないのだから。
それから、ひとり用のベッドから出ると、窓を開けて空を見る。
「晴れそうだから、朝のうちに洗濯物を干そう。午前中にルダスさんがいらっしゃるから‥‥午後はどうしようかな。」
顔を洗って、愛馬への食事を持っていき、洗濯を済ませる。そうしているうちに陽が昇り、薄暗かった街が朝に染まっていく。人の気配が動き出し、段々と音が湧いてくる。この時間が、エルローザは好きだった。
指を鳴らし、コンロに火をつける。トントンと玉ねぎを刻み、飴色になるまで炒めたら、昨日の少し残したスープと合わせて作るオニオンスープ。裏庭で取れたトマトを焼いたパンに添えたこの組み合わせは、彼女が良く食べる朝食だった。卵があれば焼くのだが、生憎今日は切らしていたらしい。昨日買って帰ればよかったな、と思ったが気が動転していて買えなかったことを思い出した。
朝食を終えると、少なくなっている薬草のチェックと、依頼されている薬を確認する。昨日採って来た薬草を補填したので、希少なものを除けば少なくなっている薬草は無い。依頼されている薬も、急ぎのものはない。これなら、今日の休日は仕事をしなくても大丈夫そうだと、エルローザは午後の計画を練った。
「おはようございます、お嬢様。」
「ルダスさん、おはようございます。」
イリスが言った通り、アニュレイ家の執事であるルダスは朝のうちに銀貨を持ってやって来た。イリスが休暇の日に店に来たことはない。今日やって来たのはルダスだけだ。
前伯爵の時からアニュレイ家に仕えているというルダスは白髪で初老の男性で、ようやくイリスが弟子と認めたエルローザの事を気にかけていた。だが、イリスはまだエルローザを養子にはしていなかったため、ルダスから彼女を屋敷へ招くことはなかった。
それでもいくつかの気遣いの言葉をルダスは告げる。エルローザは優しい人だ、と思いながらルダスの乗った馬車を見送った。
エルローザは、街で人気のパン屋でサンドイッチの詰め合わせを買うことにした。それを持って帰り、革の水筒に『ルース』で水を入れ、馬に跨ると王都を出た。そこから草原に向かって、思い切り馬を走らせる。久しぶりに全力で走る彼女の愛馬は楽しげで、体力の続くままに草原を駆けた。
スピードが落ちてきたところで、近くの木陰でひとりと1頭は昼食にした。胸に巻いたサラシの締め付けが気にならないくらい、晴れ晴れとした気分だった。
騎乗して感じる風に、少しの汗。良い天気と、美味しい食事。こんなことが、エルローザにとってはやっと手に入れたものだった。そして、そんな時に限って、胸の奥が陰る。幼かった日々を思い出して、苦しくなる。もう過ぎたことだ、とずっと前に折り合いを付けたが、ふとした瞬間に脳裏に浮かぶ。
「私の筈だったのに‥。」
しかし、今更どうしようもない。と息をつく。もうずっと前のことだ。彼女はその記憶とずっと付き合って来たので、ふと湧いた感情を閉じ込める事にも慣れていた。
そうして穏やかな木漏れ日に目を閉じる。意識がふわふわとして、少しだけ昼寝をしようかと睡魔の誘いに乗ろうとした。その時。
「君は‥‥昨日の少年、か?」
休んでいる彼女の馬のものではない蹄の音と、人の足音が近づいて来て、声をかけられた。
エルローザはゆっくりと目を開く。そこには昨日会った濡れ羽色の髪の騎士が驚いた様子で立っていた。